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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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桜井浜江

新日曜美術館で『地の底から湧き上がる力 灼熱の女流画家 桜井浜江』を見た。のっけから、壇ふみが身をよじって嬌声をあげたのには驚いた。壇ふみもそろそろ交代の時期だろ。それはともかく気になったことを一つだけ書いておく。

桜井浜江の絵は下手にみえる。もちろん本物と比較して下手に見えるといっているのではない。どんな下手な絵でもテレビ画面で見ると少しはマシに見えるものだが、桜井の絵はただただ下手に見える。

はじめはちょっと面白そうに見えた。『雪国の少年達』や『壺』は色も構図も平面的に処理された空間も魅力的に見えた。しかし、そう見えたのはNHKのカメラマンが絵をちらちらと見せたから、だまされたのだ。『壺』はなんどか繰り返し見せられたけれど、見るたび、不愉快といっては言い過ぎだけれど、だんだんと気が滅入ってきた。

抽象と具象を組み合わせたような風景画は、色彩も形も構図も奥行きもどれもちぐはぐで、何をやりたいのか分からないのではなく、むしろ作家の意図が生のまま画面を支配しているようにおもえる。

また、壺や樹のシリーズ、なかでも『樹(二)』は、抽象と具象の曖昧さではなく、絵具と絵具で描かれた主題の境界が消され、絵を見る楽しみが台無しになっている。 絵を見るということは絵の具という物質を知覚しながら、その絵の具を超越してイリュージョン(Bildsujet)を見ることなのだが、この『樹(二)』は、絵具もイリュージョンも見えない。見えるのは絵具がそのまま事物になった陶器や樹木の表面なのだ。われわれは、壺や樹木のイリュージョンではなく、陶片や木肌のフェイクを知覚していることになる。

桜井は絵具で絵を描いているのではなく、絵具細工で陶片や木肌を作っている。

もちろん本物の絵を見れば、絵具のマチエールが見えて、壺や樹木のイリュージョンが現出するかもしれない。しかし、それでもやっぱり絵画の三層構造の弁証法的緊張(注1)はないだろう。本物を見ずにこんなことを言うのは不当だけれど、抽象と具象を折衷した緊張感のない風景画や、絵画の表面と事物の表面を混乱させた絵(注2)はときどき見かけるから、たぶん私の推測はそれほど間違ってはいないだろう。

 

注1:絵画の三層構造については私のHP『絵画の現象学』をごらんください。

注2: たとえば吹田文明の《復活の日》は十字架の木材の木肌がそのままそこにあるように見える。

2008.10.19[Sun] Post 02:46  CO:0  TB:0  -桜井浜江  Top▲

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