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はじめまして。高島野十郎を検索中に辿り着きました。

私も昨年「三鷹市民ギャラリー」で彼の作品に接する機会を得ました。

私自身は彼の作品を観て、彼の求道者的な生き方に感銘を受けましたし、作品の裡にある微細な、まさに「現代美術」の語彙では語ることの出来ないであろう、ある「香り」(気配、と表現してもよいですが)を感知するものであります。

おそらく彼には、世界が存在することそのものに驚いた瞬間があったのでしょう。
それゆえの「写実」であった、と少なくとも私は解釈しております(逆に言えば、世界が存在することにいちいち驚愕していたら「現代美術」は成立しないのでしょうけれども・・・まさに「技術」が「存在」を駆逐する、とハイデガーが予言したとおりですが)。

それは措いても、太陽を直視しその視覚象を克明に描く、もしくは目を閉じ瞼の裏側の視覚象を克明に描くなどという行為は美術史上の一大事件とも思え、これに言及しない美術評論は怠慢の謗りを免れないのではないかとひとり密かに考えておりますが、いかがでしょうか。
2007.06.04[Mon]  投稿者:高橋 聖一  編集  Top▲

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高島野十郎展(三鷹市美術ギャラリー)★★☆

高島野十郎の絵は深遠な宗教画だろうか、それとも退屈な写生画だろうか。

  高島野十郎
 高島野十郎展はあまり気が進まなかった。というのも、久世光彦がカタログに何か書いていると聞いて、久世が褒めているなら面白くなかろうと勝手に決めて いたからだ。
  それでも、『蝋燭』は以前から気になっていたので、いい機会だからと見に行くことにした。 久世には、山本夏彦との共著『昭和恋々』がある。山本夏彦の名前につられて、買って読んだ。読んだと言っても、あまりのつまらなさに途中で投げ出した。夏 彦が書いた部分も上出来とは言えないが、それでも昭和の匂いがする。しかし、久世の書いたものには昭和の気配などどこにもなかった。
  夏彦と光彦では年齢が違うと言われればそうかもしれない。しかし、久世の文章の読みにくさは比類がない。調べて書いたような比喩や、生半可な知識、それ に下手な起承転結で、悪文の見本みたいな文章だ。  そもそも、山本夏彦は、向田邦子の昭和という時代へのこだわり、誰もが知っているが、誰も言葉にしなかったことを書いた向田の才能を惜しんだのだが、い つの間にか久世はそれを自分の手柄にしたのだ。不思議な才能である。
  と言うわけで、女房は、久世光彦と聞くと、何が何でも毛嫌いする。それでは、あまりに高島野十郎に不当だし、第一、絵とは関係ないではないかと言っても きかない。中央線に乗って東京から三鷹に着くまで、女房はずっと「つまらないに決まってる」と繰りかえす。しまいに三鷹のホームで待ってるとか、品川の駅 中で待ってるとか言い出す。いい加減あきれはて、ほっておいて、三鷹美術ギャラリーに行った。女房はふくれてついてくる。
  客は結構多い。入り口の四枚の自画像のところで、人が溜まっている。たしかに上手な絵だけれど、どこか魅力に欠けている。むかし田舎に行くと、大抵のう ちに写真をもとに描いた先祖の絵が欄間に掛かっていたものだが、そんな肖像画に似ている。ナルシステックな表情や光の巧みな処理があるけれど、何故かすぐ に飽きてしまう絵なのだ。人を引きつける魅力に欠けているのだ。この欠点は形を変えて生涯、野十郎について回ったような気がする。
  静物画の果物や花は作り物に見えるし、花瓶はスルバランより巧みに描かれているのだが、どうしても安物にしか見えない。もちろん安物をそのまま安っぽく 描いただけだとしても、そのリアリズムを楽しむことはできない。  風景画は静物画以上に魅力がない。外国へ行ったときの風景画も、たしかにタッチが荒くなってはいるのだが、その結果は代わり映えのしない風景画だし、帰 国後の風景画はなおさら奇妙な絵で、安物のレンズで撮ったようなパンフォーカスなのだが、だからといって写真に見えるわけではないのだ。たとえば、『菜の 花』は写真というより、細密な刺繍か切り絵に見えるし、遠い山や霞む田園、蓮の咲く池や富士山を描いても稚拙な日曜画家の絵になってしまう。
    残るのは『蝋燭』と『満月』のシリーズだが、これはもはや静物画でも風景画でもなく、下手も上手も超えた宗教画だというのだ。ちょうど円空上人の十万体 の仏像のようなもので、鑑賞するための芸術ではなく、高島野十郎の祈りだとすれば、カタログの筆者たちのいうように、諦観や主客未分化の純粋体験を表すも のなのだろう。どちらにしろ、宗教心のない私がとやかくいう必要はないに違いない。  久世光彦のことを忘れていた。
  女房が、「久世が褒めてるから高島の絵がつまらない」という珍説を、帰りの電車の中で, 得意げに繰りかえしていたのは言うまでもない。

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2006.07.03[Mon] Post 22:42  CO:1  TB:0  美術展評  Top▲

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はじめまして。高島野十郎を検索中に辿り着きました。

私も昨年「三鷹市民ギャラリー」で彼の作品に接する機会を得ました。

私自身は彼の作品を観て、彼の求道者的な生き方に感銘を受けましたし、作品の裡にある微細な、まさに「現代美術」の語彙では語ることの出来ないであろう、ある「香り」(気配、と表現してもよいですが)を感知するものであります。

おそらく彼には、世界が存在することそのものに驚いた瞬間があったのでしょう。
それゆえの「写実」であった、と少なくとも私は解釈しております(逆に言えば、世界が存在することにいちいち驚愕していたら「現代美術」は成立しないのでしょうけれども・・・まさに「技術」が「存在」を駆逐する、とハイデガーが予言したとおりですが)。

それは措いても、太陽を直視しその視覚象を克明に描く、もしくは目を閉じ瞼の裏側の視覚象を克明に描くなどという行為は美術史上の一大事件とも思え、これに言及しない美術評論は怠慢の謗りを免れないのではないかとひとり密かに考えておりますが、いかがでしょうか。
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