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2008.01.05[Sat]  発信元:みかの日記  

岡本太郎



     岡本太郎≪明日の神話≫特別公開 (東京都現代美術館)
 
 テレビで、岡本太郎の『明日の神話』公開カウントダウンイベントを見た。山下洋輔が大袈裟に腕をふりあげてピアノを叩いていた。「芸術は爆発だ」を思い出した。
 若い頃、岡本太郎のほかに、横尾忠則と赤瀬川原平がどうも好きになれなかったが、この三人は1960年代を代表するアーティストと言っていいだろう。
 横尾は、三島由紀夫の紹介がきっかけで、アメリカで高く評価され、それが文化後進国の日本に逆輸入されたという話だったが、ポスターごときが芸術とは片腹いたい。たんなるポップなジャポニスムではないかと、ついでに三島の文学も底の浅いものに思えた。『金閣寺』の美学が空疎に思えた。
 赤瀬川原平はエセ芸術だと思った。模造千円札の裁判で芸術だから無罪だと主張していたが、芸術が法より偉いというのには笑ってしまった。偽札は、お金がイリュージョンだということを暴露するとも言っていたが、それを教えてくれたのは経済学であって芸術ではないだろう。
 二人に比べ、岡本はわかりやすい芸術家だった。かれの通俗的な芸術論はおおいに大衆を啓蒙してくれた。「芸術はきれいであってはならい」という言葉は、子供にだって理解できたし、「座る事を拒否する椅子」は、アートの面白さを私たちに教えてくれた。
 ところが、大阪万博の《太陽の塔》は、わたしには理解しがたいものだった。日本中が大騒ぎしていた。パリ万博のエッフェル塔に比較する評論家もいた。大きな角のような塔の本体から小さい角が両手を広げたように生えている。上のほうに金色の埴輪の顔みたいなものがあり、下の方にはピカソのまねのような浮き彫りの顔が口をとんがらせている。
 たかがお祭りの櫓にあれこれいうのも野暮だし、万博が終われば取り壊されることになっていたので、じっと我慢していた。批判らしきものは、アメリカの評論家が「デキモノみたいで、針でぶちゅっと潰したい」と言っていたことぐらいだ。
 《太陽の塔》は結局保存されることになったけれど、とにかく万博も終わってやれやれと思っていたら、ある日突然《太陽の塔》が目に飛び込んできた。銀座の数寄屋橋公園を横切ろうとしたら、角が生えた塔が、目の前に立っていた。わたしは文字通り卒倒しそうなった。胸がドキドキした。裏切られたような、からかわれたような、なんとも奇妙な感じがした。
 あとで知ったことだが、この塔は《太陽の塔》のレプリカではなく、それより前に作られた《若い時計台》で、それがたまたま都民劇場の事務所に行くため数寄屋橋公園を横切ろうとして目に入ったのだ。
 じっさい見てみれば腹を立てるほど醜悪なものではなかったが、行きがかりじょう、こんなものは二度と見ないぞと、都民劇場へは、わざわざ遠回りして旭書店の店の中を通り抜けたりして、おもしろがっていたが、そのうち塔のことなどすっかり忘れてしまった。
 ところが、《明日の神話》がメキシコで発見されたのをきっかけに、岡本太郎の再評価が始まった。イベント屋がイベントを企画して、それに美の商人たちが乗っかって岡本太郎ブームが再来した。それで、忘れていた大阪万博の《太陽の塔》の大騒ぎのことを思い出したというわけだ。
 ともかく、《明日の神話》を見ておこうと思った。立体的な建造物を芸術として評価するのは難しかったので岡本の絵を見たかった。《森の掟》や《重工業》を見ていたが、《太陽の塔》と同じ時期に製作したという《明日の神話》を見たいとおもった。
 そして見た。予想どおりつまらなかった。凡庸な宗教画である。真ん中に大きく描かれた骸骨は、紛れもなくイエス・キリストである。図像学の知識はないが、構図や遠近法が宗教画なのだ。イエスは磔刑のかわりに原爆に焼かれて、爆風に耐えて立っている。
 たしかにこの絵は、岡本が言う現代芸術の三つの条件「うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」を満たしている。しかし、それだけでは絵は人を感動させることはできない。岡本がこの宗教画にどんなメッセージを込めようとしたのか分からないが、わたしにはなんとも古めかしい宗教画のパロディにしか見えない。
 岡本と横尾と赤瀬川の三人を(わたしの勝手に)1960年代の日本のアートを代表する芸術家だとすると、四十年後の現在の日本のアートシーンとあまり変わりがないように思える。スーパーフラットやシュミレーショニズムやPCやコンセプチャル・アートといろいろ名前を変えても、なかみそんなに変わっていないようにおもえるのだが、どうだろう。
 藤枝晃雄によれば、岡本太郎は画家としては凡庸だったが、評論家としては優れたところがあったというのだから、彼の「対極主義」というものがどういうものか勉強してみようと思う。
2007.09.07[Fri] Post 02:25  CO:0  TB:1  美術展評  Top▲

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