ART TOUCH 美術展評

久米宏のCAR TOUCHにならって、五つの項目に分け、5点法で美術展を評価します。美術展を楽しみながら、現代美術理論の理解を深めます。

島袋道浩(1)

 「有馬かおる」からつづく

 作品とは直接関係のない言説で飾り立てる手法の最たるものは、おなじマイクロポップの時代展に出展している島袋道浩だろう。松井みどりの解説は「島袋道浩は、シチュエーショニスト風のパブリック・スペースへの介入と、ランドアートのサイトスペシフィック性を受け 継ぎながら、それに軽やかに遊戯性を加えて発展させている。」(「マイクロポップの時代」P88)と、ほとんどパリ・コレの前口上になっているのは笑えるが、作品自体はとて も笑ってすませるものではない。とりわけ《拾った絵の展覧会》は不愉快である。何よりも不愉快なのは、そこに展示してある絵を特権化していることである。 その絵は、島袋の近所のゴミ捨て場で、二百枚束になっているのを拾ったというのだ。小学生の絵のような気もするが判らない。名前はどこにも書いてない。一 人が描いたのかも知れない、百人かも知れない。絵を見れば、と言っても、全部は見せてくれないのだが、絵心のある大人が小学生風にいろいろ描き分けている ようにみえる。水彩・クレヨン・版画がある。人物や風景や抽象画がある。バライティーが有りすぎだ。女房が小学生は自分の名前をでっかく書くんじゃないと 学芸員に訊くと、学芸員は、名前は裏に書いてあるかもしれない、あるいは貼り付けた名札を切り取ったのかもしれないと言い、さらに、画用紙の四隅に画鋲の 跡があるだろうと私たちの注意を向けた。女房は「画鋲の跡なんて教室に貼ってあった証拠になんかならない。作者(島袋)が付けたかも知れないじゃない」と いうと、くだんの学芸員が笑いながら「そこが作者の思う壺なんです」という。女房はプリプリ怒って「ひとの絵を勝手に展示していいのかしら」と言うも、学 芸員は「自分のだと名乗って来たら、作者(島袋)は返すつもりです」と応えて、どうやら女房の完敗。そもそも、この拾った絵は作品ではなく、むかしむかし あるところで誰かさんが絵を描きました、という出来事であって、作者も作品も関係のないアートだと言いたいのかもしれない、腹を立てても仕方ない。
 そ れにしても、つまらぬアートだ。阪神で発見した二百枚の絵の束を、どういうワケかわざわざ巡礼地広島の路上で展示して、それを見ている車椅子の障害者の写 真を撮り、それを大きく引き伸ばして美術館の壁に貼り、壁の前の床に拾った絵の一部をならべている。ということは、作品(壁)と観者(床)の本来の位置が 入れ替わっており、われわれは、単純に子供の絵を見るのではなく、子供の絵を見ている障害者を見るというメタな状況に無理矢理置かれてしまうのだ。
  ここでは、捨てる/拾うというミニマムな贈与行為(ちょっとポモ風)が、子供と障害者と路上展示によって聖性を与えられており、その表向き周縁的な道具立 てにも拘わらず、島袋(と松井みどり)は、結局のところ美術館という権力の中心で、インスタレーションという祭ごとをプロデュースしているのだ。
  以上述べたことで、わたしはマイクロ・ポップ理論が間違っているとか、島袋のインスタレーションは無意味だとかいいたいのではない。松井みどりを読んでも マイクロ・ポップ理論が美術とどう関係するのか一向に理解できないのだから、否定するも肯定するもない。そうではなく、島袋がゴミ捨て場で見つけたという 二百枚の絵をちゃんと見せてくれないことが、反動的図像主義者のわたしは気に入らないのだ。作者が作品をちゃんと展示し、観者がその作品をちゃんと見るこ とで、はじめて作品は作品になり、そして観者が作者と対等になる。それをインスタレーションと称して、思わせぶりにチラチラみせたり、通俗的な物語で飾り 立てて、これでは観者の自由を奪っているとしか思えない。まさか、これが絵画の終焉を示すアートだなんて言わないでしょうね。
 東京に帰ってから も、女房は《拾った絵の展覧会》が不愉快だと繰り返し、絵を拾ったなんて百パーセント嘘だ、だいいち小さい方の学芸員が膝をちょこっと曲げて「それは作者 の思う壺です」と言ってニヤッと笑ったのに腹が立つ、スネを蹴飛ばしてやれば良かったという。僕は、拾った絵のインスタレーションというアートもあってい いかなとは思うのだが、絵を見ているのが車椅子の障害者なのが押しつけがましくていやな感じがしたと、おそるおそる言うと、女房はあっさりと「そうでしょ う」と同意した。おそるおそる言ったのは、女房が水戸から帰ってから、僕に騙されて水戸芸術館に連れて行かれた、何を見に行くか何度も聞いたのに教えてく れなかった。もう、金輪際現代アートは見に行かない、あなた一人で行きなさいと、繰り返し言っていたからだ。ひとりで現代アートなんか見ても面白くない し、機嫌を損ねてへそを曲げられても困ると思ったのだ。
 じつは、これと同じインスタレーションが、今は知らないが、かって日本各地にあった。地方を旅行すると、伝統工芸館などがあって、その地方の工芸品が展示してある。そして壁に天皇皇后両陛下あるいは宮家のひとが工芸家に説明を聞いている写真 が飾ってある。これは、《拾った絵の展覧会》と同じ図像学的意味を持つインスタレーションだろう。もちろん、天皇は中心的存在で、障害者が周縁的存在な のだが、これは本質的な差異ではなく、片方は伝統的な工芸品を、もう片方は純真な子供の絵を、それぞれ神聖化していることでは同じことなのだ。島袋が、伝統工芸を純真な子供の絵に、公立の美術館を路上に、そして天皇を障害者に入れ替えることで、美術制度を脱構築したつもりだろうが、そうではなく、ただ、権力の入 れ替え遊びをしているだけではないか。
 島袋のインスタレーションはどうも紋切り型の言説をなぞるようなところがあり、面白くない。たとえば、 《南半球のクリスマス》はどう見たって地球温暖化や環境破壊の問題だろうし、《人間性回復のチャンス》は「人類はみな兄弟」の看板を思い出させる。ついで に言えば、有馬かおるの《ムンクはさけべ オレはがまんする》は相田みつをとまでは言わないが、似たような処世訓のニオイがしないだろうか。
 以上述べたことは、なかば冗談 であって、決して美術評論ではない。というのも、マイクロポップという芸術理論があって、それがまったく新しい芸術運動らしいのだが、第三世代とか後期ポストモダンと言われてもいまのところわたしにはわからない。ただ、『マイクロポップの時代』展を見て、泉太郎と田中功起は面白かったが、有馬かおると島袋道浩はつまらなかったということだけで、マイクロポップとはさしあたって何の関係もない。
 「美術手帖」の五月号に椹木野衣と松井みどりの対談が載っているので、読んでみるがたぶんわからないだろう。

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2007.05.02[Wed] Post 00:21  CO:1  TB:0  美術展評  Top▲

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そのとおりですね。松井みどりは、欧米のトレンドに通じていて、それを元に日本の作家を評価しています。だから、作品は良いも悪いもなく、ただそのトレンドに「似てる」ということが重要になっています。作家だって、雑誌か展覧会かで見たトレンドを半ば無意識に「軽やかに」パクってる訳で、そういった「センスがいい」と言われる方々が依存し合っている感じですね。ずっとそうですけど。

奥様の反応が正常だと思います。日本の現代美術はすぐにポップであることで自分を正当化しますが、肝心の大衆にはさっぱり分からず、それが逆に「アート」っぽくて不愉快さを与えます。それで本人たちはその不愉快さや居心地の悪さを「違和感」などと呼んで「それが私たちの病理なのだ」とか「ニヤッと」するのでしょう。凡庸です。
2007.05.07[Mon]  投稿者:YM  編集  Top▲

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