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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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木下先生は心のオアシスでした

1991年頃の木下先生は、ブログ主様の(たぶん古いであろう)在籍年代の頃と違って、独自の教材を生徒に有料(たしか1000円以内だったと記憶してます)で配っておられ、自分はその時にお金が無かったので、後ほど持参したら、「お金はいいよ」と言ってくださいました。晩年の木下先生は御年を召していたせいもあったかもしれませんが、教科目同様、「無私な人」という印象が強く自分の記憶には残っています。印象が異なるのは、ブログ主様の言う時代と時代背景が異なるのも当然あるのでしょう。

当時の自分は学年で後ろから数えて10番台の見るも無惨な成績、皆が受験科目を内職しているなか、自分だけ顔を上げて授業を聞いていたりしてました。倫理の授業でしか当時の自分の心の中の最大の葛藤であった「個人主義」の模索を果たせなかったので関心をもって聞いてました。またある時、途中で私用で授業を一人で抜け出したりして、先生の印象に少しばかし焼きついていたのかもしれないですが。

そんな超落ちこぼれの自分でも、C大から先は司法試験を受けたりして学業面でも幾分かは立て直しをはかれたのですが、今思い返してみても当時の木下先生の授業は、惨めな高校時代の中でも心のオアシスの一つだったと思います。ちなみに日比谷高ウィキの大方も含めて、木下航二ウィキも自分が以前に書きました。あしからず。


2010.06.06[Sun]  投稿者:通りがかり  編集  Top▲

No Subject

私も高校で教わりました。
嘱託というのでしょうか、もう最晩年だったのだと思いますが、選択であった倫理を受けていました。生徒は数人という感じでしたが、たしかに独自教材でした。確か実費500円を払った記憶がありますが、哲学の有名人を1人1ページにしたもので、授業は1回1人についてでした。
私はいつも大変感動していました。深い理解と洞察が伝わったからです。思想的にはあとから知って、私のような者にはなかなか付いていけませんが、ただ、日比谷の思い出のひとつとして、木下先生は非常に大きいです。

さとうひろし
h-sato@mri.co.jp
2011.12.04[Sun]  投稿者:-  編集  Top▲

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木下航二の密かな楽しみ

木下航二の名を知る人は少ないだろう。Googleで検索すると917件(6/21現在)にヒットする。その多くは『原爆を許すまじ』の作曲家としてだ。わたしが知っているのは高校の時に教わった社会科教師の木下航二だ。

ウィキペディアには以下の説明がある。

東京府出身。東京府立一中、旧制一高を経て、東京大学文学部東洋哲学専攻卒業。すぐに都立日比谷高校教諭となる。1954年、ビキニ環礁上にて水爆実験が行われ、第五福竜丸が被爆、原水爆反対の署名運動に参加し、「原爆を許すまじ」を独学で作曲した。曲は当時の「うたごえ運動」にのって全国に広まり、翌年に第1回原水爆禁止世界大会で参加者に歌われた。 1960年代後半まで校歌・組合歌など80曲あまりを作曲したが、以後作曲から手を引き、昇進も断り母校にて独自の教材を基に倫理・社会教諭として1991年まで教壇にたった。

最後のところは美談仕立てだが、果たしてそうか。森一郎は後にベストセラーになる『試験に出る英単語』のガリ版刷りを配って、「ソーンダイクはだめだよ」と言っていたが、木下航二の独自の教材なんてみたことがない。多感な高校一年生に倫理の話をするならいくらでも面白く出来たはずだが、そんな授業はいちどもなかった。

それでも憶えている授業はある。朝鮮戦争ではどちらが先に攻撃したかの話や、関東大地震のときの朝鮮人迫害の話は、そのときの表情まで、よく憶えている。けれど、何より忘れられないのは部落問題の授業だ。あいうえお順に全員に部落問題をどう考えるか言わせるのだ。はじめは半信半疑だった生徒も、執拗に席順(アイウエオ順です)に指名していくのを知って、しだいに教室は息苦しい雰囲気が支配し始めた。

たぶん東京に住んでいれば部落のことなどしらないし、知識として知っていても関心はない。それでも、差別は絶対いけないと言わなければならないことはみんな知っている。なかには、すでに社研に入っていたり、父親が共産党員だったり朝日の記者だったりして、どうどうと差別反対の意見をのべる同級生もいたけれど、おおかたは、もぞもぞと差別反対の意見を述べていたように記憶する。

わたしの席順は27番目だったのだが、何を言えばいいのか、たぶん部落問題のことは知らないと正直に答えるべきだったのだが、とてもそんなことを言える雰囲気ではなかった。それで小学生のころ両親の田舎に行ったとき耳にしたことをはなし、差別はやっぱいけないと思いますとまるで幼稚なことを言った。同級生は笑ってくれるかと思ったが、誰もわらってくれなかった。

これは、どう考えても「総括」である。木下先生はたぶん毎年入ってくる新入生に、いきなり「君たちの心の中に差別意識がないか」という問いをつきつけるのを楽しんでいたのではないか。だから、木下先生は最後まで一介の社会科教諭として教壇にたっていたのだ。

というわけで、この一文を『木下航二の密かな楽しみ』とする所以である。
2009.06.21[Sun] Post 23:39  CO:2  TB:0  人権テロ  Top▲

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木下先生は心のオアシスでした

1991年頃の木下先生は、ブログ主様の(たぶん古いであろう)在籍年代の頃と違って、独自の教材を生徒に有料(たしか1000円以内だったと記憶してます)で配っておられ、自分はその時にお金が無かったので、後ほど持参したら、「お金はいいよ」と言ってくださいました。晩年の木下先生は御年を召していたせいもあったかもしれませんが、教科目同様、「無私な人」という印象が強く自分の記憶には残っています。印象が異なるのは、ブログ主様の言う時代と時代背景が異なるのも当然あるのでしょう。

当時の自分は学年で後ろから数えて10番台の見るも無惨な成績、皆が受験科目を内職しているなか、自分だけ顔を上げて授業を聞いていたりしてました。倫理の授業でしか当時の自分の心の中の最大の葛藤であった「個人主義」の模索を果たせなかったので関心をもって聞いてました。またある時、途中で私用で授業を一人で抜け出したりして、先生の印象に少しばかし焼きついていたのかもしれないですが。

そんな超落ちこぼれの自分でも、C大から先は司法試験を受けたりして学業面でも幾分かは立て直しをはかれたのですが、今思い返してみても当時の木下先生の授業は、惨めな高校時代の中でも心のオアシスの一つだったと思います。ちなみに日比谷高ウィキの大方も含めて、木下航二ウィキも自分が以前に書きました。あしからず。


2010.06.06[Sun]  投稿者:通りがかり  編集  Top▲

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私も高校で教わりました。
嘱託というのでしょうか、もう最晩年だったのだと思いますが、選択であった倫理を受けていました。生徒は数人という感じでしたが、たしかに独自教材でした。確か実費500円を払った記憶がありますが、哲学の有名人を1人1ページにしたもので、授業は1回1人についてでした。
私はいつも大変感動していました。深い理解と洞察が伝わったからです。思想的にはあとから知って、私のような者にはなかなか付いていけませんが、ただ、日比谷の思い出のひとつとして、木下先生は非常に大きいです。

さとうひろし
h-sato@mri.co.jp
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