ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/493-18a3f186
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

古谷利裕の「知覚心理学的絵画論」(グリーンバーグ3)

「古谷利裕の『セザンヌ論』」からのつづき

古谷利裕氏は、村上隆とセザンヌに共通するのは、「同一平面上の複数の次元」を見るときの視線の揺れ動きやギシギシとしたノイズの感覚だという。『Melting DOB D』の複数の顔は、同時にみることはできないし、セザンヌの『キューピッドの石膏像のある静物』は歪んだ空間や形態のために画面全体を一挙に見ることができない。

この共通する感覚を「形式的に見る」ことだと古谷氏は言うが、そうだろうか。複数の顔のパーツがあるというのは、形式ではなく内容ではないか。「人間には目が二つある」というのも内容だ。同じように、テーブルが歪んで見えるのは、テーブルの天板は矩形で水平が「正しい」という図像学があるからだ。あるいはリンゴが転がり落ちそうなのは、それがリンゴであって風船ではないからだ。形式的な色や線や形としてみれば、どんな絵にも歪んだところは少しもない。

わたしは揚げ足取りをしているのではない。具象的な対象の形態や空間が歪んだり、一つの顔に目鼻がたくさんあれば、自然の対象は解体し、そこから色や線や造形が絵画の表面に現れ出ることはある。あるいは、「親指が二本ある手」のように運動の錯視が生じることもある。(注1)そうなれば、古谷氏の言うとおり、視線が揺れ動いたり、引っかかったり、チラチラすることもあるだろう。

しかし、これは絵を鑑賞することだろうか。ただの知覚心理学の実験ではないか。

グリーンバーグが言うように、美的価値は内容から生じるのであって、形式からではない。しかも、形式と内容は相対的なもので、両者を単純に区別できないとすれば、絵を理解するためには、何よりもまず絵をみなければならない。

セザンヌの『キューピッドの石膏像のある静物』を見てみよう。たしかに、古谷氏のいうように空間が歪み、事物の形態にも複雑なゆがみが見られる。しかし、「 画面上に描かれた事物を図像としてリテラルに追おうとしても、その視線は決して素直にスムースの動くことはできない」とまで古谷氏は言う。

セザンヌの絵画では、このような視線の異なる次元への移動は決してスムースには行われず、まるで無計画に増築に増築を重ねた建築物 (永井豪の『キッカイくん』の家のような)のなかを移動しているかのように、動いてゆく度にギシギシとしたノイズを産み、今にも崩壊寸前でギリギリ留まっているかのような感じなのだ。(セザンヌの絵画は、不器用ではあっても決して「静謐」でも「堅牢」でもなく、きわめてノイジーだ。)あえて言えば、セザンヌの絵画の「意味」とは、この震えるような「きしみ」にこそあるとさえ言える。

古谷氏はセザンヌが「静謐」でも「堅牢」でもなくノイジーだと、セザンヌ評価の常套句を否定する。たしかに、「筆触のモザイクで埋め尽くした」(グリーンバーグ)セザンヌの作品は、素人目にはノイジーに見える。しかし、この「筆触のモザイク」は、むしろ絵画の物理的表面とイリュージョンの内容との堅牢な結合を示しているとグリーンバーグは言う。どちらの言い分が正しいのか、もう一度作品を見てみよう。

『キューピッドの石膏像のある静物』は、「筆触のモザイクがは他の作品に比べるとそれほど明確ではなく、タッチとタッチの境界は曖昧に、平面上に広がっている。そのかわり、真ん中に量感のある白い石膏像が描かれている。その代わりいつも描かれている白いテーブルクロスが無い。テーブルやキャンバス画が石膏像を囲んでいる。この大きな四角形は、筆触のモザイクの代わりに、フレームの四角形を繰り返している。そして、これらの四角形の平面が、絵画の四角い物理的表面に重なるように見える。

また、緑の色面が石膏像の輪郭線を越えてテーブルや画中画に広がり、絵画の平面性を強調している。また、小さいテーブルのリンゴとタマネギ、左側の絵にかかれたリンゴと、右上の青いリンゴが四角い透明の面作って、絵画表面にかさなっている。

さらに、この絵の四隅に注意すれば、左上は後ろ向きに置かれたキャンバスの裏地があり、右上には左膝をついた石膏像の絵がある。そして左下の絵に描かれたテーブルクロスが、その絵の平面から抜け出して、絵画の表面に浮き上がっている。同じように、右下にはテーブルの天板が、遠近法を歪めて、この絵の物理的表面に重ね合わせるようにグイッと引っ張りあげられ、伸ばされて、キャンバスの隅に固定されている。

セザンヌの「堅牢」さは、遠近法やデッサンのそれではなく、イリュージョンと絵画の物理的表面との間の緊密な関係であり、その二次元的なもと再現的なものの結びつきが「静謐」ということでもある。

古谷利裕氏のいう「同一平面の複数の次元」から生まれる「震えるようなきしみ」というのは、セザンヌではなく、むしろキーファーの《マイスターシンガー》に当て嵌まる。この絵は新表現主義といわれる激しい情緒を表した絵画だ。絵具を叩きつけ、擦りつけ、なすり付け、そして落書きのようにアルファベットやアラビア数字を殴り書きし、教会や家を子供のイタズラガキように描く。表現主義も象徴主義もアクション・ペインティングもカリグラフィーも、そして「立体視」もなにかも一緒くたにして、文字通り騒音に満ちた絵画というにふさわしい。(記事『デ・クーニング』より)

セザンヌの堅牢性を理解しない者は、モダニズムの絵画を理解しない者である。絵画だけにある絵画の特性は平面性である。平面性は、イリュージョンの奥行きがメディウムの矩形の平面に重なることで現れる。セザンヌは絵具の物質性で絵画の平面性を強調し、テーブルや画中画の四角形でフレームの四角形を繰り返す。そして、奥行きを浅くしたイリュージョンを絵画の物質的平面に重ね合わせようとした。その二つの平面が緊密に関係することでセザンヌの堅牢性(solidity)が生まれる。

『キューピッドの石膏像のある静物』は、それまでの「筆触のモザイク」ではなく、キュービスム的な手法になっている。中央に彫刻的なイリュージョンを持つ石膏像があるけれど、その周りをテーブルやキャンバス画の平面が取り囲んでいる。そして、そのキャンバスや天板が『不思議の国のアリス』のトランプの兵隊ように絵画の表面に向かってくる。この平面はマチスのテーブルや画中画や窓、壁、絨毯になり、それがロスコの矩形の抽象画になり、さらに、ニューマンの「アンナの光」ではイリュージョンの平面と絵画表面の平面が完全に一つになっている。(ステラ のshaped canvasはニューマンと違ってイリュージョンを完全に抹殺している)

この空間のイリュージョンと絵画の物理的平面のあいだの緊張関係は、もちろん古大家の作品にもある。ただ古大家たちはイリュージョンによって物理的な層を隠していたので、イリュージョンと絵画平面との緊張関係が露呈しなかった。ところがモダニズムの絵画は平面性を強調する。平面性というのはキャンバスの物理的特性だから、結果的にイリュージョンと物理的表面の対立を強調顕現させることになった。

そもそも、モダニズムの絵画を見る楽しみは、図像学的に見ることでも、フォーマリスティックに見ることでもない。モダニズムの絵を見ると言うことは、物理的絵画の知覚をとおして図像(イリュージョン)を見、図像(イリュージョン)を通して再びメディウムに帰るという、絵画の三層構造の間の弁証法的戯れに身をまかせることだ。この意味でグリーンバーグはフォーマリストでも、平面主義者でもない。もちろん図像主義者でもない。絵画の三層構造のあいだの弁証法的戯れに美的価値を認める現象学者なのだ。かれが形式を重視するのは、形式そのものに美的価値があるからではない。そうではなく優れた形式というもはイリュージョンと物理的絵画の間の緊張を高め、美的内容を生み出すのに寄与してくれるかぎりである。

古谷氏はエッセイの最後で言っている。
 
 ただ、目の前に提示されてる作品やイメージというものを、丁寧に見て、それを記述し分析することが、現在の「美術」を巡る言説のなかにあまりに欠けている から、それが必要なのだと言いたいのだ。それがなければ、批評はただの知的な饒舌にすぎなくなってしまうし、作品はただ、故人やその時代の「好み」や「気分」や「感情」を代弁するもの、というだけのものになってしまう。

この批評じたいが絵を見ずに書ける言説であり、自己言及性のパラドックスに陥ってはいないか。

つづく

注1:親指は一本という「信念(思い込み)」があるので、二本の親指に違和感(正常な知覚ではないという疑い)を持つか、あるいは激しく前後に動く一本の親指が残像で二本に見えるか、どちらかである。わたしの経験では地と図の交替のように、違和感と運動の錯視が交替におきるようだ。これは二本の指の描き方によるだろう。彫刻では同じようなことが起こるかは知らない。

2009.03.28[Sat] Post 17:39  CO:0  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

古谷利裕の「知覚心理学的絵画論」(グリーンバーグ3) のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/493-18a3f186
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。