ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/430-d956f334
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

グリーンバーグの「抽象と具象」(デ・クーニング4)

グリーンバーグ”は “Abstract, Representational, and so forth”(1954年) というエッセイでフォーマリストの立場から「抽象と再現性」について書いている。以下要約する。


絵画であろうと彫刻であろうと、抽象芸術は退廃の象徴であり、それにくらべ、「自然(具象)に帰れ」という願望は健全なことだと見なされている。他方、抽象芸術の擁護者は、抽象こそ優れているのだと主張している。

しかし、芸術というのは原理の問題ではなく、経験の問題であり、芸術で大切なものは質なのである。歌詞が音楽の価値と関係ないのとおなじように、再現的なイメージは、絵画や彫刻の価値と関係がない。再現性というのは、大きさや色や絵具の質やデザインなどと同列の作品の一つの側面(アスペクト)であり、作品全体の質をきめる特権的なものではない。

再現性は絵画にコンセプチャルな意味を与えるが、それが作品の美的な価値を高めるのか減じるのかは一概にいえない。歴史的な出来事に言及しているからといって、ピカソの《ゲルニカ》が、モンドリアンの非対象絵画より豊かで質が高いとはいえない。

painting(絵画)やsculputre(彫刻)ではなく、本来、具象的な芸術を意味するpicture(図像)やstatue(銅像)の考えに立てば、抽象的な作品は、内容が貧しく、劣っていると思われがちであるが、どんな芸術も、見る前に、その善し悪しを決めることは出来ない。たしかに、抽象画の多くはメジャーな芸術とはいえないし、おおくは駄作であるが、やはりわれわれの時代の優れた絵画は抽象画なのだ。現今の抽象画がマンネリに陥り、ふるわないのは、抽象画が具象画に原理的に劣るということではなく、抽象画がまったくの新しい絵画「言語」だということに伴って生じた問題だ。

ジオットからクールベまで画家は平らな表面に遠近法などによって三次元の空間のイリュージョンの穴をあけた。観者は絵画の表面を通して、前舞台から舞台の奥をのぞくように絵画の中を見た。モダニスムの絵画は、この舞台をどんどん狭くして、幕と同じ平面に重なってしまった。画家にはカーテンの平面しか残っていないので、そのうえにいくらいろいろイメージを描いても何かが失われたような気がする。失われたものは、具象的な対象ではなく、深い奥行きのイリュージョンなのだ。

モダニズムの絵画はわれわれの身体と同じ秩序に属する存在になる。絵画は再現されたものを入れる空間のイリュージョンをもたない(遠近法的な奥行きがないので、事物や人間が動き回るような空間のイリュージョンがない)。観者は自分がたっている空間から絵の中のイリュージョンのなかに逃げ込むことはできない。

もし、その絵が観者の目をあざむく(イリュージョンを生んでいる)としたら、それは視覚的(optical)な手段であって、絵画的painterly pictorial)な手段ではない。視覚的手段というのは何が描いてあるかという内容と切り離された線や色の関係、あるいは上と下、前景と後景が交換可能になるような操作によって、イリュージョンを生んでいるのだ。(歩いて入っていける空間ではなく、目で見るだけの空間のイリュージョンのこと:『モダニズムの絵画』)

抽象画を見ると、イリュージョン絵画よりも、より奥行きの狭い、より物質的な、そしてより非再現的な感じがするだけではなく、抽象画の絵画言語には名詞と他動詞が欠けている。ようするに抽象画は画面に中心がなく、オールオーバーな単一体なのである。それに比べ再現的な絵画はわれわれをそんな狭い領域に押し込めようとはしない。

もし、抽象彫刻が抽象絵画より抵抗がないとすれば、それは彫刻が抽象になることで彫刻言語をそれほど変える必要がないからだ。抽象であろうが再現的であろうが、彫刻はもじどおり三次元のままである。

フォーマリズムの観点から見て、具象画と抽象画のどちらが優れているとは言えないが、現実には抽象画のほうが平面性や支持体の形や絵具の特性という絵画の純粋な美的価値をよりよく実現している。しかし、このことだって原理的にそうだとはいう事ではなく、将来の美術愛好家が、古大家のイリュージョニスティックな絵画の深みや量感が対象の再現のためではなく、フォーマリスティックな美的価値を実現するためだと感じ、描かれている対象ではなく、色や形の関係に関心を持つかもしれない。

同じことは風景画にも言える。自然を模倣するのは、自然を再現するためではなく、画家がただ芸術に向き合うだけでは決して生み出すことができなかったような複雑な色彩や形態を自然が教えてくれるからだと、将来の目利きは思うかもしれない。そうして、彼らは、古大家と抽象画の間には、われわれが認識しているよりも多くの共通した地盤を見いだすかもしれない。

だからといって、具象画を色彩や形の関係からだけ見ればいいと言っているわけではない。そこに何が描かれているかも大切なのだ。絵画にはイラスト的な価値があることは疑いない。レンブラントが晩年、ジュースのようにゆるい絵具を、肖像画の耳ではなく、額や鼻に塗り重ねたということは、彼の到達した美的な帰結と大いに関係があることだが、それが何故か(why)、どうやってか(how)はわれわれにはまだ分からない。

実は私の望みは、絵画芸術における抽象的なあるいは形式的な要素が重要だということを、あまりうるさい条件をつけないで認めることが、ひいては、絵画のイラスト的な価値そのものをもっと明確に理解するための道を開いてくれるのではないかということだ。


以上がグリーンバーグの『抽象と再現とその他』の要約のつもりだけれど、わからない箇所はとばしたり、ごまかしたりしたから、意味不明のところもあるだろうけれど、いまのところ私のグリーンバーグ理解ではこれが精一杯です。

グリーンバーグはフォーマリストであり、何が描かれているかではなく、如何に描かれているかの美的価値が重要であり、抽象画と具象画の差はないと考えている。しかし、具象画は、再現的な対象が描かれているので、それだけで平面である絵画の表面に奥行きのイリュージョンを生み、絵画の純粋性を損なってしまうというのだ。

最後のところで、グリーンバーグは絵画のイラスト的な価値について述べているが、それもフォーマリズム的な美的価値との関係以上のことはいっていないようなきがする。それでは具象画の構造を理解することはできない。具象画を抽象画として眺めるというアクロバティックな観賞方法ではなく、フォーマリズムのファクターである色や形や線の諸関係が、同時に林檎やヌードや風景を再現するという「図像の三層構造」の視点から具象画を考察しなければならない。

例えば、ゴッホの《夜のカフェテラス》の黄色は、ただ夜の空の青と補色の関係にあるのではなく、黄色はカフェテラスの灯りであり、青は星の輝く夜の闇なのだ。われわれは、《黄色の部屋》の黄色でもなく、《ひまわり》の黄色でもなく、夜のガス灯のまぶしい光に魅せられるのだ。

グリーンバーグは間違っている。再現性というのは、グリーバーグの主張とはことなり、絵画により多くの価値をあたえるものである。もちろん失敗すれば悲惨なものになるのだが。
2008.12.31[Wed] Post 00:24  CO:0  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

グリーンバーグの「抽象と具象」(デ・クーニング4) のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/430-d956f334
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。