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麗子と直子の不感症

『ノルウェイの森』の直子も三島由起夫の『音楽』の麗子も不感症である。直子は性交痛をともなった不能であり、麗子は性交可能であるがオルガスムを得られない。

『音楽』は精神科医汐見と不感症の患者麗子をめぐる物語である。作者の三島由紀夫は精神分析を研究しており、患者の麗子も精神分析の知識を持っている。そういうわけで、汐見と麗子は作者三島の操り人形になって精神分析ごっこをすることになる。教科書どおり転移現象などもあって、めでたく麗子の不感症の理由が判るという、ちょっと出来の悪いパロディ風の娯楽小説になっている。

いささかリアリティに欠けるとしても、麗子はいちおう治癒し、オルガスムスを得られるようになるが、それに比べ『ノルウェイの森』の直子の不感症は最後まで謎のままだ。東京でワタナベと再会してからの直子は離人症的なところがあるように描かれているけれど、他方では直子の誕生日に一度だけ挿入ができて、ワタナベは「それまでに聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声」を聞くのだ。

直子の病が器質的なものであれば、その心理的な理由を探ることは無意味なことだけれど、一度はワタナベとのセックスに成功するのだから、直子の不感症は心理的なものだとも考えられる。以下、療養所でのワタナベと直子の会話。

「どうして私濡れないのかしら?」と直子は小さな声で言った。「私がそうなったのは本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに抱かれた夜だけ。どうして駄目なのかしら?」
「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることないさ」
「私の問題は全部精神的なものよ」と直子はいった。「もし私が一生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたはずっと私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけで我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解決するの?」(下巻P185)

おかしなジレンマである。好きだということは相手に欲望を持つということだ。ワタナベは直子に欲望を持っている。しかし、直子は性交不可能だから、手と唇で満足する。他方、直子は濡れないのだから、ワタナベくんに欲望を感じていない。それなら、好きでもない相手に「性的サービス」をするのはなぜか。直子が言うとおり、ただ、自分が死んでも、自分のことを忘れないで欲しいだけなのか。それとも愛があるからなのか(w)。

もちろん精神的な愛もある。欲望があっても不能ということもある。直子は「私の問題は全部精神的なものよ」と言う。しかし、はっきりした理由は判らない。ただ、直子は「私はただもう誰にも私の中に入って欲しくないだけなの」といって自殺してしまう。直子の姉も自殺している。直子の父親は、自分の弟も自殺しているので、姉娘の自殺は遺伝的なものかもしれないといっている。

直子の不感症は心理的なものでも生理的なものでもなく、存在論論的不感症だと言えばもっともらしいが、統合失調症としか思えない。そう思ってワタナベと直子が初めて寝る日のところを読み返して見ると、村上は明らかに直子を統合失調症として描いている。

 直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことや、学校のことや、家庭のことを彼女は話した。どれも長い話で、まるで細密画みたいに克明だった。たいした記憶力だなと僕はそんな話を聞きながら感心していた。しかしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に含まれている何かがだんだん気なりだした。何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んでいるのだ。ひとつひとつの話はまともでちゃんと筋もとおっているのだが、そのつながり方がどうも奇妙なのだ。Aの話がいつのまにかそれに含まれるBの話なり、やがてBに含まれるCの話になり、それがどこまでもどこまでもつづいた。終わりというものがなかった。(上巻P81)

直子は四時間以上ノンストップでしゃべりつづけ、そして彼女の話はどこかでふっと消えるようにおわった。直子の話は隠喩的ではなく、換喩的だ。

 直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやり見ていた。彼女は作動している途中で電源を抜かれてしまった機械みたいにみえた。彼女の目はまるで不透明な薄膜をかぶせられているようにかすんでいた。(上巻P84)

疎通性障害の表情である。統合失調症が人と人との情緒的コミュニケーションに齟齬を来すとすれば、エロティックな関係にも影響を与えるだろうことは想像できる。しかし、村上春樹は内面描写はしないので、それはどんなものなのか分からない。

ワタナベは直子が精神を病んでいるのを知りながら、フェラチオをしてもらい二度目の射精をしたあと、とんでもないことに、直子の下着の中に手を入れて濡れているか調べるのだ。これでもワタナベくんはやさしいと言い張るのか。

服を着てからワタナベは言う。

「それから君のフェラチオすごかったよ
直子は少しあかくなって、にっこり微笑んだ。「キズキ君もそう言ってたわ」
「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」と僕は言って、そして笑った。(下巻P186、強調:安積)

やれやれ、と言いたくなる。最初読んだとき、強調文字にしたところを「すごくよかったよ」と間違って読んだので、ワタナベが「ずっと手と唇だけで我慢できるよ」という意味で直子に言ったのかと思ったけれど、よく見たら「すごく良かった」ではなく「すごかったよ」だった。いったいヴァギナが濡れない女のフェラチオを「すごい」って、なにがどういう風にすごいのか。こんなことを不感症の女にいうことがやさしさなのか。キズキとのセックスを当てこすったとしか思えない。

ところが、直子も負けてはいない。にっこり微笑んで「キズキ君もそう言ってたわ」と挑発に乗ると、さらにワタナベが調子に乗って「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」という。キズキは、直子の不感症が原因かどうかわからないけれど、自殺している。そして、キズキの自殺が直子の発病の原因ではないけれど、すくなくともきっかけだろうに、二人でこんな会話をするなんてちょっとおかしくないか。直子だけではなく、ワタナベも精神が病んでいるのではないかと疑われる。もちろん村上フアンにはこういう会話がたまらなく好きなのかもしれないが。

「すごいフェラチオ」と言えば、アダルトビデオのフェラチオだろう。ポルノ女優は感じてもいないのに「すごいフェラチオ」をしているではないか。アダルトビデオでいつも疑問に思うのは、女が男の乳首を舐める性技だ。どうしてあんな、擽ったくさえない、無意味なことをするのだろうと思っていたら、村上の女たちはしきりに男の乳首を愛撫する。たぶん村上はアダルトビデオのファンなのだろう。昔のブルーフィルムやピンク映画にはそんなシーンはなかったような気がする。これもフェミニズムの影響かもしれない。

もちろん、ワタナベくんが直子の口唇愛撫を「すごい」とほめたのは、直子の心を開こうとしているのかもしれない。神経症なら、フロイトの患者アンナ・O嬢のいう「煙突掃除」のような効果があったかもしれない。しかし統合失調症の直子の反応はただ感情の鈍磨をあらわしているだけだ。

神経症は、抑圧された「物語」が歪められ象徴化されバラバラになって表に出てくる。それを患者と分析者で再び「物語」に組み立てる。それに対して統合失調症には「物語」がないのだ。世界は様々な感覚知覚が「統合」されたものだ。その統合する力が、弱くなったのが統合失調症だから、もともと統合失調症には物語はない。

直子は第五章のワタナベくんへの手紙に自分の壊れた世界について述べている。

『公正』なんていうのはどう考えても 男の人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの『公正』という言葉がとてもぴったりとしているように感じられるのです。たぶん何が美しいかとかどうすれば幸せになれるかとかいうのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるとか、正直であ るかとか、普遍的であるかとかね。

・・・・・・・途中省略・・・・・

私たちはたしかに自分の歪みにうまく順応しきれないでいるのかもしれません。だからその歪みがひきおこす現実的な痛みや苦しみをうまく自分の中に位置づけ ることができなくて、そしてそういうものから遠ざかるためにここに入っているわけです。ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめ られなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。そとの世界では多くの人は自分の歪みを意識せずにくらしています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にそ の部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。(上巻P177~184)


直子には病識があるということだ。古井由吉の『杳子』も統合失調症の話である。わたしの同一性はうしなわれ、共同主観性はあやふやになる。世界が壊れ、現存在の了解性がなく なる。『杳子』だけではなく、統合失調症をテーマにした作品はたいていはこの壊れた世界を描いている。したがってそれは否定神学ならぬ否定人間学であり、具体的な人間の葛藤が描かれているわけではない。(注1)

ラカンのようなポストモダンの精神分析者は神経症ばかりではなく、統合失調症も理解できると思いこんだ。症状の中に隠された物語を求めるのではなく、症状の壊れた構造から、思いつきの形式的なメタファーで本来的世界を再構成しようとする。当然それは思弁的なスコラ哲学になる。

『ノルウェーの森』は「100パーセントの恋愛小説」だというが、あるのは100パーセントのセックスだ。愛というのは意味の過剰だが、直子にあるのは意味の欠如であり、美が理解できないように愛も理解できない。愛の不可能性ではなく、性交の不可能性があるばかりだ。

ワタナベは冒頭の回想場面で「直子は僕を愛してさえいなかった」というが、そうではなく、ワタナベは「僕は直子を愛してはいなかった。ただやりたかっただけだ」と言うべきではなかったか。

このポルノ風小説をなんとか恋愛小説として最後まで読ませてしまうのは、とこどころに挿入されている人生論じみたご高説やアフォリズムと、適当に配分された登場人物の自殺が、なにか深い意味があるようにおもえるからだ。

それと統合失調症の直子に健康な緑を対比させただけではなく、PTSDのレイコを二人の間に置いたことが構成上効果をあげている。レイコはレズビアンの少女にレイプされたトラウマでPTSDになり、直子と同じ療養所に入り、直子のルームメイトになる。レイコは直子とワタナベのあいだの通訳の役割を果たし、直子が自殺したあと、療養所を出て社会に復帰することを決意する。そして友人の音楽教室を手伝うために旭川に行く途中、東京に寄って、直子の代理を果たす形で、ワタナベとセックスをする。と言う具合に三島の『音楽』よりも娯楽性が高いけれど、そのぶん「もて男」ワタナベ君の自慢話になっている。

純文学として評価できないけれど、ソフトポルノとして女性が読むのはそれほど目くじらをたてて怒ることもないだろう。個人的にはレズビアンのレイプシーンよりも、療養所での直子とワタナベのシーンのほうが読んでいて薄気味が悪い。

いったんはこれで終わります。


注1:三島由紀夫『音楽』と古井由吉『杳子』は昔読んだだけなので記憶はあやふやです。『音楽』は再読するつもりはないが、『杳子』はもういちど読んでみるつもりだ。
2009.10.12[Mon] Post 03:02  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

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