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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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P.K.ディックの、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」が原作ですね。
何十年も前に読んだので詳しくは覚えてませんが、原作では、
レイチェルと敵方の女アンドロイド(映画では股で首をしめて攻撃してきた女)が、まったく同じ型で外見も同じという設定でした。さらに、いかがわしげな宗教や、おかしなディスクジョッキー、など、映画とは違って、複雑で混乱させる要素が絡み合った状況設定でした。
それでも、「パーマーエルドリッチの三つの聖痕」その他のディックの代表作に比すれば、その状況設定からくる混乱の度合いは、おとなしいほうでしょう。
ディックは、感情移入能力(共感の能力)を欠いた、ある種のサイコパスのような人間を、冷たい機械のように考え、逆に、もし機械に感情移入能力があるとすれば(少なくともそう見えれば)、それを人間に近い存在と考えても良い、と思っているようです。
原作には、アンドロイドのように冷たい人間として、主人公と協力するもうひとりのバウンティング・ハンターが登場し、彼と組んでアンドロイドを抹消した主人公が、混乱をきたす場面が出てきます。
P.K.ディックの作風は、やたら本物とニセモノ、現実と幻想などの混乱が見られ、それが最後まで不分明のままで終わることが多いのです。私は、若い頃は、これが快感で読んでいましたが、これはご指摘の、物理的現象の知覚によって「間接的に」与えられる三人称の意識に直接性を求める無理と関係しているのかもしれません。あらゆる見かけがそっくりで、本物とニセモノが識別がつかない場合、本物の定義ってなんだかわかりませんから。
2009.05.19[Tue]  投稿者:ヒドラ  編集  Top▲

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『ブレードランナー』リドリー・スコット監督★★★

『「意識」を語る』の記事で、『ブレードランナー』のことを思い出した。それでゲオでDVDを借りてきた。三種類あったけれど、そのうち二枚を借りてきて、最初の劇場公開版を通しで見て、あとは結末の部分や変更されたところを適当に見た。(バージョンによる違いはWikiを見て欲しい)

ヴァージョンの違いは、レイチェルの寿命が4年なのか永遠なのかの違いと、デッカード(ハリソン・フォード)が人間なのかレプリカント(7型)なのかの二点の違いだ。この映画がカルト・ムービーになったのは、バージョンがたくさんあることにくわえ、シナリオの変更でいろいろと矛盾が生じたため、マニアが蘊蓄をかたむけるのに好都合だったからだ。

ロボットが意識をもてるかどうかの問題は、基本的に感情があるかどうかの問題に還元されている。

レプリカントかどうかのテストは、道徳に関する質問をして瞳孔の変化を見るという嘘発見器のような方法で、質問というのが、「砂漠でひっくり返った亀がいる、君はどうするか」といったようなものだ。最後に母親のことを質問しよとした試験官はレプリカントに殺される。(レプリカントには母親の記憶がない)

*慰安婦用に製造された女性用レプリカントも「数年たてば感情が生まれるらしい」という台詞。
*「レイチェルに記憶を与える」とタイレル博士の台詞。
*感情表現のないロボット人形が出てくる。
*レイチェルがピアノを弾く(ピアノが弾ける女性の記憶が与えられている)。
*デッカードはレイチェルに恋をする。レイチェルも変な感じ・・・・・デッカードはキスをしようとして途中でやめる(レイチェルその気なし)・・(数日後?)・・ふたりキスをする(レイチェル冷感症)・・・・・デッカードはレイチェルに"I want you"と言えという。・・・・・レイチェルは言う(ちょっと気分が出てくる)・・・・・ふたりSEXをする(たぶん)・・・・・くだらん(僕の感想)
*レプリカントのバッティ(ルトガー・ハウァー)が自分の寿命が尽きたと知って、**星雲の思い出を語りながら、デッカードの命を救う(良心が芽生えたということ)

など、結局のところ「良心」とか「愛」の感情が人間の証みたいな話になっていて、レプリカントに「我思う故に我在り」と言わせてみたり、液体窒素のなかに手を入れても平気みたいなシーンもあったけれど、結局、最後は意識の問題ではなく、愛する人がもうじき死ぬから哀しいとか(これは『ある愛の詩』)、これまでの人生を捨てて新しい人生をはじめる勇気があるか(これは『マディソン郡の橋』)など、けっこうありきたりのラブ・ストーリになっている。しかし、そう思って見れば、SFの舞台背景がラブストーリーに似合って、なかなかの佳作ともいえる。

リドリー・スコットのSFとしては、人間と区別できない『ブレードランナー』のレプリカントより、機械と生物のハイブリッドの『エイリアン』のほうが、シガニー・ウィバーとのあいだに微妙な恋情のようなもの(禁断の愛だw)が生まれたようで、わたしは『エイリアン』の方がすきである。
2009.05.18[Mon] Post 17:16  CO:1  TB:0  映画  Top▲

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P.K.ディックの、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」が原作ですね。
何十年も前に読んだので詳しくは覚えてませんが、原作では、
レイチェルと敵方の女アンドロイド(映画では股で首をしめて攻撃してきた女)が、まったく同じ型で外見も同じという設定でした。さらに、いかがわしげな宗教や、おかしなディスクジョッキー、など、映画とは違って、複雑で混乱させる要素が絡み合った状況設定でした。
それでも、「パーマーエルドリッチの三つの聖痕」その他のディックの代表作に比すれば、その状況設定からくる混乱の度合いは、おとなしいほうでしょう。
ディックは、感情移入能力(共感の能力)を欠いた、ある種のサイコパスのような人間を、冷たい機械のように考え、逆に、もし機械に感情移入能力があるとすれば(少なくともそう見えれば)、それを人間に近い存在と考えても良い、と思っているようです。
原作には、アンドロイドのように冷たい人間として、主人公と協力するもうひとりのバウンティング・ハンターが登場し、彼と組んでアンドロイドを抹消した主人公が、混乱をきたす場面が出てきます。
P.K.ディックの作風は、やたら本物とニセモノ、現実と幻想などの混乱が見られ、それが最後まで不分明のままで終わることが多いのです。私は、若い頃は、これが快感で読んでいましたが、これはご指摘の、物理的現象の知覚によって「間接的に」与えられる三人称の意識に直接性を求める無理と関係しているのかもしれません。あらゆる見かけがそっくりで、本物とニセモノが識別がつかない場合、本物の定義ってなんだかわかりませんから。
2009.05.19[Tue]  投稿者:ヒドラ  編集  Top▲

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