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ジャクソン・ポロックの問題(1)

村上春樹の『1Q84』の影響もあって、しばらく絵画について書いていない。芸術の秋も近いことだし、すこしずつ絵画についても書いていくつもりだ。



  『日本の美術館名品展』(東京都美術館)4:ジャクソン・ポロック

Jackson Pollock《無題》
Jackson Pollock 《無題》(1946年) 富山県立近代美術館



ポロック問題と名付けるべき問題がある(わたしが勝手にいっているだけだが)。ポロックを理解できる人間と出来ない人間がいる。セザンヌに関しても同じ事が言われる。会田誠はセザンヌが分からないという。セザンヌのどこがすごいのか、なぜ、そんなにいろんな言葉がくっついてくるのか分からないと会田は言う。私にはポロックがそういう画家だ。

グリーンバーグは評論「『アメリカ型』絵画」のなかで、デ・クーニングの分かりやすさは、ポロックを理解できない人々を安心させると言っている。これはもちろん「浅い空間のイリュージョン」にかかわることなのだが、技法から見れば、具象性の処理の仕方と筆のタッチの問題だろう。

デ・クーニングが分かりやすいのは、抽象画の成立の流れのなかで、古い絵画制度を残しているからだ。それに対してポロックのオールオーバーな絵画は、全くといっていいほど、それが具象画の制度であろうが抽象画の制度であろうが、それまでの古い絵画制度と縁を切っている。

川村美術館にポロックの《緑、黒、貴褐色、のコンポジション》(1951年)がある。これはドリッピングあるいはポード絵画なのだが、どこがおもしろいのか私にはわからない。左上に馬のような形がみえるのだが、デ・クーニングの「女」とちがって、壁のシミが偶然にそう見えるのと同じで、なんの感動もない。

おなじように浅い奥行きのイリュージョンも見えるのだが、それは「知覚心理学的な立体視」であって、ロスコやニューマンの具体的な図像主題のイリュージョンではない。

ポロックの革新性は頭では理解できるのだが、どうしても描かれた絵画としての訴えるもの、すなわち、わたしがいつも言っている《物理的絵画、絵画客観、絵画主題のあいだの弁証法的戯れ》が、ロスコやニューマンのようには無いような気がする。

それで、この富山県立近代美術館所蔵のこのポロックの絵をみた。まだ、オールオーバーなポード絵画以前の習作的な作品である。下層の絵画は構成的であるし、なにか動物のようなものも描かれている。その上からエナメルがドリッピングされている。ドリッピングとペインティングの混交重層のように見える。ここから上層のドリッピングだけがキャンバスの全面を覆って行き、ポード絵画が生まれた。芸術の純粋化というモダニズムの流れだ。

ポロックがこの絵からポード絵画に至ったことを思えば、岡崎乾二郎や津上みゆきなどの試みも意味のあることなのかもしれない。

『ジャクソン・ポロックの問題(2)』へ
2009.08.15[Sat] Post 00:51  CO:0  TB:0  -ジャクソン・ポロック  Top▲

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