『なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか』
今枝 仁著
著者の今枝弁護士は、光市母子殺害事件の被告から弁護人を解任された。その背景には安田主任弁護士との弁護方針をめぐる対立があったらしいが、その対立が何なのかは、この本を読んでも、必ずしもよく分からない。弁護士は被告の罪を軽くしようとする。そのため、計画性がなかった、殺意はなかった、自白調書は信用できない、生育環境の情状酌量などを持ち出すわけだ。 安田弁護士は法医学的観点から殺意がなかったことを証明しようとするのにたいして、今枝弁護士は家庭環境による情状酌量を求める。この二つは、今枝弁護士も認めているように、特に矛盾するものではなく、どちらに重点を置くかの法廷戦術の問題である。背後に死刑制度の廃止と存置の対立があったようだが、これもこの裁判に関しては被告が死刑にならないように弁護するという点では一致しているのだから、とくに対立する理由にならない。 だから、これは痴話喧嘩なのだ。今枝弁護士と安田弁護士が被告の取り合いをして、振られた今枝弁護士が被告への未練を述べているようにみえる。被告は,死刑制度廃止のために、安田弁護士に利用されただけで、被告を本当に理解していたのは自分で、被告本人も自分を信頼していたと、今枝弁護士が自分を捨てた被告への思いを綴っているように思える。 彼は「なぜF君を助けようとしたのか−−その答えの多くも、僕の個人史にある。」と言う。その今枝弁護士の個人史は、もちろん感動的なものなのだが、よくある弁護士の苦労話以上のものではない。しかし、今枝弁護士は自分こそ被告の心を理解出来るのだと言う。たとえば、被告が友人に送った手紙に悪意はなかったと被告の真意などを忖度したり、勤め先のネーム入りの制服を着ていたから、計画的な強姦ではなく、和姦への淡い期待だったともいうのだが、たしかにその可能性はゼロではないにしても、生育歴の情状酌量を求めるのなら、すくなくとも被告本人が強い懺悔の態度を示すことがどうしても必要だろう。 (もちろん素直な反省の態度を示せないのは生育歴のためだというのだろうが、それでは無限後退だ。ひとはどこかで動機や意思ではなく、自分の行為に対して責任をとらなければならない。こんな簡単なことが分からないのは、殺人とか死刑とか狂気に関わるからだ。いじめで考えれば、ことは簡単だ。近頃ではいじめをする奴も被害者だとか、いじめられるやつにも責任があるなど、いかがわしいことを言うのがいるが、バカなことを言ってはいけない。イジメをする奴は卑劣なだけだ。小学生だってイジメをする奴は卑劣な犯罪者なのだ。もちろん責任能力はある。場合によっては死刑にしたってよいと思う。死刑はイジメの抑止力になるだろう) 今枝弁護士の弁論には無理がある。その点安田弁護士の弁護方針は妥当なものだ。鑑定書に記載された被害者の頸部の索条痕から見て、被告に殺意はなかったというのだ。これは被告の自白などによる心理的な内面に立ち入らずに、科学的に殺意がなかったことを証明しようとするのだから、被害者家族やマスコミや裁判官が抱いていると思われる、被告は改悛していないのではないかという印象が不利にならないからだ。また、ドラえもんとか甦りの儀式とか荒唐無稽な主張も、責任能力の欠如を証明するための再(々?)鑑定を目指すものだとするなら、そんな突飛なこととは思えない。そして、それは失敗したのだ。 この本は「この事件の真相をみんなに伝えて欲しい」という著者が被告と交わした最後の約束を果たすものだという。いったい、約束は果たせただろうか。 宮崎哲弥が帯に推薦文を寄せている。「本当は、人が人を弁護することなんかできない。それをわかっている弁護士こそが、真の『人権派』だ。この男、わかっている。」だそうだ。これは「人は人を裁くことはできない」のもじりだろうが、意味不明のレトリックだ。 TRACKBACK
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