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『海辺のカフカ』の罪と罰(1)

『海辺のカフカ』は奇妙な小説である。奇妙といっても褒めているわけではない。一つの殺人事件が別々の主人公の二つの殺人として描かれている。二人は接近するのだけで、交わることはない。ただ、二人がそれぞれ殺人現場から逃れるロードムービーになっている。

一人は十五歳の少年カフカで、父親殺しと近親相姦が暗示されるだけで、村上春樹調のメタファーらしき出来事が延々とつづく。もう一人のナカタさんは猫を救うためにジョニー・ウォーカーを殺す。自首するのだが相手にされず、そのあと何かに導かれてカフカ少年とおなじ高松の図書館に行く。途中からトラックの運転手ホシノさんといっしょに旅をする。こちらもいろいろと超常現象がおきるロード・ムービーだ。

全編を通じていろいろな「メタファー」らしき出来事がつぎつぎと起こるのだが、読んでいて一向に興味がわかない。唯一小説らしい箇所は、猫を救うためには人を殺す第16章だけだ。

ここでは猫の命と人の命を天秤に掛けなければならない。もちろん常識的には猫を殺すよりも人を殺す方が罪が重い。これがジレンマになるためにはナカタさんが猫のゴマを深く愛していなければならない。

ナカタさんは猫がかわいそうだとおもっているけれど、とくべつ愛しているわけではない。ただ、約束だからゴマを連れてかえりたいだけだ。ナカタさんは子供頃、事故で気をうしない、その後遺症で記憶をうしない、字が読めなくなる。そのかわりに猫と話ができるようになった。それで、近所の人に頼まれて行方不明になった猫を探すアルバイトをしている。

愛することで、猫の命を重くするかわりに、ジョニー・ウォーカーの命を軽くすることで釣り合いをとる。ジョニー・ウォーカーの猫殺しは、無償の行為だ。根拠のない悪だ。ジョニー・ウォーカーは三味線を作るために猫を殺すのではない。猫の魂で笛を作るというのだ。魂なんかで笛がつくれるわけがない。しかもその笛の音は聞こえない。なんのために猫を殺すのか分からない。

それだけでは済まない。猫を殺すのはただ「約束」だからだ。誰にも喜ばれないし、尊敬もされない。もう猫殺しには飽きた。疲れた。でも止めるわけにはいかない。自殺もできない。これも「決まり」だ。だから、どうぞ、私を殺してくれ。殺すのが恐ろしければ、わたしがナカタさんに恐怖と憎悪を与えよう。猫たちを目の前で残酷に殺してやろう。だから、私を恐怖と憎しみを持ってきっぱりと殺してもらいたい。

人を殺せば、あとになって悔やむだろう。でも心配はいらない。私は君に殺してくれと頼んでいるのだ。この猫殺しの苦しみから私を解放してくれと頼んでいるのだ。だから、良心の呵責をかんじる必要はない。

そして、ジョニー・ウォーカーは猫を殺す。心臓を切り取って口に含み満足の笑みを浮かべる。ジョニー・ウォーカーは言う。

「止めるなら今だよ、ナカタさん。止めるなら今だ。時間は過ぎ去っていくし、ジョニー・ウォーカーは躊躇しない。高名な猫殺しのジョニー・ウォーカーの辞書には『躊躇』という文字はないんだ」

ここで思い出すのは斎藤環の「『虚構』は『現実』である」(『VOICE+』)で、『羊たちの沈黙』のレクター博士の悪について述べた次の言葉だ。

私はこれまで、映画に現れた悪の造形として、『羊たちの沈黙』におけるレクター博士を最高のものと考えていた。完全な知性をもちながら、まったく内省を欠いた存在。彼の「悪」には根拠というものがない。それゆえハンニバル・レクターには「ためらい」が存在しない。これは言い換えるなら、「内省」と「根拠」 を欠いた存在は、その存在自体が「悪」にほかならない、という意味でもある。(強調安積)

ジョニー・ウォーカーは猫を殺すのは「約束」だと言いながら、約束の相手がだれなのか判らない。自殺ができないのは決まり(掟)といいながら、所属する共同体がわからない。というわけで、ジョニー・ウォーカーの猫殺しはレクター博士の悪と同じように根拠がない。

*     *     *

以上の文は、一ヶ月まえに書いたまま中断していたものだ。はじめは、『猫と庄造とナカタさん』というタイトルで、谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のおんな』と村上春樹の『海辺のカフカ』のそれぞれの主人公、庄造とナカタさんの猫への愛情を比較してみようと思った。というのも、ナカタさんは猫のために人を殺すのだから、猫に深い愛情がなければならない。

ところがそんな強い愛情はナカタさんにはない。ただ、子供の頃の事故のため猫の言葉が話せるようになっただけだ。ナカタさんは「無垢の白痴」であり、ジョニー・ウォーカーは「シジフォスの不条理」を生きている。

斎藤環はハンニバル・レクターの悪には根拠がない。いや、根拠がないことそのこと自体が悪だという。もちろん悪に根拠がなければ正義にも根拠はない。根拠がないことは悪でもありうるし、正義でもありうる。シェリングは神は無根拠だという。これは一種の否定神学であり、神は究極の根拠を超えた無根拠だという。そして否定神学は、神の似姿としての人間の自由の問題になる。人は善をなすことも悪をなすことできる自由な存在だ。

否定神学は、精神分析と史的唯物論に補強されてサルトルの実存主義になる。神はそうであることによってではなく、そうではないことによって直接知られると、否定神学はいう。そしてサルトルは、そうであるところのものである即自にたいし、人間存在である対自は、そうでないところのものであるという。

サルトルの実存主義は神なき否定神学であり、人間は自由に呪われていることになる。シェリングの人間も自由であるが神を認識できるかぎり、善と悪を区別することができるが、サルトルの神なき自由な人間は、ただ社会にあるいは世界にアンガジュマンするほかないのだ。

宇野常寛の「決断主義」はサルトルの「アンガジジュマン」の倫理に似ている。サルトルの人間学からマルクス主義をとり、精神分析を残して、日常生活のアンガジェを決断主義といっているように思える。『ゼロ年代の想像力』は全部読んではいないので、はっきりしたことは言えないが、宇野常寛や斎藤環のサブカル批評は「神なき否定神学」ではないかとうたがわれる。

そういうわけで、もうすこしサブカル批評を勉強することにして、次回につづきます。
2009.11.28[Sat] Post 01:48  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

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