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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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絵が上手い」あるいは「下手」というのは、かなり曖昧で定義しずらい尺度ですね。
 定規やコンパスを使って描くような線や円を、フリーハンドで描けるということは、目と手の運動神経の良さであって、これを一般に「上手い」と評しますが、必ずしも「絵が上手い」ことの条件にはならないと思います。
ただ、そのような機能を持つことが、手描きの線を多用する美術においては、有利な資質になっている、ということではないでしょうか。
線の美しさは、昔の美術では洋の東西を問わず珍重されていました。
ただ、特に中国や日本では、筆で描かれた文字が、絵画と並んで重要な視覚(平面)芸術の位置を占めてきた関係上、線(正確には筆遣いの跡)が、とりわけ重要視されていたのではないでしょうか。
これは、定規やコンパスで描かれるような線の正確さとは、必ずしも一致しません。
この場合の線とは「筆遣い」という運動を示す軌跡であって、その運動の面白さや見事さも表しているからです。
ですから、多くの日本画家たちがするように、木炭の下描きをなぞるようなやり方では、いくらきれいな線が描けても、こうした筆遣いという「運動」の面白みや見事さが感じられないのです。

私は現象学という哲学については無知ですが、仰るところの物理的図像と図像客観と図像主題が本当に明確に分かれているのでしょうか。
キュビズムやシュルレアリスムの絵画の中に、新聞紙その他の物理的図像を直に貼り付けたものがありますが、これは物理的図像なのか図像客観なのか。
また、絵画の現象学の中で彫刻と絵画の違いについて述べられていますが、レリーフについてはどうなのでしょう。
レリーフは自らの身体を基準にした現実の空間に属しているのか、絵画のような別の想像的な空間に属しているのか・・・
初期ルネサンスで、恐らくはジョットあたりから強く出てくる、このレリーフの明暗を模倣したような「擬似立体」のビジョンが、西洋画のレアリテの基本となる明暗法(キアロスクーロ)であって、それにダビンチその他が、人体構造の描写や遠近法を精妙に当てはめていったのが、ヨーロッパの自然主義的な絵画のヴィジョンの成り立ちだと私は考えています。
その証拠に、一番「本物」と見間違うような西洋の「騙し絵」、つまり偽の立体空間は、レリーフを絵で描いたものです。
洋画の基本である明暗法が、もともとレリーフ(という擬似立体)の明暗のパクリなのですから、これは当然の帰結です。

セザンヌはとりわけて印象派の中でも、このレリーフ様のキアロスクーロという擬似立体のビジョンに強く反発した画家ではないでしょうか。
にもかかわらず、彼は印象派の光学理論にも反発していて、その点では、ある種の古典回帰を目指しています。
彼の有名な言葉「自然の形を円筒と球と円錐とで処理することだ」があります(これをセザンヌの真意ではないと言う人もいますが)。
しかし実際、このようは形態による分節はヨーロッパのアカデミーの素描の原則なのです。
ただアカデミーがセザンヌと違うのは、それらのモチーフの形態分節の結果を、キアロスクーロという「擬似立体」のビジョンを通して、統一されたパースペクティヴの中で、基本的には解剖学などで理解される人体構造を外側から表現しつつ、なおかつ古来の理想化された人体比例を考慮しながら処理することだと思います。
そこでは明暗法によって、分節された個々の形態が明確に示されながら、全体を形成します。
この部分形態の不鮮明なデッサン(例えば日本で神様扱いの安井のデッサンなど)は、この場合には評価に値するものにならないのです。
セザンヌは印象派と関わり、離別し、この明暗法のヴィジョンに反発しながら、古典回帰(?)の過程で形態分節の理念を取り戻しながらも明暗法のヴィジョンを破壊したのではないでしょうか。

因みに写真というものは、形態分節を必ずしも伴わない、光学的写像による明暗法(もどき)です。それはものを見分ける(形態分節する)ことが必ずしもできません(もちろん、撮影者が望む形態を浮き立たせようとしてライティングなどを工夫すればこの限りではありませんが。この写真のキアロスクーロならぬ水墨画的な利用が心霊写真でしょうか)。
もちろん、こうしたセザンヌの解釈は単純すぎると思いますが、セザンヌに影響を受けた多くのヨーロッパ人の後継者達が示したのは、このような明暗法や統一されたパースペクティヴ、あるいは人体構造の解剖的正確さを必ずしも伴わない「形態分節」だったのではないでしょうか。
だからそれは、そこかしこに古典美術の亡霊(形態分節)がちりばめられながらも、全体としては明暗法やパースペクティブや人体比例を著しく破壊するものとなっているのです。
これは、ヨーロッパ美術のヴィジョンが近代で全く変わってしまったのではなくて、その断続を示しているのです。
素朴派といわれるルソーの人物画などでも、古来のアカデミックな意味では「下手糞」であったにしても、彼なりの形態分節がきちんと表現されている限り、近代的には優れた素描力がある作品、ということになると思います。
2008.03.12[Wed]  投稿者:ヒドラ  編集  Top▲

ヒドラさん 長いコメントありがとうございます。ホームページの「図像の現象学」はなんとか続きを書くつもりです。お察しのとおり、図像の三層構造は三色アイスクリームみたいに、きれいに分かれているわけではありません。モノクロ写真ではこの三層構造が比較的わかりやすいというだけです。
 くわしくはそのうち書きます。ひとまずこれで。
2008.03.13[Thu]  投稿者:安積  編集  Top▲

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絵が上手だということ

獏さん・ヒドラさん。 絵が上手いということはどういうことか、考えるとわからなくなりますね。たとえば、数学の教師がフリーハンドでほぼ完璧な円を黒板に描いたとする。この円は上手いといえるでしょう。しかし、コンパスを使って描いた円は上手とは言わない。それなら宇治山哲平の円はどうだろう。宇治山はコンパスを使って円を描いたのだから、円を描くのが上手いとはいわない。しかし、宇治山の円は三角や四角と配置され、彩色されて見事に美しい。それなら、吉原治良の円はどうだろう。一筆で描いたように見えるけれど、じっさいはそうじゃない。抽象画なのだから、上手いとか下手とかいってもあまり意味はないだろう。それなら、抽象画の上手い下手の評価はどうするのか。不可能なのか。
 線の上手い下手もある。なかんずく、日本の絵画では重視されるようだ。和紙に墨と筆で描けば上手い下手は一目瞭然だろう。なにより書き直しができないから、修練が必要だ。
 日本画は狩野派をもとに生まれたらしいのだが、水墨画のような描線の上手い下手が曖昧になっている。朦朧体もあったし、そのご紆余曲折があったけれど、とくに近頃のボーダーレスの日本画には描線の美しさはない。町田久美の線は一筆で描くのではなく、少しずつつなげて描く。松井の幽霊の髪や洋犬の毛は描線というよりただ線状のものを細かく描写しているので上手に見えるだけではないか。山口晃は上手いけど、イラストの面白さだし。
 デッサンは写真の誕生で上手い下手の意味が変わってしまった。モダニズムがどこから始まるのか知らないが、マネのデッサンはまだしっかりしているが、セザンヌのデッサンはどう理屈をつけようとも写真的なものを基準にすれば上手いとは言えない。ピカソはデッサンが上手いと言われるが、キュービズム以前のものや新古典時代のものにはセザンヌ的な「不正確な」デッサンがある。だからといって、セザンヌやピカソの絵が下手だと言うことにはならない。モダニズムによってデッサンの意味が変わったのだ。
 そのもっともわかりやすいのがマチスだろう。マチスのデッサンは正確ではない。しかし厳密なのだ。下手なところは一つもない。曲線は女のヌードをあらわしている。そんな形の女がいたら不気味である。しかし、ゆがんでいるのはキャンバスに絵具で描かれたおんな(図像客観Bildobjekt)であり、われわれが見ているおんな(図像主題Bildsujet)ではない。描かれたおんなの歪みは中和化されて背景に退いている。そこに図像主題のおんなが現れる。マチスのデフォルメは漫画のデフォルメではない。誇張ではなく本質の把握なのだ。
 ピカソのおんなも同じことだ。横顔と正面が混じった顔(図像客観)をよく見れば、そこにちゃんとした女の顔(図像主題)が見えてくる。いろいろな視点から見ているとか、異なる時点を一つにしている(ホックニーの考え)とか、理論はいろいろあるだろうが、それはあくまで<知覚>している図像客観の話であって、<見ている>図像主題の話ではない。ピカソが難しく見えるのは、失敗作が多すぎるからだ。図像主題のおんなが現れてこない作品がたくさんある。ただ図像客観を見て女が描かれているらしいと推測するだけの作品はつまらない。絵はなぞなぞではない。
 それとマチスと比べて、ピカソの最大の欠点は表現主義的象徴主義的な傾向があることで、性的な妄想、戦争反対、女性恐怖、母性愛といったテーマ(主題)が、本来の絵画的主題を台無しにして、図像客観と図像主題の弁証法的緊張を弛緩させている。そうなれば、ピカソの絵はほとんど落書き以上のものではなくなる。この類のピカソの作品はまったく下手だと断言する。とくに共産党のプロパガンダとして描いたという壁画「戦争と平和」は、岡本太郎の「明日の神話」のほうがマシだと言ってもよいほど、下手くそである。
 それでも、ピカソが上手いという伝説ができたのは、おそらくファウンド・オブジェを使った像や闘牛のスケッチや鳩などの即興的な素描作品の魅力のためではないか。少なくとも私にはそうである。
 絵やデッサンが上手いというのは、通常は図像客観のレベルで言うのであって、絵の本来の面白さ、すなわち図像客体と図像主題の作用反作用の面白さとは別のものなのだろう。だから、上手でもつまらない絵がたくさんある。たとえば美術雑誌の「一枚の繪」にはそんな絵であふれいる。
 繪が上手い下手という問題はなかなか難しい。それに、わたしの鑑賞眼は未熟でしょっちゅう評価が変わっている。いろいろな楽しみ方があるのだろうが、たとえば、ヴェラスケスの肖像画は優れた技巧で描かれた上手な絵であるが、わたしにはひどく退屈な絵に見える。それも物理的図像と図像客観と図像主題の三つのあいだに弁証法的緊張がないからだ。この絵画の三層構造についてはわたしのHP「絵画の現象学」をごらんください。
2008.01.21[Mon] Post 01:13  CO:2  TB:0  美術展評  Top▲

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絵が上手い」あるいは「下手」というのは、かなり曖昧で定義しずらい尺度ですね。
 定規やコンパスを使って描くような線や円を、フリーハンドで描けるということは、目と手の運動神経の良さであって、これを一般に「上手い」と評しますが、必ずしも「絵が上手い」ことの条件にはならないと思います。
ただ、そのような機能を持つことが、手描きの線を多用する美術においては、有利な資質になっている、ということではないでしょうか。
線の美しさは、昔の美術では洋の東西を問わず珍重されていました。
ただ、特に中国や日本では、筆で描かれた文字が、絵画と並んで重要な視覚(平面)芸術の位置を占めてきた関係上、線(正確には筆遣いの跡)が、とりわけ重要視されていたのではないでしょうか。
これは、定規やコンパスで描かれるような線の正確さとは、必ずしも一致しません。
この場合の線とは「筆遣い」という運動を示す軌跡であって、その運動の面白さや見事さも表しているからです。
ですから、多くの日本画家たちがするように、木炭の下描きをなぞるようなやり方では、いくらきれいな線が描けても、こうした筆遣いという「運動」の面白みや見事さが感じられないのです。

私は現象学という哲学については無知ですが、仰るところの物理的図像と図像客観と図像主題が本当に明確に分かれているのでしょうか。
キュビズムやシュルレアリスムの絵画の中に、新聞紙その他の物理的図像を直に貼り付けたものがありますが、これは物理的図像なのか図像客観なのか。
また、絵画の現象学の中で彫刻と絵画の違いについて述べられていますが、レリーフについてはどうなのでしょう。
レリーフは自らの身体を基準にした現実の空間に属しているのか、絵画のような別の想像的な空間に属しているのか・・・
初期ルネサンスで、恐らくはジョットあたりから強く出てくる、このレリーフの明暗を模倣したような「擬似立体」のビジョンが、西洋画のレアリテの基本となる明暗法(キアロスクーロ)であって、それにダビンチその他が、人体構造の描写や遠近法を精妙に当てはめていったのが、ヨーロッパの自然主義的な絵画のヴィジョンの成り立ちだと私は考えています。
その証拠に、一番「本物」と見間違うような西洋の「騙し絵」、つまり偽の立体空間は、レリーフを絵で描いたものです。
洋画の基本である明暗法が、もともとレリーフ(という擬似立体)の明暗のパクリなのですから、これは当然の帰結です。

セザンヌはとりわけて印象派の中でも、このレリーフ様のキアロスクーロという擬似立体のビジョンに強く反発した画家ではないでしょうか。
にもかかわらず、彼は印象派の光学理論にも反発していて、その点では、ある種の古典回帰を目指しています。
彼の有名な言葉「自然の形を円筒と球と円錐とで処理することだ」があります(これをセザンヌの真意ではないと言う人もいますが)。
しかし実際、このようは形態による分節はヨーロッパのアカデミーの素描の原則なのです。
ただアカデミーがセザンヌと違うのは、それらのモチーフの形態分節の結果を、キアロスクーロという「擬似立体」のビジョンを通して、統一されたパースペクティヴの中で、基本的には解剖学などで理解される人体構造を外側から表現しつつ、なおかつ古来の理想化された人体比例を考慮しながら処理することだと思います。
そこでは明暗法によって、分節された個々の形態が明確に示されながら、全体を形成します。
この部分形態の不鮮明なデッサン(例えば日本で神様扱いの安井のデッサンなど)は、この場合には評価に値するものにならないのです。
セザンヌは印象派と関わり、離別し、この明暗法のヴィジョンに反発しながら、古典回帰(?)の過程で形態分節の理念を取り戻しながらも明暗法のヴィジョンを破壊したのではないでしょうか。

因みに写真というものは、形態分節を必ずしも伴わない、光学的写像による明暗法(もどき)です。それはものを見分ける(形態分節する)ことが必ずしもできません(もちろん、撮影者が望む形態を浮き立たせようとしてライティングなどを工夫すればこの限りではありませんが。この写真のキアロスクーロならぬ水墨画的な利用が心霊写真でしょうか)。
もちろん、こうしたセザンヌの解釈は単純すぎると思いますが、セザンヌに影響を受けた多くのヨーロッパ人の後継者達が示したのは、このような明暗法や統一されたパースペクティヴ、あるいは人体構造の解剖的正確さを必ずしも伴わない「形態分節」だったのではないでしょうか。
だからそれは、そこかしこに古典美術の亡霊(形態分節)がちりばめられながらも、全体としては明暗法やパースペクティブや人体比例を著しく破壊するものとなっているのです。
これは、ヨーロッパ美術のヴィジョンが近代で全く変わってしまったのではなくて、その断続を示しているのです。
素朴派といわれるルソーの人物画などでも、古来のアカデミックな意味では「下手糞」であったにしても、彼なりの形態分節がきちんと表現されている限り、近代的には優れた素描力がある作品、ということになると思います。
2008.03.12[Wed]  投稿者:ヒドラ  編集  Top▲

ヒドラさん 長いコメントありがとうございます。ホームページの「図像の現象学」はなんとか続きを書くつもりです。お察しのとおり、図像の三層構造は三色アイスクリームみたいに、きれいに分かれているわけではありません。モノクロ写真ではこの三層構造が比較的わかりやすいというだけです。
 くわしくはそのうち書きます。ひとまずこれで。
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