ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

スポンサーサイト のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/137-5a05d6eb
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

会田誠の浅田批判

   「アートで候。会田誠 山口晃展」 

 「アートで候」展の二階、「山愚痴屋・澱エンナーレ2007」 のコーナーにあった会田誠の浅田彰批判の作品が面白かった。その絵には以下のキャプションが付いている。

 
    会田 誠
   
    美術に限っていえば、浅田彰は
    下らないものを褒めそやし、大
    切なものを貶め、日本の美術界
    をさんざん停滞させた責任を、
    いつ、どうのようなかたちで取る
    のだろうか。
   

  (以下、この作品を《浅田批判》と名付ける)

  キャプションを読めば、この作品が岡崎乾二郎のパロディだということはすぐに判る。浅田は椹木との対談で、岡崎がスーパーフラットを単純なジャポニスムではなく、世界の美術史の文脈なかで考えることができる画家だと絶賛しているのだが、その岡崎の絵とそっくりなのだ。そっくりなのは絵だけではなく、タイトルも長いところがパロディになっている。ネットで見られる岡崎の作品のタイトル(キャプション)の一つを面倒だけれど、作品理解に役立つので引用する。
 
 《平面ばかりつづいて家のひとつもない真一文字の道を猛スピードで 走っていれば、なおさら気分も座ってくる。この道や行く人なしに秋の暮。日除けの陰で顔は緑に蔽われ、そのくせ眼の輝きはまっすぐ向こうを見つめている。 野菜が少なかろうと海で魚がなかろうと恐れるにたりない。米を一粒播くとかならず三百粒の実をつける。》

 たぶん、デュシャンの反再現=表象的なタイトルの向こうを張ったのだろうが、それにしても、ポストモダンどころか、昔、詩の投稿欄で読んだことがあるような思わせぶりなキャプションではないか。絵も同じように思わせぶりなのだが、その思わせぶりなところを会田は誇張してパロディにしている。まず、思わせぶりな余白を竜安寺症候群的な間抜けな余白にして、色も岡崎の中間色よりもさらに曖昧する。また、会田は絵の具を指に付いた雲古のようにキャンバスに擦りつけているが、これも岡崎の思わせぶりなタッチのパロディなのだろう。
 会田の絵をパロディではなく、オリジナルの抽象画として見ると、絵の具がこびり付いているキャンバスというだけのリテラルな事物にしか見えない。絵の具は、ただの絵の具であり、余白はただの生のキャンバス地に見えるということは、それがイリュージョンを持った絵画平面ではなく、汚れた平たい物体だということになる。会田は、岡崎の抽象画が、まったくイリュージョンの欠いたリテラルな事物だと揶揄しているのだ。
 たぶん、会田がいうとおりなのだろう。しかし、絵画のイリュージョンというのは、美少女や飛行機やウンコのような自然のイリュージョンばかりではない。抽象画には、歩いて入っていけるようなリアルなイリュージョンでなくとも、目で見ることができる視覚的イリュージョはあるのだ。そして、モダニズムはこの目で見るだけのイリュージョンさえ抑圧し、「絵画が絵画であることをやめて任意の物体になってしまう手前ぎりぎりまで際限なくこれらの制限条件を押し退け得ることに気づいてきた(「グリーンバーグ批評選集」藤枝晃雄編訳p69)」のだが、グリーンバーグ自身が言うように、絵画がイリュージョンを持つためには、
ただの白いキャンバスでありさえすれば十分なのだから、ミニマル・アートがイリュージョンのない完全な知覚の対象(任意の物体)を作るためにはキャンバスを捨て、立体に向かわなければならなかったのである。(平面/絵画は観者の身体空間とは切断されているが、立体/彫刻は観者の身体空間と同一の空間に存在している。物を知覚すると言うことは、知覚している人の身体(眼球)とその知覚している物とが連続した空間に所属しているということなのだ。)
 おそらく、ミニマル・アートが立体でしかやれなかったことを、岡崎は絵画平面でやることに成功したのだろう。浅田は岡崎が平面性を追求するフォーマリストだといっているのだから、グリーンバーグが不可能だといった、イリュージョンの全くない作品を、立体ではなく、絵画平面で作ることにきっと成功したにちがいない。わたしは岡崎の作品をネットでしか見ていないので、彼の作品が視覚的イリュージョンをもっているのか、それともリテラルな事物なのかはっきりしたことは判らない。いずれ、浅田彰のキューレーションで岡崎乾二郎の回顧展があるだろうから楽しみに待つことにしよう。
 会田の浅田批判に関しては、浅田がモダニズムの図式を語るばかりで、いったい浅田自身の立場がどうなのか一向に要領をえないので、なんともいいようがないが、ただ、会田によれば、浅田は「下らないものを褒めそやし、大切なものを貶め」る奴だというのだから、たぶん、浅田は岡崎のようなリテラルな抽象画を褒め、会田のようなポップなイラストは貶しているのだろう。
 会田の浅田批判には「抽象/具象」や「モダン/ポストモダン」といった二項対立(?)があるのだろうが、そんなことよりモダニズムに内在する平面性や視覚的イリュージョンといった『モダニズムのハードコア』として考えたほうがおもしろいのではないか。岡崎も浅田も無視して、《浅田批判》を抽象画としてもう一度見てみよう。
 ネットなどを見ると、《浅田批判》は、たんなる楽屋落ちではなく、アートとしてもなかなかおもしろいと評判のようだ。女房も、この作品が「アートで候。」で一番おもしろい、この展覧会で会田がいったい何をやりたいのか判らなかったが、この絵を見たとたんに嬉しくなって「わーぃ!」と叫びたくなった、キャプションを読まなくても抽象画のギャグだとすぐにわかったそうだ。岡崎のパロディとしてででなくとも、一般的なモダニズムのギャグとしても良くできているということだろう。
 たとえば、余白がなぜキャンバスの生地に見えてしまうのか、モーリス・ルイスの《Gamma Zeta》(川村美術館蔵)の余白と比べれば明らかだろう。ルイスの余白は色が塗られた部分と同じ厚みをもってそんざいしている。充実したひろがりなのだが、それはもちろん色の対比が鮮明であること、余白と色帯がバランスよく、リズミカルにならんでいること、そして余白は白い色帯にもなっているからだ。また、色(絵具)は薄くキャンバスの表面からことさらに盛り上がってはいない。
 これに対して、《浅田批判》はことごとくルイスの反対をやっている。余白のバランスが悪いし、色面は面というより、絵の具の塊で、擦りつけた絵具の周縁が盛り上がっていて、とても筆のタッチには見えないし、アクション・ペインティングというより、文字通り雲古を擦り付けただけにみえる。色も濁って、色相差もあいまいで、余白の白とは調和も対立もしていない。ただの汚れたキャンバスに見える。もちろんここには美もないし崇高もない。そして、何よりもないものは、凡庸な抽象画にありがちな「思わせぶり」がないのだ。今年のVOCA展に出展されていた抽象画はそれなりにみんな頑張っているのだが、モダニズムの行きつく果て、そんなに斬新なアイディアが浮かんでくるはずもなく、ただリテラルにもイリュージョニズムにもならないように、表面や線や色彩やキャンバスと格闘したり妥協したり、結局は思わせぶりな作品が出来上がってしまうのだが、会田は、おもいっきりリテラルなもの(純粋な外的視知覚の対象物のこと)を作って、抽象画の
思わせぶりを揶揄したのだ。
 この《思わせぶり》ということでは、わたしはむしろ李禹煥の余白を思い出す。李禹煥は余白をキャンバスの生地と白い空間のイリュージョンのどっちつかずの状態にする。白いキャンバス生地をさらに白く塗って、物質的な生地の織り目をかくす。黒い小さな四角をバランスとアンバランスのどっちつかずのぎりぎりのところに配置する。いろは白と黒である。そして、最後の展示室では、白い壁に直接黒い四角を描く。どれもが、知覚とイリュージョンの思わせぶりな駆け引きなのだ。
 李禹煥はもの派の理論的指導者だったそうだが、「もの」というのはもちろんリテラルな事物のことなのだ。それから思い出したが、《浅田批判》は小さい作品だと言うところがなかなかよいのだ。もし、大きかったら、まさに李禹煥の最後の部屋の巨大なキャンバスのように、余白と絵画表面が曖昧になって悪しき《思わせぶり》のイリュージョンが生まれてしまっただろう。抽象画が巨大化するのは、たぶん、キャンバスの物質性を顕わにするというよりも、むしろ隠すためなのだ。 (岡崎は好んで小さい作品を描くらしい)
 会田のこの作品が岡崎や浅田の批判になっているかどうかは、残念ながらわたしには判らないが、近頃の思わせぶりな抽象画の批判になっていることはまちがいない。そして会田は「おまえたちは、モダニズムだとかフォーマリズムとかミニマリズムとか大騒ぎしているけれど、ご覧なさいこれがモダニズムの行き着く果ての姿なんですよ。」と言っている。しかし、これがグリーンバーグが擁護した抽象表現主義の批判になっているかどうかは疑問であるし、いわんや、「アートで候。」で展示されている再現表象の絵画が、日本の現代美術のなかで是非とも守らなければならない「大切なもの」だと断言する自信は私にはない。

ps:以上の議論はグリーンバーグなどのモダニズムの用語を使っていますが、これはどれも現象学的な観点から自己流に使っているのであしからず。一番注意してほしいことは、絵画(芸術)というのはすべて知覚に基づいていること、そして、その知覚した物理的絵画が中和変容されることによって絵が現前するということです。HP『絵画の現象学』へ

 李禹煥の記事へ

 浅田・千住・黒川の記事へ
 岡崎乾二郎の記事へ
にほんブログ村 美術ブログへ
2007.06.06[Wed] Post 00:28  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

COMMENT

NAME

SUBJECT

BLOG/HP

PASSWORD

COMMENT

SECRET: ※非公開コメントにしたい場合はBOXにチェックをして下さい ⇒ 

SUBMIT: 送信 

TRACKBACK

会田誠の浅田批判 のトラックバックアドレス
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/tb.php/137-5a05d6eb
 ⇒ この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。