『ルオーとマティス』
『ルオーとマティス』展(松下電工汐留ミュージアム)★★★★☆
マティスについては、川村記念美術館の『マティスとボナール』展の感想といっしょにニョウボに書いてもらうことにして、ルオーについての印象を忘れないうちに書いておく。 若い頃は、ルオーはどちらかといえば好きな画家だった。もちろん後期の太い黒の線と厚塗りのフォーヴ的なところが好きだった。ブリジストン美術館に見に行ったし、中国地方に旅行したときもわざわざ大原美術館に見にいった。ルオーというカレーライスを食べさせる喫茶店もあった。ルノワールと同じように喫茶店の名前になるぐらいだから、日本では人気があったのだろう。 その後ルオーにはあまり関心はなくなった。白樺派的なものやキリスト教的なものが影響したのかもしれない。ルオーの展覧会や雑誌の特集があっても気にとめなかった。今回の展覧会もマティスとの二人展でなければ、行く気にはならなかったろう。 でも、行ってみたら、面白かった。初期のデッサンはマティスよりおもしろいし、ヌードはあきらかにルオーのほうが優れている。水彩の《娼婦ー赤いガーターの裸婦》は解説に「醜い中の美」と書いてあったが、醜いところなんかひとつもない。傑作だ。 ところが、後期の厚塗りの作品がちっとも面白くないのだ。線も色も死んでいる。大小の遠近法も何の効果も上げていない。表現主義なところもせいぜい漫画的な手法にしか見えない。少しがっかりした。 帰宅してからも、なぜルオーがこんなにもつまらなく見えたのか理由が分からなかった。松下電工がだまされて駄作をつかまされたのではないかとも考えたが、パリ市近代美術館やルオー財団から借りうけた作品も多数あるから、だまされたというのは当たらない。 いずれにしても、若い頃はマティスより優れていたルオーが、年をとるうちに次第にマティスに追い抜かれていったと考えざるをえない。ルオーは絵を描く技術はマティスより優れていたのだが、絵を見る目が劣っていたのだ。それで、表現主義的な主題になるにしたがって、絵に形式的な緊張がなくなっていったのではないか。反対にマティスは技術的な修練を積み重ねる中で、線とか面とか色というものの本質を掴んでいったのではないか。二人を年代順に見ていくとそうとしか思えない。 ルオーの後期の絵が緊張に欠けて見えたのは、マティスと比較したからではないか。マティスも黒い線を使っているのだが、ルオーのような輪郭線ではなく、素描の線になっている。マチスの《黄色のドレスとチェックのドレスの娘》を見ると、黄色の椅子に座った黄色のドレスの娘は、黒い線描で描かれているし、赤い壁紙を背景にした赤いブラスを着た娘も黒い線で描かれいる。しかし、娘の桃色の腕が赤い壁紙を背景にしているところは、同じ色ではないので境界がハッキリしているからだろう、黒い線はない。また、《赤い室内の緑衣の娘》では、テーブルの脚や観葉植物の茎が、クロッキーのような素早い黒い線でデッサンされている。それに対してルオーの黒い線は色面を囲む輪郭線であり、よく言われるようにステンドグラスのような装飾的な平面になっていて、マティスのような線と色彩の面白さはない。 もちろん、これはカタログを見てのわたしの思いつきで、展覧会場で感じた失望の本当の理由なのか自信がない。そんなことより、モダニズムの一つの達成であるマティスと比べれば、大抵の画家は凡庸ということになるのだろうから、これでルオーを二流の画家だと言うことはもちろんできない。 近頃、企画不足のせいか、たとえば『ジャコメッティと矢内原』のような気の抜けた二人展が多いが、この『ルオーとマティス』展は、モダニズムを理解するのに大いに役立つし、なによりも見ていて楽しい展覧会になっている。とりわけマティスが分からないと嘆いている人には必見である。 そういうわけで星四つ半★★★★☆の大盤振舞です。 TRACKBACK
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