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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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先見の明

今回の騒動の3年も前に楠見清のトンデモぶりを看破していた貴殿の感性に敬意を表します。

2010.06.24[Thu]  投稿者:『ブスを守る会』を守る会(笑)  編集  Top▲

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大竹伸朗《宇和島駅》

会田誠《書道教室》からのつづき 

会田誠の《書道教室》が面白くて、大竹伸朗の《宇和島駅》がつまらないのはなぜだろう。 
まず、前回の「会田と《書道教室》」の記事で途中から大竹と会田の比較をやめたため、大竹の部分を削除した。その削除した部分から始める。

 大竹には拾ってきた看板のファウンド・オブジェがいくつかある。パチンコ屋の自由の女神の看板を拾ってきて、《女神の自由》とタイトルをつけたもの、それから《宇和島駅》のネオンサインと、あとは忘れたけれど、たぶん酒場やCoca-Colaのネオンサイン、それから、廃業したスナック《ニューシャネルの扉》が東京都現代美術館の『全景』展に展示してあった。中でも《宇和島駅》が絶賛につぐ絶賛で、宇和島駅のロゴ入りのTシャツまで作ってしまったらしい。
 同じ看板でも、会田の看板には自己言及の契機があるのだが、大竹の看板はどれも美的趣味的なもので、コンセプチャルなものがない。太った自由の女神像は、パチンコ屋から美術館に運んで、《女神の自由》というタイトルを付けたからアートになったのではない。もともと立派なアートだったのだ。ハイ・アートなんかになりたくない、よけいなお世話だと、女神さまはおっしゃてる。
 大竹のファウンド・オブジェは、どれもアマチュア・カメラマンが写真を撮りたくなるようなものだ。《ニューシャネルの扉》は、ニューという文字が古いというのが、古くさいギャグになっているけれど、森山大道が喜びそうなローカルな雰囲気があるし、直島の《旧歯科医院》は、いろいろと立体コラージュしているのが、老婆の厚化粧のようで、たしかに、フォトジェニックだ。
 《宇和島駅》のネオンサインがMOTの屋上に設置されたのを、大竹が現代美術の殿堂をローカル線の宇和島駅舎に変えてしまったなんて、大袈裟なことを言う。いったい、貧乏学生がラーメン屋の看板を盗んできて下宿に飾るのとどこか違うのか。
 『美術手帖』に楠見清という美術評論家が記号論風に《宇和島駅》を分析しているが、これが、トンデモない評論なのだ。まず、楠見氏はネオン看板《宇和島駅》が宇和島駅ではない美術館の屋上に取り付けられているから、デュシャンの《泉》に付けられた偽の署名「R.MUTT」と同じ役割をしていると言う(すげえ!)。そこまでは良いとしよう(よくないが)、しかし、美術館がレディメイドの巨大な便器だというのは、いくらなんでも飛躍しすぎだ。そもそも看板と署名は別のものだ。看板は建物の名称で署名は本人の証明だ。デュシャンの便器の看板(タイトル)はR.MUTTではなく《泉》だし、反対に美術館をレディメイドにしたいなら壁にS.OHTAKEと署名しなければならない。さらに欲張って美術館を便器に見立てたいならS.OHTAKEのかわりにR.MUTTと署名すればよい。そうすれば、現代美術の愛好家なら、楠見の望むように、中にある美術品を糞尿だと思ってくれるだろう(ホントだろうか)。
 ここまでは良いとしよう(メタファーには終わりがない)。しかし、デュシャンの次はマグリットなのだ。

 ここまで書いたのだが、とてもわたしの手におえない。楠見のトンデモぶりに恐れをなして、途中で削除した。それで、ネットで楠見清を検索したら、『美術手帖』の元編集長だったという経歴が書いてあった。そんなことはどうでもいい。かれのトンデモぶりをいくつか書いておく。

1.《女神の自由》が「美術史上最大の巨大レディメイド」だそうだ。もちろんファウンド・オブジェがレディメイドであることはある。しかし、美術評論でレディ・メイドという言葉を使うなら、デュシャンのレディ・メイドが基本で、大量生産された実用的な規格品が作家によってアートの文脈のなかに置かれたもののことだろう。ところが、この自由の女神はもともとアートの文脈のなかで制作された美術品だ。デュシャンがレディ・メイドの概念を拡張したからといって、いくらなんでも《女神の自由》とタイトルを付けたぐらいで、レディメイドにはならない。たぶん、ほかのポップアートの手法とこんらんしているのだろう。デュシャンのレディメイドは、非常に明確な反芸術の概念だ。いったい《女神の自由》のどこがレディメイドなのだろう。デュシャンは、一見して実用品だと判るものを使っている。しかし、この自由の女神は実用品ではなく美術品だ。だれだって、これは自由の女神を太らせたコピーだと思うだろう。ニョウボは、「女神の自由」というタイトルを見て、「ソフトクリームを食べながらビデオを見て、太るのはわたしの勝手でしょう」だと思ったという。もっともである。大竹の「既にそこにあるもの」はデュシャンのレディ・メイドとは似ても似つかぬ気の抜けたポップの手法(シミュレーショニズムかな?)になっているのだ。

2.作家の署名と作品のタイトルをゴッチャニしている。署名と駅名に〈サイン〉というカタカナのルビをふっている。それと署名と駅名と「名」の語呂合わせもしているらしい。そこからどんな結論がでてくるのか不明。どっちにしろ、作品のタイトルと作者の署名は別物だ。ポモにはこういうレトリック(?)が、多くて理解するのが難しい。

3.宇和島でもない、駅でもない美術館に《宇和島駅》の看板を設置したのは、「あえて重大な誤記をしている」のだそうだ。そんな大袈裟な。ただ、拾ってきた看板を別の建物に掛けたという、しょぼい悪戯じゃないか。それに誤記ってなんだろう。ひょっとしてシニフィアンが好きなフランス人がシニフィエ優位を誤記によって脱構築するとかいったのかなぁ。フロイトの〈言い間違い〉も混じっているみたいだし。記号論と精神分析をゴッタ煮にしたロザリンド・クラウスの影響なのかもしれない。わかりません。

4.ともかくこの人の文のつながりが容易にわからない。3.の「重大な誤記」の文の後、「その意味で」とつながるのだが、「その意味」がどの意味なのかわからない。たぶん「『あえて重大な誤記をしている』という意味で」という意味なのだろうが、それがどうしてマグリットの《イメージの裏切り》の現代的な変奏になるのかわからない。たぶん、宇和島駅でないものを宇和島駅というのが、パイプをパイプでないというマグリットのレトリックと似ていると言いたいらしいが、いくらなんでもこの理屈は無理だろう。
 美術館はpresentしているけれど、パイプはrepresent している。要するに絵なんだから、例の絵画の三層構造があって、指示代名詞のceciはこの三つのうちのどれを指しているか一義的には決まらない。額縁にいれたキャンバスを指すこともできるし、図像主題のパイプを指すこともできる。さらに"Ceci n'est pas une pipe."という文章自身を指すことだって可能だ。谷川渥が言うように、マグリットはあくまでも表象それ自体によって表象を問題にしている。看板と建物の関係とはまったくことなるのだ。楠見はこのことを理解していないことは次の〈5.〉を読めば判る。ついでに言っておくと、うえに引用したフランス語は通常の否定文である"Ceci n'est pas de pipe." ではなく”Ceci n'est pas une pipe.”となっていることに注意。もちろん両者では否定のニュアンスがことなっている。(このことについて書いていた人の名前を忘れた。探しても本が見つからない。見つけたら報告します)

5.楠見氏は、「《宇和島駅》は物と名前のシニフィカシオンを破壊する・・・」と書いているのだが、看板と建物の関係は指標目印の関係であって、シニフィアンとシニフィエの関係ではない。だから、看板を掛け違ったからといって、シニフィカシオンが破壊されることはない。看板はまぁレッテルと考えてもいいのだが、言葉は、ソシュールも言うように、レッテルではない。ところが、固有名詞は指標の性格を強くもっているのでレッテルとまちがえやすい(ラッセル等参照)。これは、普通名詞で考えればわかる。たとえば、リンゴというレッテルをバナナに貼り付けたとしても、リンゴのシニフィカシオンが壊れるわけではない。リンゴ(signifiant)は相変わらずリンゴ(signié)なのだ。それと同じように、宇和島駅という看板を東京都現代美術館に掲げても、宇和島駅は宇和島駅なのだ。看板と建物の関係はシニフィカシオンではない、隣接の関係だ。ただ、宇和島駅の看板が宇和島駅ではない別の建物のうえにのってるというだけで、ベンツのマークをトヨタのくるまに付けたようなものだ(ちょっと違うか)。もちろん「駅」は普通名詞だし、地名の「宇和島」にはデノテーションだけではなくコノテーションもあるし、さらに自分たちで作り上げた大竹のさまざまな神話を加えて、おまけに美術館の上にのせたからと反芸術の言説も織り交ぜて、キーワード満載、好き勝手なことをいっている。

6.さらに楠見氏は、「それは『宇和島』でも『駅』でもない建物に強引にボルトで固定されることによって、逆にその建物を固有の意味から切り離し、解放して見せる」と言うのだが、これは看板と建物の関係がシニフィアンとシニフィエの志向性ではなく、両者の空間的隣接性にあることの証左なのだ。シニフィアンとシニフィエをボルトで固定することはできないが、看板と建物はボルトで固定することも針金て留めることも、比喩ではなくできるし、そのことが看板の象徴的意味にももちろん影響する。しかし、そのあとの文がわからない。どうしてこれが「逆に」なるのか。駅という看板が掲げられたんだから、その建物は当然、肯定的(あるいは否定的)に駅という命名作用に曝される。逆ではない、順当なのだ。ヒュームは、隣接が推論の根拠になると言っていたぞ。
 「固定」という言葉が「切り離す・解放する」という言葉と意味が逆になっているだけで、事態が逆になっているわけではない。だいち、それがなぜ宇和島駅による美術館の支配ではなく、解放なのか分からない。おそらく、全共闘が安田講堂を占拠して解放というのと同じコトなのだろう。ここにはあるのは弁証法ではなく、単なるレトリックなのだ。

 さて、そんなことはともかく、看板と建物には弁証法的対立がある。《宇和島駅》の看板は自分の名をもって建物に命名し、建物の固有の名を否定する。すなわち看板(駅)は建物(美術館)を占拠し支配しする。ところが、逆に、建物は自分の固有の名《美術館》によって看板を美術品に変え、看板の命名権を否定する。美術館は看板を無力な展示品に変えてしまうのだ。これが、看板と美術館のあいだにある真正の弁証法的対立なのだ。
 弁証法的対立があるのに、なぜ、大竹の看板はつまらないのだろう。それは看板と建物が互いに外部にあるからだ。いくら対立していても、それは自己矛盾ではない。自己言及性も自己否定の契機もない。互いに相手を替わりばんこに否定しているだけだからだ。会田の《書道教室》にある自己言及性が、大竹の《宇和島駅》にはないのだ。
 そもそも大竹のファウンド・オブジェにはコンセプチャルなものがあるわけではなく、ただ、ちょっと面白いものを拾ってきただけなのだ。こどもがきれいな石を見つけると拾ってくるようなものだ。大竹のスクラップブックだってそうだ。面白いと思ったから拾ってはりつけただけなのだ。それが困じて、でっかいものまで見境なく拾ってくる。《宇和島駅》のネオンサインだってそうだ。ローカル駅のネオンサインの看板なんてちょっとレトロで面白じゃないか。ただそれだけのことだ。福助足袋や金鳥蚊取り線香の看板を集めるのと変わりない。少しゴミの方に偏っているけれど、大竹が自分で思っているほどオリジナルなコレクションではない。そのぶん手を加えているけれど、やっぱりありきたりのコラージュのような気がする。大竹の作品は、美術館より秘宝館に似合っている。和尚さんの趣味なのだ。
 
 以上、大竹の看板作品《宇和島駅》について述べました。
 会田誠の《書道教室》の記事と併せて読んでください。

『楠見清の「誤読」』

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2007.07.04[Wed] Post 23:29  CO:1  TB:0  -大竹伸朗  Top▲

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2010.06.24[Thu]  投稿者:『ブスを守る会』を守る会(笑)  編集  Top▲

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