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古谷利裕の「セザンヌ論」(グリーンバーグ2)

前回のエントリーでも触れたように、「近代絵画的」にみて、村上隆とセザンヌには共通の感覚があると古谷氏はいう。それは、「同一平面上の複数の次元」を見るときの感覚だという。

我々の視線は(複数の次元を持つ)絵を見ている限り常に動きつづけざるを得ないし、視線が動いている限りは(視線が動く度に)、空間を形づくっている「基底」そのものが小刻みに変化し、不安定に揺れ動き続けざるを得ない。(括弧内安積)

顔のパーツが複数描かれた『MeltingDOB』を見ると、そのパーツが様々に組み合わさることで、複数の顔が見えるは、その感覚だという。たしかに、いろいろな組み合わせに注意を向けることはできるが、いったいそれが次元の違いとか、「基底が不安定に揺れ動く」現象といえるのかどうか、その表現の真意を理解するのは難しい。

この「基底が不安定に揺れ動く現象」は、『Melting DOB』の目ではなく、「親指が二本ある手」で考えたほうが解りやすい。二本親指のイラストは、親指が二本あるのではなく、一本の親指が激しく前後に動いて見える。この感覚はオップ・アートの揺れ動きの感覚に似ているが、オップ・アートは抽象的な繰り返しの図形だが、こちらは、親指という具象性が問題になっている。親指は一本である。それが二本あることは、これまでの経験(記憶)と矛盾するので、
視覚(脳)が一本の指が前後にすばやく動いているものとして処理したのだ。抽象的な図形現象と具象的な図像現象と区別しなければならない。

これと似た現象がおそらく『Melting DOB』くんにもあるのだろう。目は正面なら二つだし、横顔なら一つだから、様々な組み合わせが正常な組み合わせになるように、小刻みに変化したり、不安定に揺れ動くことがあるかもしれない。

どちらにしろ、ここで注意しておかなければならないのは、これはあくまでも錯覚(疑似知覚)のレベルの現象で、本来の図像意識の現象ではないということだ。たとえば、モノクロ写真の子供の灰色の肌がピンクに見えるのは、錯覚ではなく、知覚しているのはあくまでも灰色であり、だだそれが存在定立されず中和変容されて、ピンクの肌という意味が志向されているのだ。だから、絵画意識にはちらつきや不安定な揺れ動きは本来的にはない。(注1)

さて、古谷氏は、『キューピッドの石膏像のある静物』を例に、
セザンヌにおける「同一平面上の複数次元」を説明する。それは、DOBくんの顔のパーツが複数あるというイラストの問題ではなく、空間と事物の形態の歪みに起因するものだ。テーブルが手前にせり上がっており、事物は遠近法の空間のなかに納められずにばらばらになっている。

画面上に描かれた事物を図像としてリテラルに追おうとしても、その視線は決して素直にスムースに動くことはできない。・・・・・・・・・(そこに描かれた事物)などに視線は引っ掛かり、さらにそこから別の場所へとズレこんでゆき、あるいはそこから色彩や筆致の次元へと、視線は次々と逸脱してゆき、画面のなかを目が彷徨いつづけることになる。(強調安積)

古谷氏はセザンヌにも、村上氏の「DOB」くんと同じような「同一平面上の複数の次元」への視線のズレと逸脱を認める。ところが、この次元というのが両者ではことなる。村上隆の
『MeltingDOB』では、顔のパーツが無数にある歪んだ大きな顔が、いろいろな組み合わせの顔となって現れる。ということは図像の三層構造では、図像客観や図像主題の次元へ視線が向かうことになる。それに対して、セザンヌの『キューピッドの石膏像のある静物』では、歪んだ空間(遠近法)や歪んだ事物の形態が絵画の統一性を破壊して、造形や色彩や筆致という絵画の形式的物質的な次元に視線が向かうことになる。

古谷氏のセザンヌ分析は、意味がはっきりとしないレトリックを取り除いてやれば、おおむね素朴なフォーマリズム分析といえるわけだが、
『Melting DOB』の反フォーマリズム的な図像的(注2)解釈とは基本的には正反対のものではないか。そうであるならば、なぜ、セザンヌと村上隆が「スーパーフラット」の概念で結びつけられるのか理解するのは難しい。そもそも「スーパーフラット」とは何んであるか古谷氏はどこにもかいてないのだ。

古谷氏の論説を必ずしもよく理解したわけではないし、とくにおわりの方の蓮見重彦風レトリック(?)はわたしには理解できないので、もっと深い意味があるのかもしれないが、私が理解した限りでは、セザンヌと村上隆の作品に共通の感覚があるという古谷氏の主張は間違っていると結論せざるを得ない。

グリーンバーグの「セザンヌ論」を読めば分かることだが、セザンヌは決して古谷氏が書いているような意味でのフォーマリストではない。次回はグリーンバーグの「セザンヌ論」について書く予定だ。

つづく

注1:図像意識と錯覚意識を区別しなければならない。イリュージョンという言葉は両方に使われるから注意が必要です。
注2:古谷氏は「顔という意味」について述べている。グリーンバーグの"homeless representaion"を参照

2009.03.14[Sat] Post 14:44  CO:0  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

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