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養老孟司の〈脳タリン〉

 


    養老孟司の『バカの壁』

 茂木のクオリアを批判する前に、養老孟司のバカらしさに触れておきたい。布施英利は養老の弟子だというのだから、あながち美術評論に関係ないわけではないし、なんにでも「脳を持ち出す脳タリン」とイロハカルタ風に憶えておけば、近頃はやりのトンデモ心脳論にだまされずにすむだろう。
 養老の『バカの壁』は読んでいない。『唯脳論』は読んだけれど、「意識なんて中枢神経の肥大化だ」と言ってたことぐらいしか憶えていないので、彼の講演のことを書く。在職中に養老孟司が勤め先に講演にやってきた。わたしは、社内報に載せる写真をとる係を仰せつかって、ついでに講演も聞いた。養老孟司はもぞもぞと聞き取れない声で自己紹介めいたことを言っていたが、ちょっと声を高くして、「『バカの壁』がバカ売れしちゃって」といった。私はカメラのファインダーを覗いていたのだが、もちろん笑った。礼儀だからだ。ところが、聴衆からは何の反応もない。講演は芸だから、聴衆から反応がないと調子がでない。ダジャレでも良いから笑ってあげなくてはいけない。養老は講演慣れしたすれっからしではないのだろう、少しあわてている。きっとこれまで、「バカの壁がバカ売れ」のダジャレはウケていたのだろう。だから何回も使っている。何回使っても、笑ってもらえるのが芸である。ところが養老孟司は素人の悲しさ、ちょっとためらったのだ。聴衆も聞こえなかったわけではない、やっぱりちょっとためらったのだ。
 あわてた養老があわてて持ち出したのが、サルがタイプライターでシェークスピア(聖書だったかもしれない)を打つ話である。個性とか独創性なんてないことの例え話だ(やれやれ、やっと本題にたどり着いた)。シェークスピアの作品は、アルファベットの組み合わせだから、サルが適当にタイプライターを打っていれば、いずれハムレットと同じ文字の連なりが打てるというのだ。もちろんサルには有機体としての偏りがあるし、タイプライターのキーの位置もそうだ。しかし、サルがまったくランダムにキーを打てると仮定することは許される。思考実験だ。実際に、コンピュータを使えば、まったくランダムにキーを打つことは出来る。そのぐらいのことは分かるのだろう、聴衆の受けは良かったが、この話にはおかしなところがある。
 もし乱数を使うなら、はじめからそう言えばいいのであって、わざわざサルを持ち出す必要はない。人間でも良かったのだ。もちろん、私が打ってもサルと同じようにシェークスピアは出てこない。デタラメに打つというのは有意味な綴りにならないように打つことだからだ。デタラメとランダムは意味が違う。それを「サルがデタラメにタイプライターを打つ」なんて表現はまやかしである。乱数を使うと言えば、それが確率の問題だと言うことが判ってしまうからだ。
 それは、ともかく乱数を使えば、いずれハムレットと同じ文字列が出てくる。その確率も計算できる。だから、「サルがデタラメにタイプライターを打ってもシェークスピアが書ける」ということは、ひとまず認めていい。しかし、どうして、ここから、シェークスピアに独創性はないといえるのか分からない。養老はただ、何処かで聞きかじった話でウケを狙っただけのことだろう。それにしても、解剖学者がよくもこんなデタラメが言えたものだ。
 実は、このゲームはただ文字の組み合わせを操作しているだけで、言葉の意味が介在していない。このことは、シェークスピアではなく、まったく無意味な文字列、たとえばコンピュータで作り出したランダムな文字列を使っても、同様な一致不一致のゲームが出来ることから容易に推察できるだろう。
 養老はおそらく遺伝子のランダムな変異とカットアップの手法の話をごたまぜにしているのだ。しかし、遺伝子のランダムな変異は表現形として適応不適応の意味を持っているし、カットアップもそれ自身は機械的な操作だが、できあがったものは、文字列の一致不一致ではなく(どだい、何に一致するのだ。切り刻む前の文章なら創作の方法としては意味がない)、作者自身や読者の意味無意味の判定にさらされるのだ。(わからない人は山形浩生の『たかがバロウズ本。』を読んでください。決して椹木野衣を読まないこと)(注1)
 文字列の一致不一致はコンピュータに判断できても、その文字列が有意味か無意味かは人が読んで判断しなければならない。そもそも、統語論よりも意味論のほうが先にあるのであって、意味に導かれて言語の構造が発見されるのだ。ただ、ソシュールはシニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(概念)が恣意的でありながら引き離せないという言語のアポリアにぶつかって、意味論を書くことができなくなったのだ。
 言語のシステム(構造でも統語論でも音韻論でも文法でもいいですよ)によって言語の意味を理解することは出来ないにもかかわらず、それがあたかも出来るように言う。それだけでは満足出来ずに、言語学を記号学に一般化して、言葉だけではなく、あらゆる記号現象に拡張する。もちろん絵画も図像客体(Bildobjekt)が図像主体(Bildsujet)を意味するのだから記号の仲間である。だからと言って記号学で絵画の意味を理解することなんかできないことは、言葉の意味と同じである。どだい、絵画には、言語にあるような弁別的差異のシステムがないのだから、言語学(ソシュール)から作られた記号学を適用するには無理がある。それを、もっともらしいレトリックを駆使して、支離滅裂なのに、深遠だから難解なのだと思わせている。バルトなんか映像の修辞学とかいって、古くさい図像学を開陳してる。そんな類比や連想や妄想をごたまぜにした記号論風ゴッタ煮がポストモダンだ。その最も洗練されたものがロザリンド・クラウスであり、その最も雑なのが椹木野衣である。(これは褒めすぎ。椹木の言っていることは闇鍋みたいで、私にはほとんど理解できない)
 ちょっと、話が脱線したが、以上で『バカの壁』の著者がバカなことを言ってることは、ひとまず判って頂けたと思う。
 それでは、言葉の意味が言葉のシステム(綴りや文法など)では理解できないということと脳がどんな関係があるというのか。ないじゃないか。それがあるのだ。言葉の意味を言語の構造で説明できないように、言葉の意味を言語中枢のニューロンの発火パターンで説明することも同じようにできないのだ。このことは、次回に述べる。(近頃話題の図像検索も以上のことに関係しているんです)
 茂木健一郎の「クオリア・マニフェスト」批判へ
 

(注1)ただし、山形の「アルゴリズム」には注意、かなり怪しいぞ。
   

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2007.07.17[Tue] Post 01:20  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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