ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/447-c38d75ef
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

セザンヌの異様さ

岡崎乾二郎が松浦寿夫との対談集『絵画の準備』のなかで、「セザンヌの異様さ」について述べている。たとえば、《赤いベストの少年》の耳の大きさや手の長さが異様だという。すでに書いたように、わたしは、《サント=ヴィクトワール山》の前景に描かれた木の枝が山の稜線に沿って、重ならないように伸びているのは「異様に」感じたが、耳の大きさや手の長さを異様に思ったことはない。

たしかに、セザンヌのデッサンは通常の意味では上手とはいえないけれど、多視点といわれる歪んだ静物画もふくめて、説明しがたい魅力がある。この単純に下手とはいえない、ちぐはぐな感覚を岡崎氏は「異様」だといっているのだろうが、いったい、セザンヌはただデッサンが下手なだけなのか、それとも、なにか深い意図があって「不正確」なデッサンをしているのか判らない。

筆のタッチは雑だし、まだらのような塗り残しがあるし、垂直もとれていない。会田誠は美術手帖(2008年6月)の座談会『僕に絵を教えてください』 で、「大学院で技法材料研究室に在籍していた時、ルーベンスを模写したんですが、手の速い職人だなぁと好きでしたね。タッチがなめらかで。比べると、セザンヌは下手ですよね?」と発言している。たしかに職人的な技術という意味では下手だし、ヌードなんて男と女をかきわけることさえ出来ていない。でも、絵を鑑賞するときと、模写や修復するときとでは、絵の見方はとうぜん異なる。

ヌードについて、岡崎乾二郎が『絵画の準備』の中で変なことをいっている。

中学のときに僕はこの《大水浴》を見てまるで理解できなかった。たとえば後ろ向きに描かれている奥の二人の人物、描かれている頭は後ろ向きであるにもかかわらず、こちらを向いているように見えます。背中の部分と頭の付け方が明らかにおかしい。あえてセザンヌが意図して後ろ姿のように描きながら正面像を描く、という奇妙な試みをしていると僕には見えたんですね。いま改めて見ても、、どう見てもこの一番奥にいる二人はヴァルール[色価]からしても、こちらを向いているようにみえる。

というのだが、わたしにはどう見たって後ろ向きにしかみえない。画集のカラー図版でたしかめると、左側の女の頭の付き方は、たしかにこちらを見ていると言えなくはないが、それでも、二人の女の肩の丸みや背筋、そしてなによりも尻があるのだからどう見たって後ろ向きだ。首の付き方がおかしいのは、むしろ二人の右側にいる横向きの女で、頸がこけしのようだし、こちらを向いている頭はお面をかぶっているように「異様に」大きい。

さらに岡崎氏は「二人のヴァルールからしても、こちらを向いているように見える。」とあくまで正面像であると言い張るのだが、構図上から見ても二人は正面ではなく、後ろ向きである。岡崎氏が二人のヴァルール(色価)のことを言っているのは、たぶん肌が白く塗られていることをいっているのだろうが、これはなにも正面を向いているからではなく、あきらかに二人の構図上の役割からきているのだ。

モノクロの図版では判りにくいが、二人の白い女は、左の二本の黒い樹木が右に倒れるように伸びているのを、反対側から二本の白い棒になって支えている。この二人が他の女より白く、しかも正面ではなく、背中を見せているのは、右に倒れている太い二本の木に対抗するベクトルを明確にするためだ。正面では、顔や乳房が力の方向を分散してしまうだろう。(正面か後ろ向きかはセザンヌにとって、本質的な問題ではない)

二人の女は、他の人物群に溶け込まないように、白い絵具が後から塗り重ねられているのであり、その白さは他の女たちが、持っている白い布(浴衣)と呼応して、白い入道雲と二本の樹木のベクトルに対向している。左端にいる女と、その女が持つ白布は、二人の女と反対のベクトルなのだが、このベクトルは左側の6人のグループが作る三角形の短辺となって、長辺と均衡が保たれている。などなど。

このふたりの白い女は構図から見れば「異様な」ところはどこにもない。異様なのは岡崎氏の絵画を見る目である。頭の付け方とかヴァルールとか、素人が感心するよう物言いをして、それを絵画の美的価値とは関係のない哲学者の言説に結びつけて煙にまいている。二人の女の「異様さ」については、たとえば、別の《大水浴》、たぶんこっちのほうが前に描かれた思うのだが、こっちの絵の樹木は両側から中央に倒れて三角形の構図を作っている。それに対して、岡崎氏が触れている《大水浴》の方は、右側の樹木も右側に倒れていて、三角形ではなく四辺形を作っている。 三角形は安定しているが、四辺形は押しつぶされて、右方向のベクトルが生じているので、二人の女で、はすかいをいれて安定させている。構図的に見れば、そういうことである。

それでは、なぜ三角形の構図を崩して、四辺形にしたのだろう。それはたぶんグリーンバーグの言う「平面性」のためだ。三角形は逆さにすれば、地上界と天上界をしめす構図である。三角形の上中下が遠景中景近景にかさなって、深い奥行きがうまれている。それに比べ、四辺形はキャンバスの四辺に沿って平面的である。空も雲も木立も、そしてもちろん二人の女の背中も、平面的で、浅い奥行きに広がっている。

岡崎氏は、もちろんグリーンバーグにもちゃんと触れているのだが、それはどちらかと言えば、グリーンバーグがあたかも「絵画を平面に還元せよ」といったかのようなニュアンスで喋るのだが、岡崎氏の話は、明らかに間違っていると思われる理論(注1)をはさみながら、次々と展開していくので、私にはとうていついていけない。(このあたりは椹木野衣氏を彷彿とさせる)

それはともかく、セザンヌは会田誠のいうように下手とも言えないし、岡崎乾二郎のいうように異様ともいえない。『セザンヌ主義』展を見れば、セザンヌに影響を受けたという画家の作品よりも、セザンヌの「下手な」作品のほうがずっと緊張感にあふれ魅力的であることがわかる。個人的には《大水浴》のような緊密な構図の絵や空間の歪んだ静物画より、断然風景画が好きである。風景画は水彩画のような透明感と油絵具の筆触が、キャンバスの平面上の絵具の物質感とイリュージョンの間のせめぎ合いとなって美しい。

とりわけ、《水の反映》は息苦しくなるほど美しい。まるでクレーのようだ。

次回はグリーンバーグのセザンヌ論を読んで、セザンヌの「謎」に挑戦することにしたい。グリーンバーグのデ・クーニング論を通して「抽象と具象」の問題を考えるという約束を果たさないうちに、こんどは、セザンヌ論を通してグリーンバーグの「平面性」を考えることになってしまった。もちろん「抽象と具象」の問題は、平面性の問題と、そして「平面性」は「図像の三層構造」と密接に関わっているのだ。


注1:岡崎氏は明らかに「図像の三層構造」に気づいているのだが、現象学的態度を貫くことができず、クラウス流のポストモダン風記号論に影響されて議論が混乱していると思われる。
2009.02.04[Wed] Post 00:00  CO:0  TB:0  -セザンヌ  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

セザンヌの異様さ のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/447-c38d75ef
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。