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『森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ写真展』(東京都現代美術館)

森山大道にはよほど縁がある。見るつもりもないのに森山大道によく遭遇する。『カルティエ現代美術財団コレクション』展で見たし、清澄白河のギャラリー村を見学にいってたまたま森山の『ハワイ』を見た。今回は川村記念美術館の帰りに、東京都現代美術館に寄ったら、『ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力』展との同時開催で、ブラジル人のミゲル・リオ=ブランコの東京と日本人の森山大道のサンパウロの二人展を見た。

それはともかく、この二人展の企画趣旨が分からない。たぶん、学芸員がメイン企画の『ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力』の〈ブラジル〉にこじつけたのだろうが、いくらなんでもこじつけすぎだ。 ミゲル・リオ=ブランコのカラー写真は、写真雑誌に投稿しても落選するだろう程度の写真である。その点では、カラーとモノクロの違いはあるが、森山大道の写真も同じようなものだ。

ただ、森山大道にはスタイルがある。今回のサンパウロの写真では、むかしとくらべて、ずいぶんとおとなしくなっているが、相変わらず粒子の粗い硬調のダイドー節である。好きな人にはたまらないのだろうが、わたしには退屈なものに見える。

いろいろな加工したり、自分のオリジナルな調子をつけくわえさえすれば、写真がめでたく芸術になるわけではない。去年の『VOCA』展で蜷川実花は、例のマゼンダのフィルターをかけた(?)ような造花の写真で賞をもらっていた。そして、いまやアーティストとして活躍していることはご存じの通りだ。

森山大道は芸術家を通り越して、いまや神格化されている。去年の八月に青弓社から『森山大道とその時代』がでたことはすでに書いた。各年代ごとの森山についてかかれた批評・評論を集めたものだが、私の写真評も所収されている。そのとき、なにを書いたかよく覚えていないのだが、森山のマンネリズムを皮肉るようなことを書いたら、編集者に削除したほうがいいとアドバイスされた。スタッフが全部チェックしていて、変なことが書いてあるとクレームがくるそうだ。それに熱狂的なファンがいて、爆弾を仕掛けられると冗談めかして言われた。

それなら『森山大道とその時代』 は森山の賞賛ばかりかというと、そうではなく、ちゃんとした森山大道批判も収載されている。それも1960年代の章に収められている藤枝晃雄の『世界を等価値に見る』だ。藤枝氏の文章は、美術の基礎知識に欠けるわたしには難解だけれど、たぶん賞賛ではなく批判だろう。原稿依頼は森山氏とポップ・アートの関係を考察することだったという。冒頭の部分を引用する。

 人工のイメージを現実としてとりあげる点において、森山大道は、ウォーホールをはじめとする、ポップ・アーティストと似かよっている。しかし、ウォーホールのとり上げ方がその現実の質を問題としないのにたいして、森山はそれを重視するのである。

バルトは、ポップ・アートは繰り返すことで、高級文化を破壊し、価値の転倒を行うという。ウォーホールは写真や商品のコピーや模造品を複数作って、ギャラリーに並べた。しかし、たとえば、洗剤の箱(ブリロ)の模造品のインスタレーションは、なにも、デュシャンの便器のように、価値の転倒・破壊を意図したわけではない。藤枝氏は「この作品は『普通のものが普通でなく見える』というよりは『普通のものがほとんど普通のまま見える』ことを示している。」と、別の美術評論(『現代芸術の彼岸』)で述べている。

この通俗性、平凡さ、繰り返しによって芸術の質を取り去るポップの手法は、マリリン・モンローやケネディ夫人のイメージをシルクスクリーンで複写した作品にもいえる。ここでは有名人やスターは偶像崇拝されるでもなく、偶像破壊されるでもなく、ただ、固有名詞と結びつけられた陳腐なアイコンとして、繰り返し複写されている。そのことで芸術を否定する。ポップ・アートを陳腐化する。

これがウォーホールが「現実の質を問題としない」の意味であるとするなら、森山が「現実の質を重視する」という意味もおのずから明らかであろう。森山もウォーホールと同じように複写する。しかし「かれの複写は、あるものをただ写して、その数を複数化するものではなくて、森山の解釈というべきものなのである。」(『森山大道とその時代』p32)

また、ウォーホールは、すぐ飽きてしまうような通俗的なものを添加することで、芸術の質を取り除く。それにたいして、森山は、「相手が自然であれ、人工物であれ、かれは、それをかれの世界のなかに、主観的な質として把握し、作品化するのである。(『森山大道とその時代』p42) 

藤枝氏はふれていないが、この主観的な質というのが、「アレ、ブレ、ボケ、硬調」を特徴とする森山節なのではないか。もちろんこれは演歌であり、くり返されれば飽きてしまう通俗的なものだ。ウォーホールの通俗性が芸術の質を取り除くためだとすれば、森山の通俗性は写真に擬似的な芸術の味付けをするためである。これは、写真が絵画を真似ることで、芸術もどきになろうとする擬態である。

ひとは、写真を論じることに夢中で、写真がpictureであることを忘れている。



2008.11.21[Fri] Post 23:04  CO:0  TB:0  -森山大道  Top▲

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