ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/514-298f90c4
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(1)


山形浩生氏の解説はいつも身も蓋もない。しかし、『意識を語る』は山形氏の解説よりも本文の方が、さらに身も蓋もなく明快だ。意識の問題をどう設定すれば良いのかいろいろ提案している。もちろん答えがあるというのではなく、問うことで問題の所在を明らかにする。

まずコギトがある。自己意識があることは誰も反対しない。また、目の前にいる他人も意識を持っている。日常的な態度では、自我と他我はいつもペアになっている。

コギトの自己意識は明晰だ。しかし睡眠時の意識は明晰とはいえない。フロイトの無意識もある。思い出に浸る自己もある。

他人の意識は直接与えられるわけではない。人形振りという寄席芸がある。人間が人形のように動いて見せる芸だ。泥鰌掬いを踊る。意識のない人形に見える。もちろん芸がおわればもとの人間にになる。

反対のことも言える。ASIMOが一生懸命走っている姿には半分意識が生まれている。もちろんASIMOが人型ロボットだからだ。走行している車には意識がない。

動きや形が生命や意識を生む。物質が生物になるのは現象的には形と動きを通してだ。石ころか生物か判らない形をしたものを見つけたら蹴飛ばしてみる。転がっていけば石ころだし、あわてて逃げ出したら生き物だ。動かなくても左右対称ならば、生き物の死骸かもしれない。そして解剖したりして研究する。自己複製とかホメオスタシスなどの生命の定義がうまれる。定義をしたからと言って、われわれの生命の理解が変わるわけではない。

意識も同じことだ。「人形振り」は意識がないように見えるけれど、踊り終わってふつうに動いて喋り始めれば意識のある人間だ。意識があると思っても、解剖して内部が機械ならロボットだし、血や肉があれば人間だ。

こんなことが言えるのは、生物(動物)にしか意識が生じないという暗黙の前提があるからだ。もちろんこれは日常的な感覚では正しい。三人称の意識は動作や姿形や表情を通して与えられる。だから、人型ロボット(レプリカント)には意識が生まれる。もちろんあとでロボットだと判ることもある。それでも人間に見えることもあるし、ロボットに見えてしまうこともある。それでいいのだ。

三人称の意識は本来そういうものだ。意識現象と物理現象の相関をニューロンのレベルだろうが量子力学のレベルだろうが、研究したければ、勝手に研究すればいい。ただそれがうまくいっても、わかるのは相関関係だけだ。色と光の周波数との対応関係がわかっても、赤の赤さは分からない。意識のクオリアは意識に直接与えられるほかない。意識は常に「あるものについての意識」であるとともに、その「意識についての意識」である。

ところが「意識学者」は第一人称の意識の直接性を三人称の意識に持ち込もうとする。もともと物理的現象の知覚によって「間接的に」与えられる三人称の意識に直接性を求めるのには無理ある。あるいはむしろ無意味である。それにもかかわらず、かれらは二つの問いを発する。

ひとつは、「哲学者のゾンビ」の問題だ。ゾンビというのは、外から見えれば、言葉を話したり、涙を流して悲しんでいるのだが、言葉の意味や悲しみのクオリアをまったく意識も理解もしていない人間のことだ。もちろんこれは疑似問題で、わざわざゾンビにすることはなく、他者は私と同じように意識の直接性を持っているかと問えば良い。

もう一つは、「人工知能の意識」の問題。これは非ヒトガタ(人型)コンピューターのことで、通常はいくら高度な計算能力を持っていても、あるいはチェスが強くても、意識があるとは思わない。HAL型では意識を持つことはない。姿形(すがたかたち)動作が人でなければ、人工知能に「感情移入」できないからだ。ここで意識というのはたんなる計算能力ではない、意志の自由や創造性などのことだ。これは意識の直接性とは別の問題だ。ちなみに人型ロボットの鉄腕アトムには良心回路が組み込まれている。

一番目の問題と二番目の問題をあわせたものがレプリカントの問題だ。もし、人間と全く区別できないのなら、意識があるということだ。わざわざ区別する必要はない。映画『ブレードランナー』では、レプリカントか人間か判定する鑑定人がいるのだが、そうだとすれば、これもやっぱり最初に書いた生物か機械かの区別の問題になる。映画の展開はよく憶えていないが、たしか、鑑定士がレプリカントの疑惑のある女を愛するという話だったような気がする。それならどっちにしろ意識があるということだ。

「哲学者のゾンビ」や「人工知能の意識」の問題は、一人称と三人称の意識を区別して、一方を他方で説明しようとすることから生じた混乱なのだ。

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(2)へつづく
2009.04.18[Sat] Post 02:21  CO:0  TB:0    Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(1) のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/514-298f90c4
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。