ART TOUCH 美術展評

久米宏のCAR TOUCHにならって、五つの項目に分け、5点法で美術展を評価します。美術展を楽しみながら、現代美術理論の理解を深めます。

李禹煥論

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禹煥展(横浜美術館)
2006/4/8(土) 午後 5:34 | 美術展 | 絵画

自己紹介をかねて、去年横浜美術館で開かれた李禹煥展の感想を述べてみたい。
まず、美術館の入り口に厚い鉄板が塀のように立ててあり、中を窺うことができない。塀の内側を覗いて、中がどうなっているのか確かめてみたいのだが、それはできない。周りにはいくつもの大きな自然石が転がしてあり、塀の上にもひとつ乗せてある。今にも落ちそうな感じで、ヨーロッパの静物画に好んで描かれたメメント・モリ「死を忘れるな」の主題を思い出させる。テーブルから落ちそうな果物かごや花瓶で、生命のはかなさを暗示するのだが、まさか現代アートの代表者がそんな古臭い図像学をふりまわすことはないだろう。いったいなんで塀の上に石が乗っかっているのだろう。
 この最初の作品に関してはあまり感動はしなかった。なにかどこかで見たような気がした。厚い四角の鉄板はミニマル彫刻のように思えたが、それにしてもミニマル・アートに自然石というのは何か怪しいものがある。
 手を触れてはいけないと掲示があったが、もし地震がきたら塀や石の下敷きになって死んでしまうという心配で、作品にはちかづけなかった。
 それと、こんな大きな作品を制作し運搬し設置するには大変な費用が掛かったろうし、それにこんな重いものを置いたら敷石がつぶれないかと余計な心配をしてしまう。
 美術館の内部で
 きょうはここまで、「絵が分かる」と称しながら、一向に分かっていないことがばれそうなブログになりそうです。とにかく最初の印象を正直に書きます。それにこれを書きながら、インターネットで李禹煥を調べるとたくさんのサイトにヒットして、ちょっとやばいかんじです。最初に李禹煥展なんか取り上げなければよかったとくやんでいます。明日も頑張ります。



李禹煥展(横浜美術館)2
2006/4/9(日) 午後 4:39 | 美術展 | その他芸術、アート

 館内の展示室を見て回りました。白いキャンバスと自然石と厚い鉄板が展示されていました。やっぱり分かりません。面白くありません。
 このまま足早に通り過ぎて、アートが分からない奴だと思われるのも癪だから、腕を組んで立ち止まったり、作品に近づいたり遠ざかったりしてじっくり鑑賞しました。
 いくつかの点に気付きました。キャンバスと刷毛の黒い跡と鉄板が、みんな四角であること。四角は現代アートでは、根元的なカタチだということはしっています。白い壁に白いキャンバス、そしてその白いキャンバスに黒い四角となれば、当然マレーヴィッチのシュプレマティスムの絵画、「黒の正方形」と「白の上の白」を思い出します。ただし、黒い四角はマレーヴィッチの正方形より小さく、一つあるいは複数描かれているので、その分余白の構造も多少は複雑になっているのですが、そこから運動が生じることはないようです。
 また、刷毛のタッチは作者の肉体の運動の痕跡になっているのだが、それがほぼ正方形なので、離れてみれば、動きもなく、静止したままです。
 展覧会の副題に「余白の芸術」とあるので、目をこらして余白を見たが、何も見えない。余白というのは知覚心理学では図ではなく地なのだから、それが浮き立ってみえることがないのは当然かも知れない。しかし、日本画には余白の美しい絵はたくさんある。抽象画にもたくさんある。
 しかし、この絵には表現主義的なものは一切ない。均衡だとか調和だとリズムといったものももちらんない。したがって生きた余白もないことになる。
 そこまでなにもないなら、きっと作者が何もないように描いたのだろうと思うほか無い。それにしても、そこまで作家の痕跡を消しながら、なぜ刷毛のタッチに作者の肉体の痕跡を残したのだろう。もちろんこのタッチはキャンバスに相当近づいて見なければわからないのだけれど。
 李禹煥は作家の意識をその小さな黒い四角に圧縮し、極小化しているようにも思える。
 ところが李禹煥は最後にちょっとしたどんでん返しする。最後の展示室に入ると、一番奥の壁に黒い刷毛の痕跡が見える。ところがキャンバスがない。白い平面がひろがるだけで、キャンバスの縁が見えない。よっぽど大きなキャンバスなのかと部屋の中に入ってみるが、何処にも壁とキャンバスの境界がない。黒い四角はキャンバスではなく、直接白い壁に描かれているのだ。あるいはむしろ部屋を取り囲んでいる白い壁が、そのまま巨大なキャンバスだといってもよい。
 黒い四角は壁に描かれた矮小な汚れにも見える。しかし、次の瞬間その矮小な黒い四角は白い空虚な平面を、充実した想像力に満ちた絵画にかえるのだ。この白はもはや余白ではない。たしかにそこに存在するのだ。
 詐欺にひっかかったようなものだが、わたしは、素直に感動した。



李禹煥(横浜美術館)3
2006/4/9(日) 午後 11:11 | 美術展 | 絵画

 鉄板と石の作品「関係項」に戻る。第一回の投稿で玄関前の作品「関係項−−鉄の壁」についての感想を述べた。それは最初に見たときの印象をなるべく正直に予備知識なしにかいたものだが、本当は展示室出口で流されていた李禹煥のインタビュー・ビデオで、かれが石は自然的なものの象徴で、鉄板が人工的なものの象徴で、両者が偶然に関係をむすぶときの面白さについて話していたのは知っています。しかし、ここでも、引き続き予備知識がなかったときの印象を述べることにします。
 まず、自然石がどうしても気に入らなくて、なるべく見ないようにしていた。その理由はあとで述べるとして、この鉄板の作品を−石は無視して−キャンバス画と関係づけて見ていました。前回述べたように現代アートのキーワードである四角形あるいはグリッド(格子)のテーマが扱われているとおもえたからです。
 キャンバス画のほうは四角形がテーマとしてもマレーヴィッチの「黒い正方形」ほどの面白さはないが、四角い鉄板の方は、キャンバスのそばに置いてやれば、結構面白いものに見える。黒くて重い鉄板が、不遜にも白くて軽いキャンバスになろうしている。鈍重な鉄の塊が、軽やかなキャンバスに憧れるという、ちょっとコミカルな面白さが感じられる。もちろん神聖な現代アートにこんな擬人的な解釈をするのは不謹慎なきもするけれど、たしかにこの鉄板には、重力に抗するコミカルな軽やかさがある。
 できれば、鉄板をちゃんとキャンバスのように壁に架けてやり、代わりにキャンバス画を床に置いたら面白いのではないかと想像する。そんなことはできない、鉄板が重くて壁が壊れてしまうというなら、なおさらのこと、壁の裏側に仕掛けを作って吊してやれば、鉄板も大喜びだろう。
 横浜美術館の学芸員も書いていたけれど、曲げられた鉄板、とくに床に置いてあった、端が少しふくらんだように盛り上がっている鉄板は、無機的なものから有機的な生命が生まれて来るようでもあるし、少女の胸のふくらみのようでもあり、そこはかとないエロティスムを感じて、見飽きることがない。



李禹煥(横浜美術館)4・・・・・庭石について
2006/4/10(月) 午後 2:26 | 美術展 | 絵画

 今回は石と鉄板の作品「関係項}について述べる。
 李禹煥は、石が自然を意味し、鉄板が人工を意味するという。たしかに石は河原から拾ってきたままの自然石だし、鉄板は鉄工所で加工したものだ。(戸外の石は自然石というより石切場から切り出してきたように角張っている)
 しかし、私には自然石は庭石にしか見えない。Gartenzwergとおなじキッチュとしか思えない。小市民の趣味の悪さの象徴でもある。バルブの頃は数百万円、数千万円の値段が付き、河原から勝手にトラックで盗み出す者が後を絶たなかったそうだ。
 もちろん、キッチュが悪いというわけではない。工夫によってはポップ・アートになるだろう。あるいは庭石は自然が作ったレディー・メイドなのだから、庭から、美術館に持ち込めば、デュシャンが便器でやったような、アンチ・アートのおもしろさが生まれるかもしれない。
 しかし、庭石はもともと美的商品なのだから、美術館に持ちこんだとしても、今さらスキャンダルにならない。もちろん李禹煥は庭石を展覧会に出品したわけではない。鉄板のそばに置いて「関係項」とキャプションをつけているのだ。(もの派は、作らない、物の再現ではなく関係性のズラシを求める等いっているとのことだが、目下のとことアーティスト本人や学芸員のいうことはできるだけ無視したい)
 李禹煥は石を孤立して見るのではなく、鉄板のそばに置くことで、石は鉄板との関係性の中で「自然」という象徴的意味を獲得するというのだが、わたしはうかつにもそんなことはちっとも感じなかった。既に述べたように、わたしは石と鉄板の関係ではなく、鉄板とキャンバスの関係をみていた。鉄板と石は一つの作品なのだから、空間的にはキャンバスより近くにおいてあるのだが、四角形という根元的な図形の媒介によって、鉄板とキャンバスの方がより親密に共鳴し、あるいは対立しているようにおもわれた。
 石と鉄板は形態的にも象徴的にも対立矛盾しているし、そこに弁証法的運動が生まれるはずなのだろうが、「庭石としての象徴的意味」が圧倒的に強く働いていて、わたしには、鉄板と石との関係性を感じることができなかったのだ。



李禹煥展(横浜美術館)5・・まとめ
2006/4/11(火) 午後 5:41 | 美術展 | 絵画

 李禹煥展の感想をのべようと思っていたのだけれど、李禹煥やもの派の理論をインターネットで調べて
いるうちに、自分の芸術理論を先に整理しておかなければならなくなり、もうこれ以上かけなくなりまし
た。

 また、カタログを買ってこなかったので、あやふやな記憶を頼りにかいて、あとで横浜美術館のHPをよんだりして、何が最初の印象で、なにが後から考えたことか分からなくなってしまいました。

 これからは、できるだけカタログを買ってこようと思います。それとカタログの図像を貼り付けるばあい、著作権の問題はどうなるのかわからないのですが、もしできるなら画像も載せたいとおもいます。(著作権をご存じの方ご教示ねがいます)

 全体を通しての印象はそれほど強いものではなかった。何より玄関前の「鉄の壁」が、その意味がわからなかったにもかかわらず、その作品の全体的な姿雰囲気が、いわゆる我々がよくしっている現代アートの範疇を一歩もでていないように思えた。

 いや、そうではない、そのような現代アートの道具立てを作ったのは李禹煥やもの派の人たちだというかもしれない。確かにそうだろう。同じ「関係項」でも初期のガラスと鉄を使ったものは、写真でみただけなのだが、比較にならないほどの緊張感を感じる。鉄板の上に同じ形大きさのガラスを重ね、その上に石(鉄?)のキューブをのせてある。割れたガラスが鏡になってキューブを薄く映している。

 これと今回の「関係項−−見えるものと見えないもの」を比べると、これはこれで面白い作品だとはおもうのだが、その強度には格段の差があるように思われる。端的に言うと「見えるものと見えないもの」は図解的説明的な作品におわっているようなきがする。

真鍋かをりが「わー、おもしろい。石がのってるほうの鉄板は沈んでるんですね。それで目には見えないはずの石の重さが目にみえるんですね。それで沈んでいない鉄板は、見えない二つ目の石の上に乗っているって。こっちの鉄板は見えないものを見えるようにして、そしてこっちの鉄板は見えるものを見えなくしてるってことですよね。ふだん私たちって見えるものは見える、見えないものは見えないって単純に考えていますけど、そうではなくって、見えることと見えないことはもっと複雑に絡み合ってるんですね。今日までわたしはアートってなんか難しいものだと考えていましたけど、きょう、お話をきいて、アートってそんな難しく考えることはない、もっと身近で楽しいものだってことがよく分かりました。きょうは本当にためになりました。ありがとうございます」といいそうな気がします。

ひとまず終わり

*
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2006.04.17[Mon] Post 22:33  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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