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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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また長いつまらないコメントを書いて申し訳御座いません。
場違いであれば、削除してくださって結構です。
以前、白髪一雄について書かれたブログのコメント欄で、お話いただいた、抽象画のイリュージョンについての問題の続きですが、
「絵画への没入」の可能性について述べられているので、ここに書かせていただきたいと思います。
というのは、夏の終わりに、ロスコルームが暫らく閉鎖になるということなので(まだ一度も行ったことがなかったので)、ロスコとニューマン、そしてその他の現代美術のコレクションを見に川村記念美術館に行ってきました。
ロスコについては、来年この美術館でロスコ展を行うということなので、そのときにもう一度じっくり観察してから考えてみたいと思います。
とりあえず、白髪一雄と対比して、抽象画のイリュージョンの例として挙げられたニューマンの「アンナの光」という作品について、私なりに鑑賞した結果を述べさせて頂きます。
真っ赤なオールオーバーの画面の脇に左右不ぞろいの白い隙間(帯?)を配した画面ですが、この白い帯の意味は私にはよくわかりませんでした。音声解説では、この左右の白が赤い色をせき止めて、色に広がりを与えると言ってましたが、絵の上も下も、周りから部屋全体に至るまで、ここの絵の背景の全てが真っ白なので、左右の白い帯の意味(具体的な効果)は、あるのでしょうか?
さらに、この抽象絵画の三層構造の例として挙げられた三つのポイントですが、

>《アンナの光》が知覚されるだけの事物(キャンバス、絵の具)で、イリュージョンがなければ、それは赤く塗られたただの壁である。赤い壁はわたしをさえぎり、わたしの身体を取り囲む。知覚された平面は平たい立体なのだ。

これは、仰るところの「物理的像」でしょうから、当然私にもわかりました。
私がよくわからなかった(残念ながらこの作品から読み取れなかった)のは、その後の

>ところが、この赤い物理的平面(壁)が赤い空間のイリュージョンを生めば、その空間は想像された空間であり、われわれの身体が属する空間から切断される。

と仰るところの「図像客観」としての空間のイリュージョンと、

>さらに、赤い平面は事物として知覚されるのではなく、焦点の定まらないぼんやりとした赤い広がりにみえることがある。これは知覚のひろがりでもイリュージョンのひろがりでもなく、錯視に似た空間であり、われわれの身体とは両義的な関係にある広がりなのだ。

という(コメント欄でお答えいただいたところの)面色です。

まず、図像客観としての空間のイリュージョンについてですが、一般論として、これは、どのような条件によって生み出されるものでしょうか?
あるいは抽象画の場合に話を限ったとして、入っていけそうにない架空の空間であっても、素朴に考えれば、それは平面上の、明暗や色彩の変化や線的な図示によって、三次元の形態や奥行きが僅かでも表現されたときに現れる現象ではないでしょうか。具体的には、なんらかの形態(立体)や空間を描いているようにも見える、明暗法や空気遠近法や透視図法等々と「似たようなも」のによって(あるいはそれが水墨の滲みのような亡羊たるものであっても)、我々が二次元の面の上に三次元空間の示唆(の如きもの)を、かろうじて見て取ることができるときに、図像客観としての空間が成立するのではないでしょうか。しかし、赤一色の、明度差も彩度差もないこの画面上には、そのような三次元の図示のように見えるものの片鱗も見当たらなかったと思います。
私が理解してるかどうかわかりませんが、美術館に行く前にいちおう読んだグリーンバークの評論集の、仰る該当部と思われるところに、こうした記述があります。
「視覚的なイリュージョンは許容するし許容しなければならない。表面につけられた最初の一筆がその物理的な表面性を破壊するのであり・・・・」つまり抽象画家といえども、絵に筆を置いて差異を画面に与えるのであれば、そこにいやおうなくイリュージョンが発生する。それは、昔の西洋の絵のように「中へ入っていけるような」三次元のイリュージョンではないけども、視覚的には三次元性のもの(目によってのみそこを通過できるもの)である、と。
ところが、ニューマンのこの赤一色の画面には、ほとんど差異と呼べるものがありません。差異のない、赤い表面の「色」だけで、どのように表面性(二次元性)を破壊し、奥行き(視覚の三次元性)を獲得することができるのでしょう?
このことが私にはどうしてもわかりませんでした。

もうひとつは、面色のことです。
これも表面性が邪魔して成り立ちませんでした。と言うのは、この赤一色の平面は、案外に粗く、筆か刷毛の塗り跡のようなものや、塗りむらが目立ち、さらには、滴った絵の具の雫が固まったようなイボのような突起も見られて、表面が、とても実体的な質感に富んだものだったからです。この質感が邪魔となって、赤い色が、テクスチャーを持つ「面」を彩っている、強い「表面色」としての知覚を脱することができず、面色の知覚には至りませんでした。実際に起こった知覚を言葉でわかりやすく表現するのは難しいのですが、以下のことが起こりました。
赤い画面が視野のほとんどを占めているので、多少は目と画面の間の距離感の変動(両眼視差の狂い)が起こりました。こうした場合、距離感があやふやであっても、逆に表面のテクスチャーがはっきりと強く浮き上がって見えるので、これでは面色にはなりません。むしろ、その強く突出してくる進出色の面(強い物質性を感じさせる表面)に対して、視野の端近くに映っている、絵の背景の白い壁が、後退し、さらにはぼやけ、赤と対照された効果から青白い色の「面色」となって現れました。少し絵の前から後退し、白い部屋を眺め渡すと、赤を見つめ続けた効果で、氷のような青白い色が部屋全体を包んでいましたが、これはちょっときれいでした。この白い部屋という「背景の構成」もニューマンの指定なのかと係員に聞いたのですが、どうもよくわからないようでした。ただ、恐らくこうした大画面のオールオーヴァーの作品は、絵に空間に穿たれた「場」としての効果を持たせようとするなら、それなりの背景が必用なはずだと思いましたが、これがもしかすると、

>絵画の空間とインスタレーションの空間が対立し宥和して独自の空間意識を生んでいる。

ということだろうか?と思いました。

以上が、私がニューマンの「アンナの光」から感じたことの、ほぼ全てです。
ご存知のように、私は抽象画については音痴で(というか、絵についての考え方があまりにも古く)鑑賞意欲がないだけなのかもしれませんし、グリーンバーグも理解しておらず、おかしなことを述べているのかもしれません。
そもそも図像客観としての、目によってのみ通過できる空間を、三次元性のものと解するのが間違っているのかもしれません。
しかし、それが三次元性の「奥行き」に類するものでなければ、どのような「空間」なのでしょう?それがわかりません。色面だけの空間なんて。
二次元としての色面が、周囲の現実空間から、三次元的なイリュージョンも帯びずに、なんらかの理由で独立して見える、ということでしょうか?
いずれにせよ、残念ながら、実体験の上では、私には仰るところの三層構造も見えず、この絵に「没入」することができませんでした。
あたりまえですが、同じものを見ても、人によって見方が全く異なるものですね。
2008.11.19[Wed]  投稿者:ヒドラ  編集  Top▲

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『モーリス・ルイス 秘密の色層』 川村記念美術館 

 

モーリス・ルイスの《ヴェール絵画》をながいあいだ見たいとおもっていた。上田高弘が『モダニストの物言い』の中でルイスについて書いた言葉を読んだからだ。ちょっと長いけれど引用させてもらう。

 モーリス・ルイスのいわゆるヴェールの絵画(たとえば《ダレット・ペー》[一九五八年作、滋賀県立近代美術館蔵]を前にすると、ぼくはいつも、それを言葉にしようとする努力の空しさを感じる    あまりに感性的なものに慣れすぎている目の前に開けているヴェールの、その内部の不均質な暗さ、その奥にある精妙な色彩、ヴェールの背後からやってくるかの光    
 その色彩の秘密に近づこうとして画布に接近してゆけばその物質としての様態、すなわちロウ・カンヴァスにステイニングという材料と技法の内実は了解もされようが、その色彩そのものにはたとえ手を伸ばしてもどうにも到達できないように感じられる。
 たどり着こうとしても遙けき、このヴェールの絵画での体験を、自然にたいするときのそれとの類縁で語ることもできるだろう。ぼくはたしかに自然のごときものに対峙する。ごときものというのは、自然界にもそのような色彩は(ありそうで)ないだろうと信じるからなのだが、いずれにしてもこのとき、ぼくが見るヴェールは、たんにそれを見る対象ではなく、逆にぼくがそれに包まれてあるというような、すなわち対象以上のものである。(『モダニストの物言い』p278) 

上田氏自身も言っているように、少し大げさな表現とも思えるのだが、じっさい川村美術館でルイスの作品を見れば、決して商業誌で読むような誇張したレトリックではないことは判るだろう。ただ、上田氏の感動には共感もし理解もできるのだが、東京都現代美術館でみた『ロスコ展』のときのようには、いまひとつ「没入」することはできなかった。

あいにくロスコの《シーグラム壁画》は貸出中ということで、常設展示のニューマンやステラを見てから、ルイスの展示室に入った。最初の左側の壁に《金色と緑色》1958年が掛かっていた。下塗りのしていない綿布に薄く溶いたアクリル絵具をしみこませたというステイニングの技法や、半透明の色層を確かめようとしたけれど、左右の余白にヘラでこすったような黒っぽい色面あり、それがちょうどヴェールをかさねて作ったカーテンが後ろの壁につくった影のように見えるのに気がついた。

その影は、ヴェールのリアリティを強め、あたかもボリュームのあるカーテンのようなイリュージョンを生んでいる。これはルイスが《ヴェール絵画》で意図したものではないかもしれない。しかし、この《金色と緑色》を最初に見たせいか、他のヴェール画もどうしてカーテンに見えてしまうし、そうでなくても鍾乳洞や地層や有機体のようなものに見えるのは、(じっさいには綿棒や板でコントロールしているらしいのだが)、基本的には偶然や物理法則にまかせて出来た染み込みや文様やにじみだからだ。

もちろんヴェール画が具象画だと言っているわけではないが、その自然の対象に似たイリュージョンが邪魔になって、上田氏のいうような「そこに包まれてある」という感覚に身を任せるのが難しい。

上田氏の「そこに包まれてある」という感覚は、「自然のごときものに対峙する」とも「対象以上のもの」とも表現しているのだから、おそらくはカントが「崇高なもの」と名付けた感覚ではないか。この「崇高」という概念は、アメリカの抽象画についてしきりに使われる美学的概念であることから分かるように、自然のなかに自然を超えたものを感じることだ。

美は目に見えるが、崇高は目に見えるものを超えたものだ。われわれは数学的に大きなものや力学的に強大なものに崇高性を感じる。それは自然を見ることではではなく、物自体を感得することだ。ニューマンは自分の絵を近づいて見てほしいという。川村美術館にある《アンナの光》を初めて見たときは、そのハードエッジな赤い色面の強度に圧倒され感動した。近づけば赤い空間がわれわれの身体を包み込み、焦点が定まらず、身体感覚が麻痺したようなめまいを感じる。これを崇高な感情だと言えなくはない。

一度目は、《アンナの光》は圧倒的な強度をもって崇高である。しかし、二度目は、アウラを失って、リテラルな赤い壁が眼前に立ちふさがるばかりだ。また、ルイスの半透明のヴェール絵画は色と光が交差して美しい。しかし、その自然的形象の暗示と反物質的透明性のために完全に没入することはできない。両者には、逆の意味で、マイケル・フリードのいう「抽象性」が欠けているのだ。ニューマンはイリュージョンの完全な抹殺によって、ルイスは具象性への譲歩によって、ともに「抽象性」の強度を弱めていると思われる。

「抽象性」を強めるためにニューマンはジップを描き入れたが成功しなかったと思われる。また、ルイスが《アンファールド》や《ストライプ》の絵画へと移行したのは、抽象性の問題を解決するためなのかどうかは判らないが、ヴェール絵画の美しさやイリュージョンを失ってしまい、むしろ抽象性が減少したようなきがする。

抽象の強度を高めることによって、具象性を止揚(アウフヘーベンです)したのはロスコである。ロスコの絵画は抽象画に見えるがじつは具象画でもある。ロスコの矩形は、抽象的な図形ではない。左右二本の垂直線と、上下二本の水平線に囲まれた矩形は、キャンバスの矩形の中に描かれることによって、円でも三角でも四角でもなく、この世で最も中立的な絶対的な図形になる。

ロスコの矩形を見つめれば、光がかすかに射した広がりのイリュージョンが我々を包み込む。ロスコの四角形は天地創造であり、すべての存在者をささえる大地なのだ。グリーンバーグは絵画の空間を目で見るだけのイリュージョンと歩いて入れるイリュージョンを分けたが、ロスコの空間は我々をのみこむ、没入のイリュージョンを生む。

「没入」するには特別の構えと能力が必要だと、上田氏は『モダニストの物言い』の《暗い部屋》の章で述べている。だとするなら、私がルイスの《ヴェール》画に没入出来ないのはわたしの能力不足かもしれない。いずれにしろ、絵画に「没入」するということは、鑑賞者の主観的態度ばかりではなく、絵画の構造の問題にも深く関わっているようなので、いずれ考えてみたい。

2008.11.16[Sun] Post 21:36  CO:1  TB:0  -モーリス・ルイス  Top▲

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「絵画への没入」の可能性について述べられているので、ここに書かせていただきたいと思います。
というのは、夏の終わりに、ロスコルームが暫らく閉鎖になるということなので(まだ一度も行ったことがなかったので)、ロスコとニューマン、そしてその他の現代美術のコレクションを見に川村記念美術館に行ってきました。
ロスコについては、来年この美術館でロスコ展を行うということなので、そのときにもう一度じっくり観察してから考えてみたいと思います。
とりあえず、白髪一雄と対比して、抽象画のイリュージョンの例として挙げられたニューマンの「アンナの光」という作品について、私なりに鑑賞した結果を述べさせて頂きます。
真っ赤なオールオーバーの画面の脇に左右不ぞろいの白い隙間(帯?)を配した画面ですが、この白い帯の意味は私にはよくわかりませんでした。音声解説では、この左右の白が赤い色をせき止めて、色に広がりを与えると言ってましたが、絵の上も下も、周りから部屋全体に至るまで、ここの絵の背景の全てが真っ白なので、左右の白い帯の意味(具体的な効果)は、あるのでしょうか?
さらに、この抽象絵画の三層構造の例として挙げられた三つのポイントですが、

>《アンナの光》が知覚されるだけの事物(キャンバス、絵の具)で、イリュージョンがなければ、それは赤く塗られたただの壁である。赤い壁はわたしをさえぎり、わたしの身体を取り囲む。知覚された平面は平たい立体なのだ。

これは、仰るところの「物理的像」でしょうから、当然私にもわかりました。
私がよくわからなかった(残念ながらこの作品から読み取れなかった)のは、その後の

>ところが、この赤い物理的平面(壁)が赤い空間のイリュージョンを生めば、その空間は想像された空間であり、われわれの身体が属する空間から切断される。

と仰るところの「図像客観」としての空間のイリュージョンと、

>さらに、赤い平面は事物として知覚されるのではなく、焦点の定まらないぼんやりとした赤い広がりにみえることがある。これは知覚のひろがりでもイリュージョンのひろがりでもなく、錯視に似た空間であり、われわれの身体とは両義的な関係にある広がりなのだ。

という(コメント欄でお答えいただいたところの)面色です。

まず、図像客観としての空間のイリュージョンについてですが、一般論として、これは、どのような条件によって生み出されるものでしょうか?
あるいは抽象画の場合に話を限ったとして、入っていけそうにない架空の空間であっても、素朴に考えれば、それは平面上の、明暗や色彩の変化や線的な図示によって、三次元の形態や奥行きが僅かでも表現されたときに現れる現象ではないでしょうか。具体的には、なんらかの形態(立体)や空間を描いているようにも見える、明暗法や空気遠近法や透視図法等々と「似たようなも」のによって(あるいはそれが水墨の滲みのような亡羊たるものであっても)、我々が二次元の面の上に三次元空間の示唆(の如きもの)を、かろうじて見て取ることができるときに、図像客観としての空間が成立するのではないでしょうか。しかし、赤一色の、明度差も彩度差もないこの画面上には、そのような三次元の図示のように見えるものの片鱗も見当たらなかったと思います。
私が理解してるかどうかわかりませんが、美術館に行く前にいちおう読んだグリーンバークの評論集の、仰る該当部と思われるところに、こうした記述があります。
「視覚的なイリュージョンは許容するし許容しなければならない。表面につけられた最初の一筆がその物理的な表面性を破壊するのであり・・・・」つまり抽象画家といえども、絵に筆を置いて差異を画面に与えるのであれば、そこにいやおうなくイリュージョンが発生する。それは、昔の西洋の絵のように「中へ入っていけるような」三次元のイリュージョンではないけども、視覚的には三次元性のもの(目によってのみそこを通過できるもの)である、と。
ところが、ニューマンのこの赤一色の画面には、ほとんど差異と呼べるものがありません。差異のない、赤い表面の「色」だけで、どのように表面性(二次元性)を破壊し、奥行き(視覚の三次元性)を獲得することができるのでしょう?
このことが私にはどうしてもわかりませんでした。

もうひとつは、面色のことです。
これも表面性が邪魔して成り立ちませんでした。と言うのは、この赤一色の平面は、案外に粗く、筆か刷毛の塗り跡のようなものや、塗りむらが目立ち、さらには、滴った絵の具の雫が固まったようなイボのような突起も見られて、表面が、とても実体的な質感に富んだものだったからです。この質感が邪魔となって、赤い色が、テクスチャーを持つ「面」を彩っている、強い「表面色」としての知覚を脱することができず、面色の知覚には至りませんでした。実際に起こった知覚を言葉でわかりやすく表現するのは難しいのですが、以下のことが起こりました。
赤い画面が視野のほとんどを占めているので、多少は目と画面の間の距離感の変動(両眼視差の狂い)が起こりました。こうした場合、距離感があやふやであっても、逆に表面のテクスチャーがはっきりと強く浮き上がって見えるので、これでは面色にはなりません。むしろ、その強く突出してくる進出色の面(強い物質性を感じさせる表面)に対して、視野の端近くに映っている、絵の背景の白い壁が、後退し、さらにはぼやけ、赤と対照された効果から青白い色の「面色」となって現れました。少し絵の前から後退し、白い部屋を眺め渡すと、赤を見つめ続けた効果で、氷のような青白い色が部屋全体を包んでいましたが、これはちょっときれいでした。この白い部屋という「背景の構成」もニューマンの指定なのかと係員に聞いたのですが、どうもよくわからないようでした。ただ、恐らくこうした大画面のオールオーヴァーの作品は、絵に空間に穿たれた「場」としての効果を持たせようとするなら、それなりの背景が必用なはずだと思いましたが、これがもしかすると、

>絵画の空間とインスタレーションの空間が対立し宥和して独自の空間意識を生んでいる。

ということだろうか?と思いました。

以上が、私がニューマンの「アンナの光」から感じたことの、ほぼ全てです。
ご存知のように、私は抽象画については音痴で(というか、絵についての考え方があまりにも古く)鑑賞意欲がないだけなのかもしれませんし、グリーンバーグも理解しておらず、おかしなことを述べているのかもしれません。
そもそも図像客観としての、目によってのみ通過できる空間を、三次元性のものと解するのが間違っているのかもしれません。
しかし、それが三次元性の「奥行き」に類するものでなければ、どのような「空間」なのでしょう?それがわかりません。色面だけの空間なんて。
二次元としての色面が、周囲の現実空間から、三次元的なイリュージョンも帯びずに、なんらかの理由で独立して見える、ということでしょうか?
いずれにせよ、残念ながら、実体験の上では、私には仰るところの三層構造も見えず、この絵に「没入」することができませんでした。
あたりまえですが、同じものを見ても、人によって見方が全く異なるものですね。
2008.11.19[Wed]  投稿者:ヒドラ  編集  Top▲

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