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2007.08.11[Sat]  発信元:美術がすごくよかった  

山口晃(4)



『アートで候。』の山口晃の作品《山愚痴屋澱エンナーレ》について

            記号と絵画

 《澱エンナーレ》はトリエンナーレのもじりで、国際展にたいする憧憬と嫌悪のアンビヴァレントな心持ちや、言説にたいする不信感を表していると、山口は言うが、わたしが見た国際展は2005年の『第二回横浜トリエンナーレ』ぐらいで、そこに展示されていた作品は、差別とか環境破壊とか貧困とかを告発しているらしい作品以外は、奈良美智のインスタレーションも含めて、何も理解できなかった。したがって、国際展のパロディだという《澱エンナーレ》の面白さも同じように私には理解できなかった。
 ただ、同じコーナーに展示されていた、これも《澱エンナーレ》の展示品なのか判らないが、標識やアイコンを利用したパロディ作品がおもしろかった。パソコンの電源スイッチのアイコンを、人が井戸に落ちるところに見立てたり、男の標識(便所/歩道?)を横に寝かせて、ギロチンで首を切られる場面にしたりと、たわいないものなのだが、そのなかでテニスコートの標識のパロディ作品は、記号と絵の違いがハッキリと判って、おもしろい作品になっている。標識は誰でも知っているように、ラケットを持った人を図案化したもので、この標識がテニスコートを示すのは、絵としての類似性だけではなく、記号としての約定性(取り決め)によってもいる。
 そのことを山口は、標識に《ナルシスト》というタイトルをつけることで示す。その絵がどんな絵だったのか忘れてしまったけれど、《ギロチン》や《井戸に落ちる》は、どう見たってこじつけだけど、《ナルシスト》はタイトルを付けただけで、ラケットが手鏡に見えてくる。説明的な絵はジャマなだけで必要ない。ただ、標識の記号性を変えてやればいい。しかも、手鏡という言葉は使わずに、手鏡とはメトミニーの関係にあるナルシストというタイトルを付けている。なるほど、見れば見るほど手鏡に見えてくる。これをそのまま昇りのエスカレーターの近くに貼れば「ミラー・マンに注意!」の標識になる。
 と言うわけで、記号というのは、類似性によって、文字から図形、象徴から写真へと、いくつかの段階に分けられる。フッサールは、絵画が類似性を減少させる過程を象徴化(symbolizieren)と名付けている。類似性が減少すれば、われわれの意識は図像意識から記号意識に変わっていく。フッサールは象徴化の例として、絵画の目録用の図録をあげている。図録は正確な複製から簡単なアイコンまでさまざまな段階がある。あるいは子供の絵をあげている。子供の描く絵は、ラスコーの洞窟画の狩人の絵と同じように省略され記号化されている。
 注意しなければいけないことは、これらの意識はそれぞれが固有の意識作用であり、一つの作用が働いているときは、ほかの作用は背景に退いている。たとえば、象形文字は、普段は絵の意識が背景に退いていて、文字の意味に影響を及ぼすことはない。いわば、スイッチが切られているのだが、われわれが注意をむければ、いつでも、それは絵として顕在化する。
 このような記号と図形と図像のあいだの問題を探求した画家にクレーがいる。クレーは、それだけではなく、色と線と形の問題も探求しているが、それぞれの要素が対立し宥和し、相互に移行浸透する様はユーモアあふれた作品になっている。しかし、山口の《ナルシスト》にはクレーのような弁証法的戯れがない。たしかに記号と絵画の違いを見せてはくれるが、それは図像の外部にある言葉(タイトル)にたよっているのであり、逆に言えば、絵がタイトル(主題)のイラストになっているということだ。記号と絵画の関係を絵画に内在するものとして捉えたクレーにしても、成功した作品はわずかであり、たいていは両者をただ並列したり折衷したりしただけに終わっている。
 絵画と記号、あるいは象徴化の問題を、図像客観と図像主題の関係として捉えたのはマチスである。マチスは図像の象徴化(Symbolizieren:Husserl)を抽象化単純化の過程としてではなく、事物の存在論的な本質の把握と考えていたように思われるが、いまここで存在論的美学について述べる余裕はない。
 『芸術/批評』の3号に、ちょうど大久保恭子が「〈シーニュ〉から解くマチス---記号学的解釈の問題点」という論文を書いているのだが、肝心の記号と図像に関する理解があやふやなので、せっかくのマチスの〈signe〉に関する当時の資料をもとにした調査研究も中途半端なものになっている。マチスの〈signe〉の研究なのか、絵画の記号論的解釈の批判なのか、どちらか一つにしたほうがよかったのではないか。どちらにしろ記号と図像に関する理解が前提になるけれど。

 山口晃にもどる。結局のところ、《ナルシスト》や《ギロチン》のおもしろさは、空耳アワーの絵画バージョンみたいなもので、笑って済ませばいいものだろう。山口は、ちかごろ、《ラグランジュポイント》や《木のもゆる》など、大和絵とはことなる世界に挑戦しているが、これらは山口のなかにもともとあった世界のようなきがするし、山口自身はイラストで何が悪いと開き直っているらしいが、前途多難である。「誰でもピカソ」でふざけている場合かなぁ。

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2007.07.22[Sun] Post 02:00  CO:0  TB:1  -山口晃  Top▲

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