ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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「アートで候」を見てきました。
山口晃目当てだったのですが、なんだかがっかりしました。
ルーペ付きの画集で見たときの方がよく見えました。
最初ちょっとがっかりして、もう一度見に行って「そんなに悪くはない」という評価に落ち着きました。
図録を買っていないので記憶がおぼろですが、
最初の方に展示してある多分大分前の作品→まあまあ。あちこちに色々描いてそれを一枚の絵にできるのはすごい。
三越のポスターあたり→あくまでポスター用で、絵画という感じはしない。
片目で見てくださいというやつ→不思議だけど絵は好きじゃない。
上の作品の周りを取り囲んでいた等身大の人物たち→ひとつ「ちょっといいな」と思うものがあった。あとは良くない。
澱エンナーレ→現代アートをちょっと皮肉って、でも自分でも以外と楽しんでというのは分かるし、面白いのもあったけど、そんなのいいから絵を描いてほしいと個人的には思う。
一番新しい(多分)でっかい作品→最悪。こんなの出すな。というか途中?

一方会田誠は気持ち悪いから大嫌いだったのですが、「この人すげー絵うまい」ということを知りびっくりしました。
電柱の絵、ジューサーの絵、あとよく雑誌などに載っている飛行機が八の字に飛んでいる絵などを見ると、千住博より遥かに力のある人だと思いました。
「滝の絵」→ジューサーでも思いましたが、フレデリックみたい。ジューサーはいいと思ったが、こちらは人畜無害。本人の解説を読むと多分意図的なのでしょうけど、わざわざ良くないものを作らないで欲しい。
「大山椒魚」→無難な日本画。院展ぽい。
美少女→には私も笑いました。
浅田批判→見ていて何の感情も浮かばない。
書道教室→「なぜここに書道教室の看板があるのだろうか」と思った。

しかしこの二人とも、絵を描いてるだけじゃ駄目なのでしょうか。
会田誠の写真をランダムで撮って比較というのも、確かにそういう疑問は浮かぶけど、自分ひとりでやればいいのであってそれをわざわざ展示する必要はあるのか?と思いました。
多分アートを本職でやっていく上で色々思うところがあって外に意思表明をしたいのでしょうね。
でも会田誠はともかく、山口晃に関しては「ただの画家じゃ駄目なの?」と思いました。
私自信が絵画びいきだというのもあるのでしょうが、今日本にいないのは現代アートをやる人でも現代アートを批判する人でもなく絵を描ける人だと思います。
絵なんて描かなくていいといわれればそれまでですが・・・。
2007.06.30[Sat]  投稿者:かよ  編集  Top▲

かよさん 長いコメントありがとうございます。山口晃については文字と記号と図像について書く予定です。目下、会田と大竹の看板につい書いていますが、なにしろニョウボにも分かるように書くとなると大変です。
 一つだけ、かよさんに文句を言いたいことは、ルーペで見たほうが面白かったということですが、それは片目で見るというのとちょっと似たことで、絵の世界に没入しやすいということだと思いますが、僕は、山口の超人的な技で描かれた原画を数センチの間近で見られたことだけでいささか興奮しました。ルーペで見るとどうしても印刷の粗雑さが目についてしまいますが、肉筆画を見るということがこんなに官能的な経験だとは初めてしりました。もちろんこれは絵画鑑賞としては邪道なんでしょうけど。それと、ガラスなしにあんなに近づけたら、展覧会が終わったら作品は唾だらけだと思います。僕はすごく呼吸すら我慢をしましたけれど、かよさんはそうとう唾をとばしたんじゃないですか。
 誰が所蔵しているのか、これは今回の『アートで候。』の最大の見所だったと思います。山口晃に感謝しましょう。安積
2007.07.02[Mon]  投稿者:安積桂  編集  Top▲

コメントありがとうございます。
ただ、少し誤解があって、私はルーペで見た方が面白かったと言っているわけではありません。
ルーペで絵画鑑賞ってあんまり好きじゃないです。
画集で見たときに想像していた(あこがれていた)ものと、実際の絵を見たときの印象が違っていたということが言いたかっただけです。身勝手な言い分ですが、そういうことって私はたまにあります。
画集で見たものよりもずっと良かったということの方が多いですけどね。
肉筆画を見ることの官能性ってありますよね!絵画鑑賞として邪道なのでしょうか。私は近づける限り近づいて見てしまいます(息はなるべく止めています)。
絵から離れて、近づいてを繰り返すのが好きです。
看板について、山口晃についての展評楽しみにしています。
2007.07.03[Tue]  投稿者:かよ  編集  Top▲

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会田誠の美少女


    文字と絵画

 「アートで候。」展で、会田のこれまでのビデオ作品を編集したものが上映されていた。コタツに入ったビン・ラディン、縄文式怪獣の雲古、女装した会田を犯す会田など、あまり上等とはいえないギャグの中で、唯一笑えたのが、〈美少女〉という文字を見ながら会田が全裸で自慰行為をしているビデオだ。
  マシュー・バーニーとアート・リンゼイは、自分たちの「オナニー・ショー」を自然再生のメタファーだなんて主張していたらしいが、会田のパフォーマンスは、名辞を実物の代わりにするという定番のギャグだ。レストランでビフテキを注文したら、ビフテキと書いた紙が皿にのせて出て、客がそれをナイフとフォークで美味しそうに食べたという話だ。
  文字(言葉)を見て興奮するということは分からないではない。中学生の頃に辞書をめくりながら興奮した憶えがあるだろう。アダルト・ビデオはそういう文字を使ってタイトルを付けている。しかし、文字を大きくするとよけいに興奮するのだろうか。
  絵ならそういうこともあるだろう。ピンナップは、見開きでは満足せずに、三つ折りの綴じ込みにしたり、等身大のポスターにしたりする。大きいほうが興奮する(らしい)。
  しかし、文字は大きく書こうが小さく書こうが同じ意味だ。明朝体で書こうがゴシック体で書こうが美少女は美少女だ。絵だってほんとうは文字と同じだ。《大山椒魚》の大きい美少女でも《滝の絵》の小さい美少女でも、美少女は美少女だ。現象学的に言えば、図像客観が大きくても小さくても、図像主題は指示対象の現実の大きさに見えるということだ(HP『絵画の現象学』参照)。
  ところが、実際は、大きい美少女の絵が好まれるは、絵は言葉と異なり、類似によって対象をあらわすアナログ記号だからだ。線や色の違い、あるいは全体と部分の関係などが対象の現れ方に影響する。大きさの違いは、我々の絵を見る視線の動きを変えるし、そもそも、等身大の美少女の絵は身体感覚(触覚)を刺激して美少女のイリュージョンを強める。
  アナログ記号の絵では、美少女とそうではない少女との違いは連続的だが、デジタル記号の言葉では離散的だ。言葉は差異のシステムに基づいて約定的に概念を示す。もちろん文字も差異に基づいている。〈大〉と〈犬〉と〈太〉は、点の有無と位置が弁別的である。二項対立ではないが、差異のシステムを作っている。しかし、差異のシステムは大と犬と太が別の言葉をあらわす記号として使用できるというだけで、差異自体が意味を生み出すわけではない。言葉と概念の結びつきは恣意的なのだ。(といっても、差異のシステムと概念があらかじめ別々にあって、それがあとから組み合わされるわけではない。また文字言語と音声言語の関係についてはここでは述べない。文字は必ずしも音声を通して意味に到達するわけではない)。
  文字はシステムあるいは構造だから、〈犬〉の点の位置を変えると意味が変わる。しかし大きさを変えても、意味はかわらない。大きさは弁別的ではない。もちろん、色も字体も運筆も大きさと同じように弁別的ではない。
 しかし、文字はすべてが言葉(の意味)に回収されてしまうわけではない。文字は依然として図形であり、象徴機能を持っている。
  会田は、そのことを文字を大きくすることで見せてくれた。以前に描かれた《桑田》と今回の『アートで候。』展の最後を飾っていた《書道教室》だ。二つの作品は文字を大きくするという点では、同じ方法なのだが、その表現するところはまったく違っている。
  桑田は多義的な言葉である。十ポイントの活字ならば、「クワタ」と読むのか、「ソウデン」と読むのか判らない。通常、文字は文章の中で言葉(読み)と結びつく。「桑田、メッタ打ち」とあれば、クワタと読み、「桑田変じて滄海となる」とあれば、ソウデンと読む。ところが、会田の《桑田》は、文脈ではなく、大きさと色で読み(意味)と結びつく。赤い縁取りした活字体で大きく「桑田」とあれば、スポーツ紙の一面の見出し文字だ。だからこの文字は、クワタと読んで桑田真澄のことなのだ。そして、もちろん赤い色は敗戦投手の色だろう。
  《桑田》では、大きさや色という絵画的なものが、文字の言語的なものを方向付け(投錨:バルト)る。しかし、《書道教室》では、文字の図形的絵画的なものが、文字の言語的なものを抑圧し、文字と言葉の結びつきを壊している。
  《書道教室》は巨大である。《桑田》は、まだ、全体が見える。しかし、《書道教室》は大きすぎて読めない。一階に降りる階段の横の壁いっぱいに掛けてある。ひょいっと見ると、この看板が目に飛び込む。あんまり近くて何がなんだか判らない。目が図像意識から文字意識に切り替わらない。少し、離れて全体を見渡したが、絵だか文字だか判らない。
 正方形の白い板に、正方形の文字が、たてよこ、同じ間隔で二つずつならんでいるので、四つの文字がバラバラになって、読む順番がわからない。「教書室道」とも読めるし、「書室教道」とも読める。あるいは「教道室書」とも「書道教室」とも読める。意味が一瞬、解らない。目がまわる。アクリル板をカットした文字は、本物の看板のようみえる。レディ・メイドかもしれない。 「道」の字の「しんにゅう」を見ていると、なんだか不愉快になってくる。これは習字のお手本なのだ。〈書〉〈道〉〈教〉〈室〉の文字は、習字の教則本の「正しい」運筆を示して、曰く「汝、斯くの如く書くべし」と。文字は法であり、掟である(バルト『エルテ または 文字通りに』)。しかし、その法を述べる文字が看板屋のレタリングなのである。たしかに大きい文字は暴力である。しかし、大きな声で、むなしく叫ぶだけである。
  文字は弁別的な特徴によって言葉あり、図形的な特徴によって象徴となる。《美少女》は赤い大きな漢字である。漢字はもともと絵だったのだから、記号の背後に図像がある。たぶん、会田は美少女の文字にフェティッシュな欲望を感じているのかもしれない。あるいはまた美少女の文字を高く掲げて、見上げているのだから、美少女教の信者かもしれない。しかし、フェティシズムを持ち出せば、何だって説明できるのだから、面白くない。《美少女》のビデオは、絵ではなく等身大の文字を見ながら全裸で自慰行為をする間抜けな会田誠ですと、すなおに受け取るのが、つまらないギャグにたいする礼儀だろう。そうすれば、《書道教室》の面白さも分かるというものだ。
  ニョウボは《書道教室》を見て、いささか興奮して、「素晴らしい!すばらしい!」と繰り返し、階段を途中まで降りて、また、戻って《書道教室》を見ていた。彼女は習字のお手本の文字が小学校のころから大嫌いで、とくにしんにょうの尻尾のところが少しかすれていたりするとイライラしたのだが、それが会田のこの作品を見て、五十年の胸のつかえがおりたそうだ。《浅田批判》よりも《書道教室》のほうが良いだって。いつからアート好きになったんだ。

  会田は《滝の絵》で千住のパロディを、《浅田批判》で岡崎乾二郎のパロディを、そして《ヴィトン》で村上隆のパロディを作っているのだが、《書道教室》は大竹伸朗の《宇和島駅》のパロディではないか。会田にそのつもりがなかったのかもしれないが、期せずして大竹の看板批判になっていることはまちがいない。

つづく: 大竹伸朗の《宇和島駅》批判へ(近日アップ 乞御期待)

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2007.06.24[Sun] Post 01:25  CO:3  TB:0  -会田誠  Top▲

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ルーペ付きの画集で見たときの方がよく見えました。
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図録を買っていないので記憶がおぼろですが、
最初の方に展示してある多分大分前の作品→まあまあ。あちこちに色々描いてそれを一枚の絵にできるのはすごい。
三越のポスターあたり→あくまでポスター用で、絵画という感じはしない。
片目で見てくださいというやつ→不思議だけど絵は好きじゃない。
上の作品の周りを取り囲んでいた等身大の人物たち→ひとつ「ちょっといいな」と思うものがあった。あとは良くない。
澱エンナーレ→現代アートをちょっと皮肉って、でも自分でも以外と楽しんでというのは分かるし、面白いのもあったけど、そんなのいいから絵を描いてほしいと個人的には思う。
一番新しい(多分)でっかい作品→最悪。こんなの出すな。というか途中?

一方会田誠は気持ち悪いから大嫌いだったのですが、「この人すげー絵うまい」ということを知りびっくりしました。
電柱の絵、ジューサーの絵、あとよく雑誌などに載っている飛行機が八の字に飛んでいる絵などを見ると、千住博より遥かに力のある人だと思いました。
「滝の絵」→ジューサーでも思いましたが、フレデリックみたい。ジューサーはいいと思ったが、こちらは人畜無害。本人の解説を読むと多分意図的なのでしょうけど、わざわざ良くないものを作らないで欲しい。
「大山椒魚」→無難な日本画。院展ぽい。
美少女→には私も笑いました。
浅田批判→見ていて何の感情も浮かばない。
書道教室→「なぜここに書道教室の看板があるのだろうか」と思った。

しかしこの二人とも、絵を描いてるだけじゃ駄目なのでしょうか。
会田誠の写真をランダムで撮って比較というのも、確かにそういう疑問は浮かぶけど、自分ひとりでやればいいのであってそれをわざわざ展示する必要はあるのか?と思いました。
多分アートを本職でやっていく上で色々思うところがあって外に意思表明をしたいのでしょうね。
でも会田誠はともかく、山口晃に関しては「ただの画家じゃ駄目なの?」と思いました。
私自信が絵画びいきだというのもあるのでしょうが、今日本にいないのは現代アートをやる人でも現代アートを批判する人でもなく絵を描ける人だと思います。
絵なんて描かなくていいといわれればそれまでですが・・・。
2007.06.30[Sat]  投稿者:かよ  編集  Top▲

かよさん 長いコメントありがとうございます。山口晃については文字と記号と図像について書く予定です。目下、会田と大竹の看板につい書いていますが、なにしろニョウボにも分かるように書くとなると大変です。
 一つだけ、かよさんに文句を言いたいことは、ルーペで見たほうが面白かったということですが、それは片目で見るというのとちょっと似たことで、絵の世界に没入しやすいということだと思いますが、僕は、山口の超人的な技で描かれた原画を数センチの間近で見られたことだけでいささか興奮しました。ルーペで見るとどうしても印刷の粗雑さが目についてしまいますが、肉筆画を見るということがこんなに官能的な経験だとは初めてしりました。もちろんこれは絵画鑑賞としては邪道なんでしょうけど。それと、ガラスなしにあんなに近づけたら、展覧会が終わったら作品は唾だらけだと思います。僕はすごく呼吸すら我慢をしましたけれど、かよさんはそうとう唾をとばしたんじゃないですか。
 誰が所蔵しているのか、これは今回の『アートで候。』の最大の見所だったと思います。山口晃に感謝しましょう。安積
2007.07.02[Mon]  投稿者:安積桂  編集  Top▲

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ただ、少し誤解があって、私はルーペで見た方が面白かったと言っているわけではありません。
ルーペで絵画鑑賞ってあんまり好きじゃないです。
画集で見たときに想像していた(あこがれていた)ものと、実際の絵を見たときの印象が違っていたということが言いたかっただけです。身勝手な言い分ですが、そういうことって私はたまにあります。
画集で見たものよりもずっと良かったということの方が多いですけどね。
肉筆画を見ることの官能性ってありますよね!絵画鑑賞として邪道なのでしょうか。私は近づける限り近づいて見てしまいます(息はなるべく止めています)。
絵から離れて、近づいてを繰り返すのが好きです。
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