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『ぐるりのこと』橋口亮輔監督

『ぐるりのこと』は期せずして『おくりびと』の批判になっている。

『おくりびと』も『ぐるりのこと』も夫婦の和解の物語とひとまずは言える。『おくりびと』はベタな和解の物語である。死んだ父親とも和解してしまうという、和解の大安売りである。それにくらべ『ぐるりのこと』にはそもそも誤解がない。誤解がなければ和解もない。

『おくりびと』は登場人物のアイデンティティを求める。過去を説明し、物語を語る。そして、それにふさわしいセットがあり小道具がある。役者はそれにふさわしい演技をし、観客はそれを見て涙をながす。そして、世界はふたたび秩序を取り戻す。

映画はリアリズムである。しかし、倒錯したリアリズムだ。われわれは、演技をしている俳優を見るのではなく、内面をもった登場人物を見る。ところが、『ぐるり』は演技そのものをみせる。下手な芝居という意味ではない。ここでは、映画のリアリズムが演技によって内面を暴くのではなく、表層の演技そのものが内面であるようなリアリズムなのだ。

夫婦の仲直りを木村多江とリリー・フランキーがわざとらしく演じる。そして、その演技がそのままカナオと翔子の仲直りごっこになる。カナオと翔子は、『おくりびと』の夫婦のように誤解が解けて和解したわけではない。ただ、ともかく仲良くやっていこうと、お互いにぎこちなく、仲直りの演技を演技する。

木村多江とリリー・フランキーが翔子とカナオのわざとらしい仲直りの演技を、自然に演技しているということだ。もちろんわざとらしく演技しなければ、わざとら しさは表現できない。だからといって、わざとらしさをわざとらしく演技したらギャグになる。このジレンマを回避するのが映画のリアリズムであり、演技の二重性だ。

死んだ子供のことを思い出して悲しみにくれる翔子が突然地団駄を踏む。その足のアップは、この映画のなかで最も感動的な、演技の二重性をあらわす優れたカットだ。たぶん、上半身がフレームの外にある木村多江は笑っているのではないかと思わせる。もともと地団駄というのは芝居がかった動作である。

演技の二重性が一番良く分かるのは法廷のシーンだ。裁判はもともと演劇的なものだ。裁判官は正義と公平を演じている。犯人は、自分は無実だ、責任能力がない、あるいは、早く殺してくれと極悪人の役を演じる。また、涙を流して情状酌量をあてにする。被害者の家族は泣いたり叫んだり退廷したり、あるいは、遺影を持ち込んで被告を死刑にして欲しいとうったえる。だれもが裁判所ではピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』だ。

法廷は劇場空間で、そこで裁判官と検事と弁護士、被告と被害者の家族が競演する。真実ではなく真実らしく見えることが大切だ。法廷内部は写真ではなく、法廷画家のスケッチを使うのも裁判が真実ではなく、真実らしさが重要だからだ。先輩の法廷画家だったと思うが、「もっと悪人面に描いて」とカナオに言う場面があった。二重の演技で裁判の持つ虚構性を批判しながら、動機とか責任能力とか情状酌量とか深層心理とかいった人間心理の紋切り型の解釈を拒絶する。真実は表層にある。

わたしの好きなシーンはラストの和解のシーンだ。カナオが翔子にキスをしようとしたけれど、顔が涙でぐじょぐじょだからキスが出来ないと言って、翔子にティッシュを渡す。翔子が洟をかみ終わるのをカナオは待つのだが、その二人の間の抜けた感じがとてもよい。洟をかんだあと、翔子は唇を近づけるのだが、カナオは唇ではなく、鼻の頭でもなく、その上の鼻梁にちょこっとキスをする。そりゃないだろう、カナオさんとおもうが、まさかハリウッド式のキスじゃ仲直りごっこには似合わない。

『おくりびと』がベタな映画だとすれば、『ぐるりのこと』はメタフィルムである。翔子の兄夫婦がカリカチュアとして描かれているのは、翔子カナオ夫婦と対照させるためだが、そんな必要があったか疑問である。せっかくのメタ・リアリズムがリテラレルになって、映画が凡庸になってしまう。トンカツ屋の息子が翔子の兄のみそ汁に唾を垂らして、そのみそ汁を兄が飲む場面には思わず顔を背けてしまった。ウンコなリアリズムである。

たぶん、映画監督というものは、観客が理解してくれるかどうかいつも不安なのだ。だから説明したくなる。小津安二郎は台詞が不自然になるまで俳優に繰り返させたという。また、イマジナリーラインを越えた不自然な切り返しのショットを使う。そうすることで、映画のリアルなイリュージョンをフィルム表層のイメージに還元し、映画のメタなリアリズムを生みだしている。小津は説明しない。橋口亮輔が小津を超えたとはいわないが、日本映画の伝統を受けついでいくのは、北野武ではなく橋口亮輔だろう。

PS:映画を見たあとで知ったのだが、橋口亮輔はゲイであり、カミングアウトをしているそうだ。そういわれれば、そうだと納得するところもあるけれど、この映画の演劇性を、偽装結婚しているゲイの演技と解釈しては、この映画の面白さは分からなくなる。

これで、『アキレスと亀』『おくりびと』『ぐるりのこと』と夫婦をテーマにした映画を三本続けてみたことになる。
2009.06.12[Fri] Post 14:09  CO:0  TB:0  映画  Top▲

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