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ワタナベ君とチャタレイ夫人(1)

『ノルウェーの森』と『チャタレイ夫人の恋人』の構造は似ている。

『ノルウェーの森』の主人公ワタナベ君は不感症の直子と健康な緑との三角関係で、チャタレイ夫人は不能の夫を捨てて、健康な森番のメラーズを愛する。

ワタナベは、自殺したキズキの恋人直子と東京で再会する。二人のあいだに愛らしき感情が生まれ、一度は完璧なセックスに成功するけれど、再び不能の状態になる。直子はワタナベに手淫と口唇性技で射精を手伝う。他方ワタナベは緑とポルノ映画を見たり、キスをしたり、セックスについて冗談を言い合いながら、友達ごっこする。

緑とのじゃれ合いは欲望と愛情にかわっていく。反対に、直子が療養所に入ることで、二人のセックスレスの愛情はしだいに曖昧になっていく。緑との関係をレイコに手紙で知らせるけれど、はっきりとは直子と別れるとはいわない。ワタナベくんは恋愛の駆け引きにおいていつも受け身であり、自分から積極的に振る舞うことはない。いうならば無責任なのだ。ワタナベくんは、性的野心なんかないふりをして女性に近づく。あるいは、永沢の恋人ハツミとは当然寝ると読者に思わせておいて肩すかしをくわせるたりする。(思う方が悪いんだがW)

肝心の直子の性交恐怖症の「理由」については、叔父と姉が自殺していることにふれているだけで、おそらくこのラブストーリーの一等重要な鍵であるはずのことに、直子がレズビアンであることをにおわせるだけで、ほとんど何もふれない。この小説の瑕疵とも言うべき構造上の欠陥を読者が見逃してしまうのは、ワタナベ君の「固くて太い」魔法の杖が、いずれ直子の性交恐怖を癒すとにおわせているからだ。村上春樹がいつも読者を騙すと言う意味なら、蓮見重彦が「結婚詐欺」と言ったことは正鵠を得ている。

ところが、ワタナベ君は性交不可能な直子から性交可能な緑に乗り換え、しかも緑とは性交せずに、直子と同じように「手コキ」で射精する。と言うことはワタナベ君は、愛とは「挿入」ではないと言いたいわけで、「手コキ」をさせることで直子と緑を同等に扱っているつもりなのだ。

いったい、これは、ワタナベ君の優しさなのだろうか、それとも自分勝手なエゴイズムなのだろうか。女性の性的欲望に無頓着な点では、ワタナベ君はたしかにエゴイストなのだが、直子はワタナベ君のものを口に含むのだし、緑は自分の下着を汚してもかまわないと言う。そもそも、挿入を拒否するフェミニストもいるわけで、手コキはむしろ女の男への暴力でもある。

村上春樹は物語の構造をいつも開いておく。開いておくというと聞こえがいいが、いつも二重の解釈ができるように曖昧にしておく。というより話は逆で、解釈しようとするから、曖昧にみえてくるのだ。ワタナベくんは、ただ、ああ言えばこう言ってるだけだ。

そして、ワタナベくんの決意とは関係なく、直子は自殺する。ワタナベくんは直子を救えなかったからか、あるいは直子に逃げられてしまったからか、悲しくてどうすることもできなくて、教科書どおりに一人旅にでて、夕方の浜辺で涙を流す。そして、慰めてもらったのか癒してやったのか、直子の形見の服を着た十九歳年上のレイコと四回交わる。

レイコとワタナベのセックスは、二つの役割を交代に演じながら、一種の互酬性が成り立っている。レイコは年上の女と十七歳の女の子を、ワタナベは初な少年と性技にたけた大人の役割を分担し、慰めと癒しを交換する。

レイコが旭川に旅発ったあと、ワタナベは緑に電話して、「世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会ってはなしたい。何もかも君と二人で最初から始めたい、」と調子のいいことを言う。それまで放っておかれた緑は「あなた、今どこにいうの?」と静かな声でいう。それでも、ワタナベ君、懲りもせず、その緑の問いを「僕は今どこにいるのだ」(傍点つき)と、まるで自分のアイデンティティーを問うように、「僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼びつづけていた。」という文でこの小説は終わる。

やれやれ、と思うでしょうが、これで話が終わったわけではない。小説の結末は小説の冒頭の悪名高き飛行機のシーンの「直子は僕のことを愛してさえいなかった」という回想につながっている。やれやれ。

最終的な評価はさておいて、この小説が多くの読者を獲得したのは、ソフト・ポルノだからだろう。ポルノの通例にもれず、ここには性に関する批判的考察もなければ、男女の深い心理分析もない。ただ若者の背伸びしたセックスの駆け引きをおもしろおかしく描いた風俗小説にはちがいない。

問題はそこから何か新しいものが生まれたかどうかである。小谷野敦は藤堂志津子の冷徹な男女の心理描写を例にワタナベ君の優男ぶりを批判しているけれど、そもそも、『ノルウェーの森』には、藤堂志津子の男女間の階級や年齢や社会的地位の差から生じる心理的軋轢の分析のようなもの一切ない。

むしろ、そんなものがないのが村上の世界なのだ。それは、レイコとワタナベの性交場面によく表れている。ここには年齢も性別も階層もこえた、お互いにいたわり合った「優しい」セックスがある。

さて、そのことを確かめるために、おなじ不能の問題を扱った『チャタレイ夫人の恋人』と比較してみよう。このロレンスの小説は、階級や性の解放や機械文明が主題なのだが、ある意味では、性における「優しさ」がテーマでもある。

つづく



2009.08.25[Tue] Post 02:47  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

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