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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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ご回答ありがとうございました。
抽象画に続いて恐縮ですが、ジャコメッティというのは、私にとっても、かなり重要な作家であり、個人的に思うところがあるので、少し述べさせて下さい。
確かに仰るような現象学的分析をなされば、ジャコメッティの彫刻は、知覚の距離とイリュージョンの距離というものが、意図的に組み合わされた優れた彫刻作品として、捉えることができると思われますし、それについては続きのご説明を承りながら、理解していきたいと思います。
ただ、私はジャコメッティを、安積様ほど良く見ていないと思いますし、そんなに深く理解している訳ではありませんが、例えば彼の言葉に次のようなものがあります。
「或る人物が2メートル、あるいは10メートル離れていると、私はもうその人物を実証的なレアリテの真実に帰属させることができない。私がカフェのテラスにいて、向こうの歩道を歩む人々を見ると、その人々は、微小なものに見える。彼等の自然の身の丈などは、もはや存在しない。」
私の見方ですが、こうした本人の文章を読むと、ジャコメッティ自身の現実の知覚の中で、視覚対象に対する「距離」とその「大きさ」という二つの情報が、あまりきれいに分離していないのではないか、という印象を受けるのです。
つまり、彼の言葉を真に受ければ、日常的にかどうかは知りませんが、ジャコメッティのこの種の現実の知覚体験には、心理学用語の「大きさの恒常性」(彼の言う「実証的なレアリテの真実」)が、成り立っていないなことになると思うのです。
話はとびますが、「分裂病の少女の手記」(セシュエー編著)という、有名な精神病患者の記録をご存知でしょうか?
そのなかに、ルネという分裂病患者の、次のような体験談が出てきます。
ルネが友達の女の子達と、二人の少女が縄の端を持って回し、他の二人の少女が交互に飛ぶ縄跳びをしていたとき、突然彼女は、次のようなパニックに襲われます。
ルネの順番になって、相手の少女がルネの方向にむかって跳ぶのを見たとき、ルネには相手が本当に「その少女なのかどうか」が、わからなくなってしまうのです。
何故なら、向こうの端に立っているときには、相手の少女は「小さく」見えるのに、お互いに近寄ると、彼女は「膨れ上がって」大きく見えるからです。
ルネは、膨れ上がるという、恐ろしい変化を示す相手の少女を、同じ人物とみなせなくなっているのです。
ここには、対象に対する、「距離」と「大きさ」という二つの情報の混交、つまり大きさの恒常性の不成立とともに、運動する視覚対象の自己同一性が失われているという、いわばルネ自身の知覚体験が語られているのではないでしょうか。
ジャコメッティの場合にも、もし彼の言うことを文字通りに受け取れば、例の映画館の体験をきっかけにして、視覚対象の運動を「互いに全く切り離された幾つもの不動性の継起」と見るようになったのであり、そのために、空間的位置の変化が起こった視覚対象の、自己同一性が失われていったのではないでしょうか(位置の変化は必ず時間を伴い、それが、目に映る各瞬間瞬間の切り離された「不動性の継起」なのですから)。
そして、視覚対象が彼から遠ざかってその空間的位置を変えれば、対象の自己同一性が成り立たないのですから、その対象が常に一定の大きさである保証はない訳で、大きさの恒常性は成り立たなくなり、「微小なもの」と知覚されるのではないかと思います。
同様の理由のために、映画館の映像は、普通の人のように、フィルムの連動から、総合パターン認識による「動いている像」という知覚が起こらず、各瞬間瞬間の断片的な映像の不ぞろいな継起、つまり白と黒の「しみ」にしか見えないのでしょう。
また、この不動性の継起は、空間的な事物の関係にまで延長していきます(椅子にかかったナプキンの、不気味に椅子から独立した印象など)。
それは、ものを見るときには、必ず時間を伴うものだからだと思います。
正確には、ナプキンを認知する瞬間と、その下の椅子を認知する瞬間は、我々は気づかなくとも、微小な時間差を持っており、それぞれの瞬間が、どういう訳かジャコメッティの場合には、独立しているということです。
だから、ナプキンと椅子は(あるいは椅子とその下の床も)、それぞれが独立した瞬間の中で認知され、そのために「何の関係も持っていなかった」のであり、彼はその現象を「絶対不動性」という時間表現で表しているのです。
こう言っては、ジャコメッティは特異な感覚を持つ精神障害者のようになってしまうかもしれませんが(そしてそのような見方を否定する人がほとんどなのは知っていますが)、私の見解としては、彼の知覚体験の中で、何かしら普通の人と違う状態が起こっていたことは事実だと思います。
しかし、ジャコメッティもルネも、どうしてそんな知覚体験をするようになったのか、その理由は、具体的にはよくわかりません。
ここからは蛇足ですが、
厳密な現象学による分析をなさる安積様にはオカルトと笑われてしまうかもしれませんが、「意識と本質」(井筒俊彦著)という本の中に、著者の言う「本質肯定論の第一の型」という分類で、マラルメとともに登場してくる、宋代の儒学者達の「格物窮理」という、特殊な意識の状態が、上述のジャコメッティなどの意識の状態に、酷似しているように、私には思われてなりません。
これは、人間の「意識の流れ」が、実は「断続」であり、意識対象が切り替わる瞬間の狭間にある、「未発」という何も意識されていない状態を捉えて、それを拡大していくことにより、時間の「流れ」が「断続化」されたような、特殊な意識で世界を見ることができる、というものです。
両者の詳しい類似点はここでは述べ切れませんが、例えば、この宋代儒学者の修行過程における世界観の変化(絶対不動寂莫などというもの)が、ジャコメッティの言う、映画館を出たときの「信じられないような静寂」や、事物の示す「絶対不動性」など、その後の経緯などにも、非常に良く似ているのです。
また、普遍的なものの本質が、実は(このような特殊な意識状態における)個別的なものの観察凝視によってのみ顕現する、などのプロセスも似ていると思います。
こうしたことは、ここであまり上手く説明できませんし、もちろん、私の個人的な類推に過ぎません。
以上が私の、非常に漠然たる、ジャコメッティに対する推測交じりの(未だはっきりとは固まっていない)解釈の如きものです。
安積様には、もっとジャコメッティの作品そのものを素直に見ろと、怒られそうですが。
私個人としても、現象学については知っておく必要を感じ、少しづつですが勉強中なのですが、私はもと理系で言葉の読み書きは不得意であり、イデーンを初めから読むのは大変なので、谷 徹という人の入門書を読み始めた次第です。
安積様の明晰な現象学によるジャコメッティ論の続き(および彫刻も含めた「絵画の現象学」の続編)を楽しみにしています。
2008.12.17[Wed]  投稿者:ヒドラ  編集  Top▲

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ロスコとジャコメッティ

ヒドラさん 『モーリス・ルイス展』の記事に長いコメントありがとうございました。返事が長くなったので、記事の欄に載せます。

フッサールは図像の三層構造の分析を具象画をもとに行っています。歩いて入れる空間のイリュージョンがあるロスコの絵画は、具象画だと思っています。目で見るだけで歩いて入っていけない空間は、それが具体的な大きさを持つ生活世界ではないからです。もちろん大きさの基準はわれわれの身体です。想像的身体も大きさを持っています。知覚の身体と想像の身体は違うのです。それから没入と空間のイリュージョンの問題は複雑なので、もう少し待ってください。

抽象画のイリュージョンのまえに、彫刻とイリュージョンの問題を考えてください。彫刻はなかなか像に見えないという話はしました。彫刻を見るときわれわれはなかなか知覚を超越する(注1)ことができないので、ミニチュアはミニチュアに見えてしまいます。没入して自分の知覚的身体を消去しないと像主題が見えないということです。ドイツ語では便利なことに立体でも平面でも(彫像でも図像でも)Bildを使えます。

立体のイリュージョンについては、没頭しなくても像主題が容易に見えるのはジコメッティの『四つの小像』です。あれはほんとうにマッチ棒のように小さい像でしたが、自分の知覚的身体を消去しなくても、ふつうにみれば、そこにミニチュアではなく、等身大の人間が現れます。まさに三層構造なのです。これは、簡単なことです。小像がミニチュアではなく、遠くにいる人物に見えると言うことです。現実の知覚でも、遠くに小さく見える人物はちゃんと等身大に見えるでしょう。これはもちろん遠近法という知覚世界の構造があるからで、像ではなく、通常の知覚です。しかし、ジャコメッティの小像は違います。小像は遠くではなく目の前にあるのです。だから像客観(Bildobjekt)は小さく見えます。そして、像主題は等身大に見えます。

小像のBildsujetが大きく見えるのは、二つの理由があります。一つは、遠方からみたようにボリュームがなく、かつ滲んだように細部が省略されていること、もう一つは、小像は一つではなく、四つ並べているということです。これで、お互いどうしが大きさの尺度(人間は万物の尺度です)になって、等身大の人間(像主題)があらわれるのです。

ジャコメッティの胸像も、小像ほどわかりやすくありませんが、この知覚の距離と、イリュージョンの距離を巧みに使っているように思えます。このことは次回に。

ロスコとジャコメッティは、わたしにとって奇跡なのです。

注1:知覚している物質的彫刻を中和変容して、主題を見ること。

2008.11.21[Fri] Post 00:10  CO:1  TB:0  *ジャコメッティ  Top▲

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ご回答ありがとうございました。
抽象画に続いて恐縮ですが、ジャコメッティというのは、私にとっても、かなり重要な作家であり、個人的に思うところがあるので、少し述べさせて下さい。
確かに仰るような現象学的分析をなされば、ジャコメッティの彫刻は、知覚の距離とイリュージョンの距離というものが、意図的に組み合わされた優れた彫刻作品として、捉えることができると思われますし、それについては続きのご説明を承りながら、理解していきたいと思います。
ただ、私はジャコメッティを、安積様ほど良く見ていないと思いますし、そんなに深く理解している訳ではありませんが、例えば彼の言葉に次のようなものがあります。
「或る人物が2メートル、あるいは10メートル離れていると、私はもうその人物を実証的なレアリテの真実に帰属させることができない。私がカフェのテラスにいて、向こうの歩道を歩む人々を見ると、その人々は、微小なものに見える。彼等の自然の身の丈などは、もはや存在しない。」
私の見方ですが、こうした本人の文章を読むと、ジャコメッティ自身の現実の知覚の中で、視覚対象に対する「距離」とその「大きさ」という二つの情報が、あまりきれいに分離していないのではないか、という印象を受けるのです。
つまり、彼の言葉を真に受ければ、日常的にかどうかは知りませんが、ジャコメッティのこの種の現実の知覚体験には、心理学用語の「大きさの恒常性」(彼の言う「実証的なレアリテの真実」)が、成り立っていないなことになると思うのです。
話はとびますが、「分裂病の少女の手記」(セシュエー編著)という、有名な精神病患者の記録をご存知でしょうか?
そのなかに、ルネという分裂病患者の、次のような体験談が出てきます。
ルネが友達の女の子達と、二人の少女が縄の端を持って回し、他の二人の少女が交互に飛ぶ縄跳びをしていたとき、突然彼女は、次のようなパニックに襲われます。
ルネの順番になって、相手の少女がルネの方向にむかって跳ぶのを見たとき、ルネには相手が本当に「その少女なのかどうか」が、わからなくなってしまうのです。
何故なら、向こうの端に立っているときには、相手の少女は「小さく」見えるのに、お互いに近寄ると、彼女は「膨れ上がって」大きく見えるからです。
ルネは、膨れ上がるという、恐ろしい変化を示す相手の少女を、同じ人物とみなせなくなっているのです。
ここには、対象に対する、「距離」と「大きさ」という二つの情報の混交、つまり大きさの恒常性の不成立とともに、運動する視覚対象の自己同一性が失われているという、いわばルネ自身の知覚体験が語られているのではないでしょうか。
ジャコメッティの場合にも、もし彼の言うことを文字通りに受け取れば、例の映画館の体験をきっかけにして、視覚対象の運動を「互いに全く切り離された幾つもの不動性の継起」と見るようになったのであり、そのために、空間的位置の変化が起こった視覚対象の、自己同一性が失われていったのではないでしょうか(位置の変化は必ず時間を伴い、それが、目に映る各瞬間瞬間の切り離された「不動性の継起」なのですから)。
そして、視覚対象が彼から遠ざかってその空間的位置を変えれば、対象の自己同一性が成り立たないのですから、その対象が常に一定の大きさである保証はない訳で、大きさの恒常性は成り立たなくなり、「微小なもの」と知覚されるのではないかと思います。
同様の理由のために、映画館の映像は、普通の人のように、フィルムの連動から、総合パターン認識による「動いている像」という知覚が起こらず、各瞬間瞬間の断片的な映像の不ぞろいな継起、つまり白と黒の「しみ」にしか見えないのでしょう。
また、この不動性の継起は、空間的な事物の関係にまで延長していきます(椅子にかかったナプキンの、不気味に椅子から独立した印象など)。
それは、ものを見るときには、必ず時間を伴うものだからだと思います。
正確には、ナプキンを認知する瞬間と、その下の椅子を認知する瞬間は、我々は気づかなくとも、微小な時間差を持っており、それぞれの瞬間が、どういう訳かジャコメッティの場合には、独立しているということです。
だから、ナプキンと椅子は(あるいは椅子とその下の床も)、それぞれが独立した瞬間の中で認知され、そのために「何の関係も持っていなかった」のであり、彼はその現象を「絶対不動性」という時間表現で表しているのです。
こう言っては、ジャコメッティは特異な感覚を持つ精神障害者のようになってしまうかもしれませんが(そしてそのような見方を否定する人がほとんどなのは知っていますが)、私の見解としては、彼の知覚体験の中で、何かしら普通の人と違う状態が起こっていたことは事実だと思います。
しかし、ジャコメッティもルネも、どうしてそんな知覚体験をするようになったのか、その理由は、具体的にはよくわかりません。
ここからは蛇足ですが、
厳密な現象学による分析をなさる安積様にはオカルトと笑われてしまうかもしれませんが、「意識と本質」(井筒俊彦著)という本の中に、著者の言う「本質肯定論の第一の型」という分類で、マラルメとともに登場してくる、宋代の儒学者達の「格物窮理」という、特殊な意識の状態が、上述のジャコメッティなどの意識の状態に、酷似しているように、私には思われてなりません。
これは、人間の「意識の流れ」が、実は「断続」であり、意識対象が切り替わる瞬間の狭間にある、「未発」という何も意識されていない状態を捉えて、それを拡大していくことにより、時間の「流れ」が「断続化」されたような、特殊な意識で世界を見ることができる、というものです。
両者の詳しい類似点はここでは述べ切れませんが、例えば、この宋代儒学者の修行過程における世界観の変化(絶対不動寂莫などというもの)が、ジャコメッティの言う、映画館を出たときの「信じられないような静寂」や、事物の示す「絶対不動性」など、その後の経緯などにも、非常に良く似ているのです。
また、普遍的なものの本質が、実は(このような特殊な意識状態における)個別的なものの観察凝視によってのみ顕現する、などのプロセスも似ていると思います。
こうしたことは、ここであまり上手く説明できませんし、もちろん、私の個人的な類推に過ぎません。
以上が私の、非常に漠然たる、ジャコメッティに対する推測交じりの(未だはっきりとは固まっていない)解釈の如きものです。
安積様には、もっとジャコメッティの作品そのものを素直に見ろと、怒られそうですが。
私個人としても、現象学については知っておく必要を感じ、少しづつですが勉強中なのですが、私はもと理系で言葉の読み書きは不得意であり、イデーンを初めから読むのは大変なので、谷 徹という人の入門書を読み始めた次第です。
安積様の明晰な現象学によるジャコメッティ論の続き(および彫刻も含めた「絵画の現象学」の続編)を楽しみにしています。
2008.12.17[Wed]  投稿者:ヒドラ  編集  Top▲

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