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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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評論空間という戦場

今日は少し早めに家を出て、ほてほてと表参道画廊へ向かい、会期の変更などに関して打ち合わせをする。 途中、気の向くままにロールフィルムを2本消費したが、撮影している間にあれこれと新たな構想が沸いてきて、自分でも少々驚く。たとえ作品にならなくとも、ファ .....続きを読む
2007.06.08[Fri]  発信元:松代守弘の展示日記  

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2007.06.08[Fri]  発信元:Запретная Зона  

松田正平


     松田正平のマチエール

 アートフェア東京の瞬生画廊のブースで松田正平の絵を二枚見た。一つは《周防灘》で十号、もう一点はそれより小さい作品で、煙草を持った手を描いたものだ。隣に展示してあった香月泰男や、別の画廊の熊谷守一は、松田正平と比べると、ずいぶんとみすぼらしく見えた。
 松田正平をはじめて見たのは、二年前の国展だった。知人の絵を探しながら順番に展示室を覗いていくと、先を歩いていた女房がめずらしく昂奮して手で合図をする。指さす方を見ると、赤い上着を着て腕を枕に寝ている男を描いた小さな絵があった。物故作家の松田正平の《眠る人》だった。
 松田正平については、洲之内徹がが褒めているので、いまさら付け加えることはない。本当の絵描きが描いた本物の絵ということだろう。そうはいっても、松田のライフスタイルと作品のスタイルとは別のことで、アトリエが乱雑だから彼の絵が自由奔放で面白いわけではもちろんない。
 洲之内徹は、松田の絵は文人画ではないと、わざわざ断っているが、たしかに松田には文人画に誤解されるようなところがある。松田のデッサンは上手いのかヘタなのか判らない。線だけではない、マチエールというのか、塗ったり削ったりした絵具の表面の処理もヘタなのか上手いのか判らない。ところが、色と線の二つ合わせて見ると、合わせるといっても、もともとが一つのものなのだから、ただ絵を絵として当たり前に見ればということだが、そうすれば、そこには歪んだ線や擦られた絵具ではなく、水平線に区切られた海と空にたしかに雲と船が浮かんでいる。アルフレッド・ウォリスの港の絵のような稚拙なところはすこしもない。
 薄塗りでキャンバスの織り目が見えるところもある。絵具が削られているところもある。いったい松田のマチエールはマチエールと言えるのだろうか。そうは言っても、そもそもわたしはマチエールというものの正体がわからない。フッサールに従って、絵画を物理的図像、図像客観、図像主題と三つに分ければ、当然物理的絵画に属するものだろうが、物理的絵画といっても、支持体・絵具・筆触・肌理といろいろあるし、そもそも絵画の三層構造といっても、そんなに簡単にすっぱりと分けることはできないだろう。
 「これがマチエールだ」と思ったことが一度ある。世田谷美術館で吹田文明展を見たときのことだ。版画(凸)というのは印刷物なのだから、絵の具が盛り上がっているわけでもなく、表面はなめらかである。それなのに版木の木目やベニヤの模様が露骨にそこにあるので、見ていて疲れてしまった。ピクトリアリズムの写真をみるとき、被写体ではなく、プリントの具合をみるような感覚に似ている。やっとのことで、文明展も見おわり、見るつもりのなかった第1回収蔵品展『詩に触れた作家たち』を見るために二階に上がった。最初に展示してあったのは須田寿の油絵だった。それを見た途端、それまでの息苦しい気分がなくなって、文字通り呼吸が楽になった。油を抜かれた絵具のマットな絵肌が気持ちよかった。わたしはその感覚をたしかめるように須田の絵を何枚か見ていった。ところが三作目ぐらいですぐに飽きてしまった。たしかに、ベージュ色のマットな色調が実に微妙に描かれている。しかし、単調なのである。マチエールが確かに心地よい感覚を与えてくれる。しかし、それは表面的なもので、決して絵画の面白さではない。須田の絵は大家の凡庸な大作にしか見えなかった。
 なぜ、須田のマチエールはすぐに飽きてしまうのだろう。その訳は絵画の三層構造にある。マチエールは一番下層の物質的な絵画の層である。物理的な層というのは支持体と絵具の二層になっている。それは、知覚されている事物であり、ハイデッガーのいうように、絵(Bild)とは猟銃や帽子と同じように壁に掛けられるものだ。事物(Ding)は知覚できるものだ。支持体も絵具も知覚できる。しかし、支持体はふつうは絵具に覆われている。この絵の具の層がマチエールなのだろうか。クレーのような薄塗りや塗り残しがあれば、支持体が見えるけれど、こいうのもマチエールというのだろうか。
 あるいは、タピエスの土壁のようなザラザラした厚塗りの表面もマチエールといえるのだろうか。ただの事物(Ding)ではないのか。そのことで思い出すのは、原美術館の「タピエス―スペインの巨人 熱き絵画の挑戦展」(2005年3月)を見にいったときのことだ。最初の展示室に、まるで土壁に文字を彫ったような絵が展示してあった。まだブログを書く前のことで、あのころは記号(sign)と図像(icon)の違いに関心があって、クレーの絵などを面白がっていたのだが、タピエスの古代遺跡の壁に象形や楔形の文字を書いたようなような絵は、面白いことは面白いのだが、どうも納得できないところがあった。次の部屋にいこうとすると、女房がキョロキョロしている。何をしているのかと訊くと、彼女曰く「これって、タイトルが無いのかしら」といって、煉瓦作りの暖炉跡を指差した。わたしは、またニョウボの悪ふざけかと思ったが、どうもそうではなく、本当に<潰した暖炉>をタピエスの作品と思ったらしい。それにしても良くできたギャグだ。タピエスの絵画はまったく潰した暖炉なのだ。砂や土で固められた壁がただそこにあって、絵画のイルージョンはなにもない。タピエスの作品は絵画ではなく、文字通り剥ぎ取られた壁なのだ。
 美術評論家はマチエールという言葉をどういう意味で使っているのだろう。もともとは材料とか質料とか物質のことだから、タピエスの絵はマチエールそのもののはずだが、そう見えないのは、おそらく、絵画のマチエール(絵肌)というのは、直接的な知覚の対象である事物ではなく、むしろイリュージョンに近いのではないか。
 とは言っても、イリュージョンと言う言葉はひじょうに曖昧に使われており、正確に、絵画(図像)における知覚とイリュージョンを区別するのはそう簡単なことではない。わたしは、物理的図像、図像客観、図像主題の三層構造を区別して、イリュージョンという言葉は使わないようにしているのだが、どうしても使わなければならないときは、出来る限りグリーンバーグのイリュージョンの意味で使うようにしている。
 というのも、三層構造の中で、何処までが知覚意識で、どこからが図像意識なのか明確に区分できないからだ。物理的図像は知覚の対象であり、図像主題は図像意識の対象である。この図像意識というのは通常の絵を見る意識のことで、グリーンバーグの空間のイルージョンに近い意識だ。しかし、物理的図像と図像主題を媒介している図像客観は知覚の対象なのか、図像意識の対象なのか、入り交じってハッキリしない。たとえば、白い紙に二つの三角形が接して描かれている。そしてそれが三次元の四角錐に見える。さらにそれが巨大なエジプトのピラミッドに見える。二つの三角形は知覚されている。ピラミッドは図像主題である。それなら四角錐の立体にみえるのは、知覚だろうか図像意識だろうか。二次元に描かれた物が三次元に見えるのだからイリュージョンのようにも思える。しかし、これは知覚でないものを知覚と思いこむ幻覚ではなく、錯視という正常な現象で、オップ・アートの運動視だって、ヴィトゲンシュタインのアスペクトだって、地と図の交替だって、普通の事物の知覚でもないし、図像意識ではもちろんない。
 絵を見るということのすべての根拠は、物理的図像(支持体に塗られた色素)を知覚するということにある。しかし、通常の鑑賞的態度で絵画を見るとき、われわれは物理的図像や図像客体を見るのではない。支持体や絵具でもなく、形や色彩でもなく、人物や林檎や風景を見ている。しかし、無理矢理注意を向ければ、図像客体や物理的図像を見ることもできる。だからといって、絵画のこの三つの層が明確に分離されているわけではない。相互に浸透し合っているといったほうが良いだろう。マチエールは質料だから、なによりも物理的図像であるが、それだけではなく、図像客観でもあるし図像主題にだって侵入する。藤田嗣治の乳白色のマチエールは絵肌はでもあるし女の肌でもあるのだ。
 それぞれの層は、互いに浸透しているだけではなく、互いが矛盾対立してもいるのだ。下の層は上の層を基礎づけ、上の層はしたの層に反響する。グリーンバーグは「モダニズムの絵画」のなかで、この弁証法的緊張について述べている。古大家たちはイリュージョンによって絵画のメディアムである平面的表面、支持体の形体、顔料の特性を隠してきたが、他方では、絵画の平面性を示す必要も感じていた。その明らかな矛盾・弁証法的緊張をモダニストは隠蔽することをやめて絵画の平面性を強調することによって、絵画の独自のメディアムにむかったのである。
 したがって、絵画のおもしろさは絵画の主題のおもしろさではなく、絵画のメディアムとイリュージョンの間の矛盾、現象学的に言えば、絵画の三層構造のあいだの弁証法的緊張の中にあるのだ。写真がつまらないのはこの三層が密着しているからだ。われわれの視線は写真の三層を直線的に貫いて主題(Bildsujet)到達し、さらに主題を超えて指示対象(被写体)に到達するのだ。
 この写真の直接性を壊そうと、いろいろなことが試みられる。ピクトリアリズム、アウトフォーカス、ブレ・ボケ、階調性の誇張、色相の変換、モンタージュ、広角レンズの使用など、いろいろあるが、成功したものは何もない。三層構造をこわしただけでは、弁証法的緊張は生まれないのだ。
 ここまで来れば、なぜ須田寿のマチエールがつまらなくて、松田正平のが面白いか理解できただろう。須田のマチエールは他の層との緊張がないのだ。たしかに物理的な層を露出させてはいるが、それは全体を覆って装飾的であり、ピクトリアリズムの写真のマットな表面のように、ただ趣味的な雰囲気を伝えているだけの大家の大作なのだ。
 それに比べ松田正平のマチエールは、すでに述べたように、三層のあいだに弁証法的緊張があるのだ。松田の絵が、見ていて飽きないのはたぶんそのせいだと思う。

  PS:絵画の三層構造については私の「絵画の現象学」を参照。まだ、未完です。絵画の面白さは三層相互の弁証法的緊張にある。美とは、カントのいうように構想力と悟性の自由な戯れではなく、知覚意識と図像意識のあいだの「弁証法的戯れ」だというのが、暫定的なわたしの美学です。にほんブログ村 美術ブログへ
2007.06.06[Wed] Post 23:04  CO:0  TB:2  美術展評  Top▲

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