会田誠《書道教室》《宇和島駅》VS《書道教室》 「会田誠の美少女」からのつづき 同じ看板でも、会田の《書道教室》が面白くて、大竹の《宇和島駅》がつまらないのはなぜだろう。まず、二つを比較してみる。 (ということで、比較して一覧表にしたのだけれど、WYSIWYGテキストエディターがうまく機能しなくて、一覧表が下の方に行ってしまった。どうしてもうまくいかない。スクロールして見てください) あまり良く整理されているとはいえないけれど、二つの看板の違いがおぼろげにでも理解できたろう。 〈大きさ〉の視点から、《宇和島駅》と《書道教室》の違いをもう少しくわしく見てみよう。 《宇和島駅》《桑田》《書道教室》の文字は三つとも大きい。 《宇和島駅》は駅名の看板だから、遠くから見えるように大きい。 《桑田》はスポーツ紙の見出し文字だと判るように大きい活字をさらに大きく誇張している。 《書道教室》の文字が大きいのは、もちろん《宇和島駅》と同じように看板だからだ。 しかし、書道教室の看板は街角に掲示するもので、そんな大きい必要がない。 それなら、これは藤枝晃雄のいう「日常品の巨大化」という面白主義のアートなのだろうか。日常品の巨大化というのは、たとえば電話機を大きくして、それに押しつぶされるといったギャグのことだが、看板を大きくしても、ふつうはギャグにはならない。137mのHOLLYWOODの看板はギャグではない。飛行機から見ればちょうどいい。しかし、書道教室のような、今どきはやらない、ちっぽけな塾が、大きな看板を掲げたら、ギャグになる。 しかし、《書道教室》の面白さは看板の巨大化だけににあるのではない。《書道教室》がアクリル板で作った本物の看板だと、はじめからは、判らない。ただ、書かれている文字が〈教室〉だから看板のような気がするだけだ。しかし、看板だったら四つの文字をそんな風には並べない。これは半紙に書いた習字の文字だ。だから、これは、看板ではなく、半紙の文字を巨大化した「面白主義」の作品なのだ。 書は手で書く、あるいはせいぜい腕を使って書くのだから、大きさには限界がある。手書きの文字には自然な大きさがあるのだ。だから、巨大な電話機で電話が掛けられないように、巨大な楷書体を筆で書くのは不可能だ。百畳敷きの畳の上で、太い筆を振り回して、アクション・ペインティングのつもりか、勢いが良いだけの、ぐじゃぐじゃな文字を書いてアートだなんていうが、くだらない。くやしかったら、手本どおりの楷書体で書いてみろ。 じつは、《書道教室》には二つの自己否定の契機がある。一つは上に書いたように、手書きの文字が巨大すぎて、手書きが不可能なことだ。それから、もう一つは、手書きの書を教える塾の看板が手書きではなく、コンピュータのフォントで切り抜かれていることだ。 《書道教室》がデジタル・フォントだとは、はじめからは判らない。しかし、近づいて、それがアクリル板を切り抜いて貼り付けた正真正銘の看板だと判ったとき、文字はコンピュータで書いたとわかるのだ。 リキテンスタインの大きな筆触(ふであと)を描いた《Brushstroke》という作品は、どこにも筆のタッチがなく、印刷した漫画のような作品なのだが、筆触は黒い輪郭線で立体的に描かれていて、実際のbrushstrokeとは似てもにつかない。したがって、《Brushstroke》にbrushstrokeがないという一種のジョークになっている。 しかし、書(しょ)というのは、文字の一画々々が一つのブラッシュ・ストローク(ふであと)になっている。毛筆に墨を付けて紙に書くのだから、にじむこともかすれることもあるだろう。ところが、楷書体は、ニジミやカスレを排除して、「ふであと」を純化する。確かにシンプルで美しい。実用的な読み書きが書道になって、美しい文字が正しい文字になり、お手本になった。懸腕直筆明窓浄机、書道が堕落して習字になった。 書がレタリングになって毛筆の良さはなくなった。そして、いちいち手書きの文字をスキャナーしなくても、デジタル・フォントで、どんなに大きな文字でも手書き風に自由自在にかけるようになる。毛筆の文字をコンピュータで書いたというだけなら、小さい文字でもいいのだが、それではアイロニーがわからない。毛筆を教える書道教室の看板文字を、毛筆では書けないぐらい巨大な楷書体で書いたのだ。これが、玄関に掛ける看板なら、杉の板かなんかに師範が揮毫すればたりるだろうが、これだけ大きいと楷書体は不可能だ。 これは特注品だが、規格品であり、その意味ではレディ・メイドなのだが、背後から照明をつければ白い乳白色のアクリル板は美しく輝いてなかなかポップで面白い。この面白さはたぶんアメリカ人には理解できないだろう。かれらは、漢字をTシャツのロゴにしてよろこんでいるが、それはジャポニスムであって、《書道教室》のようなアイロニーがあるわけではない。書道はカリグラフィーとは別物だし、いわんや習字の持つキッチュな感覚を欧米人が理解するのはとうてい無理だ。そんなことは会田は先刻承知のうえなのだろう。 それでも、《書道教室》のポップ感覚は、リキテンスタインに似ている。リキテンスタインは聖書ではなく漫画の登場人物を印刷技術の描法を模して手で丁寧に描いたのだが、会田は書というキッチュな手書きの文字をコンピュータのデジタル・フォントでまるで手書きのように描いたのだ。方法は全く逆だが、両者には同じように反美術のアイロニーが隠されている。 以上、あらためて大竹の《宇和島駅》のつまらなさを説明する必要はないだろう。《宇和島駅》は自己否定の契機がないのだ。楠見清は美術手帖(2006/12)で《宇和島駅》がMOTの屋上に設置されているのをシニフィカシオンの破壊のようにいっているが、そうではない。あれはたんなる看板の掛け違いだ。 PS:藤枝の面白主義は、たんなる日常品の巨大化のことではない。 ずーと下の方に一覧表があります。 スクロールを気長にしてください。
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