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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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田中功起

サンフランシスコで田中功起展を見ました。
2010.10.07[Thu]  投稿者:サンフランシスコ人  編集  Top▲

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田中功起

いま、田中功起ブームが起きている。といっても、ひそかなブームなのだが、それにしても、今年に入ってほとんど同時に五カ所で田中功起のビデオ・アートが展示されるという盛況ぶりだ。以下田中が出展した展覧会を並べてみる。

1.水戸芸術館「マイクロポップの時代」:《each and every》2/3~5/6
2.国立新美術館「20世紀美術探検(第Ⅲ部マテリアル・ワールドに生きる)」:《あたりまえのこと、あたりまえでないこと、そしてたぶんそのほかのこと》1/21~3/19
3.上野の森美術館ギャラリー「第一回田中功起ショー」:《いままでのこと、さいきんのこと、これからのこと》3/16~3/30
4.森美術館「笑い展(4.逸脱する笑い)」:《そうして森美術館にたくさんのたらいが落ちる》1/27~5/6
5.青山|目黒「田中功起展」

 僕がはじめて田中功起を見たのは、art@agnesのギャラリー「青山|目黒」の部屋だった。ベッドに蛍光灯が二本寝かせてあった。それと、ガムテープを丸く団子のように大きく丸めたものが床に転がしてあった。このガムテープの塊はちょっと面白いとおもったが、結局は近頃ありがちなアートだと片付けた。
 そのあと続けて、水戸芸術館と国立新美術館で田中功起を見たのだが、水戸芸術館では泉太郎のギャグが、国立新美術館では高柳恵里のレディメイドが強い印象を残したのにくらべ、田中功起の作品は中途半端なパフォーマンスのビデオのように思えた。そのあと、ネットのインタービューなどを読んで、田中が単純な反芸術家ではないことは判るのだが、どうも、その芸術観と作品が上手くつながらない。
 上野の森美術館でVOCA展を見たあと、隣接のギャラリーで「田中功起ショー」をみた。閑散としていて、老人が椅子に座って休んでいた。初めから順番に見ていった。見ているうちにだんだんおもしろくなってきた。なんか単調なジャズのような心地よいリズムを感じながらも、ふと我に返って照れてしまうような、そのくせ次は何をやるのか期待してしまうような、ようするに退屈と夢中が入り交じったような快感が身内に広がっていくの感じた。
 なんだこれは、誰もが子供の頃やったことじゃないか。飽きずに眺めたことじゃないか。田中功起のパフォーマンスは、子供の頃、夢中になって繰り返して、そのうち飽きてほっぽり出したりしたことだ。そう思ってみれば、どれもこれもバカバカしくって面白い。わたしはこれまでのもやもやしていたものが突然消えてスッキリした。
 料理は誰だって見るのが好きだ。むかし土用丑の日に魚屋の前でウナギを捌くのを見て飽きることがなかった。川や滝にボールを流す、モップを指に引っ掛けてくるくる回す、バケツを帽子のように杭に被せる、電熱器で水が撥ねる、化粧瓶の口から泡が膨れて出てくる。靴が階段から落ちる。段ボールを蹴飛ばす、ヘッドフォンを頭以外のものに被せる。トイレットペーパーを転がす、ビニール傘を風に飛ばす、コースターをはじいて空中で掴む。
 田中にはインスタレーションもある。白木のテーブルにサッカーボールやコーヒーカップが一つだけ置いてある。美術館に展示してあるのだから、アートだろうと誰でも思う。でも、デュシャン的挑発もないし、「解剖台の上の蝙蝠傘とミシンの偶然の出会い」の美しさもない。だからといって、反美学でもないし、美術館への挑発でもない。誰もが眺めたことのある、片づけるにはちょっともったいないような気がする情景だ。
 田中はループを作ることから美術家の仕事を始めた。ループで反物語的な非日常性(日常性でも同じことだ)を表現するというのは、アートの常套なのだけれど、インタービューで田中は、原因が結果だ、意味と無意味、予定調和を避ける、瑣末な思いつきを崇高なものに編集する、到達するはずのところに到達しない、始めも終わりもない、現実に非現実が侵入する、アートってのは見たことのないものをつくることなどなど、どうも要領を得ないけれど、ともかく、非日常を繰り返すことがアーティストの日常という現代美術の滑稽な状況からなんとか抜け出そうとしているように見える。
 この現代美術のメタ状況(芸術についての芸術と言えば聞こえが良いが、ようするに屁理屈のこと)からの脱出が田中功起のパフォーマンスであり、インスタレーションなのだ。田中功起のパフォーマンスは反芸術ではなく、コンセプトも異化も脱文脈も非日常も身体性もない。周辺もなければ中心もない。大きな物語も小さい物語もない。それなのに、僕たちは夢中になる。繰り返したり眺めたり、退屈したりほっぽり出したりする。美しくもない崇高でもない。法則もないし目的もない。宮島達男みたいに誕生も死も輪廻もない。高柳恵里のようにデザインの美もない。それでも、やっぱり面白いのは、どこかに日常と非日常の感覚を超えたものを感じるからだ。
 田中功起はインタービューの中で以下のように述べている。

 そもそもぼくの制作のテーマは日常や非日常ということではありません。ただ、日常と非日常という枠組みでもって作品を見るとわかりやすいという側面もたしかにあります。その伝わり方が悪いとも今まではあまり思ってはいませんでした。なので去年、アメリカにいた時などは意識的にその言葉を使ってもいました(禅的だなどと勘違いされるよりもよっぽどよかった)。どちらかというと「日常」というキーワードよりも、もう少し大きくて漠然としている「世界」という言葉のほうがしっくりきます。「日常」はどうしても個人的なものですよね。誰にとっての日常かといった時にそれはその作者にとっての、ということにもなってしまう。ぼくにはそれはすごく閉じられていることのように感じられます。「世界」と言った時、それはもう少し開かれたものとしてありますよね。(近藤ヒデノリのインタビューTOKYO SOURCE)

 田中功起は、美術評論家が大好きな日常と非日常という枠組みを否定して、「個人的な日常」に対して「開かれた世界」を持ち出しているのだけれど、両者を対立させているわけではなく、むしろ日常と非日常が出現する場所である世界を開いてやるのがアートだと言っているのだ。この日常と非日常という枠組みは、ポストモダンの隆盛のなかで、社会批判的なものと結びついて行くのだが、田中はアートの社会的効用など信じていないし、むしろこの日常非日常という陳腐化した二項対立を無効にするのがかれのパフォーマンスであり、そのために、田中はパフォーマンスをループにするのではなく、短いパフォーマンスを繋げてリズムを生み出し、そのリズムでパフォーマンスの象徴的意味を消す。そして、そこに現実と非現実を超えた開かれた世界が開示される。
 と、大袈裟なことを書いたあと中断して、『笑い展』(森美術館)に行ってきた。展示場の最後に田中の《そうして森美術館にたくさんのたらいが落ちる》があった。積み重ねた金盥が滑り落ちるというハプニングで、面白いことは面白いのだが、これは、ハリウッド製のコメディに良くあるシーンで、スーパー・マーケットで積み重ねた商品が崩れ落ちるギャグそのままではないか。オレンジを階段から転がすという田中のパフォーマンスには、面白さとつまらなさの微妙な共存があったが、《そうして森美術館にたくさんのたらいが落ちる》には、ただの誇張された面白さがあるだけではないか。
 それにしても、『笑い展』の反芸術的屁理屈を見せられたあと、田中の盥の落下にはなんとなくほっとしたよう気分になる。小さな兄弟が田中功起のビデオの前で巫山戯あっている。弟は母親といっしょに帰ろうとしているのだが、兄のほうはもう一度田中の盥の落下を見ようと弟を離さない。弟はやっとのことで売店にいる母親のほうに逃げるのだが、また、兄が無理矢理引っぱってくると言うことを何度も繰り返していた。 女房は兄弟のパフォーマンスを見て喜んでいる。
 『笑い展』でみたフルクサスやハイレッドセンターのアーティストたちの反芸術家気取りにはうんざりさせられるが、田中はたぶんアンチ反芸術家なのだろう、ポストモダンにもマイクロポップにもネオ・ポップにも、そのほかいろいろな芸術運動に今のところほどよい距離をとるのに成功しているように見える。
 田中には古い反芸術家たちのハプニングやパフォーマンスに見られるようなこれ見よがしのハッタリが無い。それは、もちろん田中がパフォーマンスの象徴的な意味を拒否しているからだが、技術的に見れば、短いハプニングを次から次へとビデオで見せることでリズムが生まれているからだ。また田中は鮮やかな色の小道具を使っているけれど、これもパフォーマンスに軽さを与えて気持ちがよい。《たらいが落ちる》で田中功起がロープ切ったあと、コソコソ逃げるところも、パフォーマンスの大袈裟な身振り(身体性?)とちがってアートになっている。
 以上田中功起の面白さについてあれこれ考えて見たのだけれど、どうも上手い具合に表現できない。このところ、デュシャンのレディメイドの肯定的な面を受け継いだアートをいくつか見た。中村ケンゴの「図像のレディメイド」(ワンルームマンションの図面)と高柳恵里の「アレンジメント/コーディネイトのレディメイド」(生花と古着)は反芸術ではないアートの可能性を見せてくれた。そう考えると、田中功起のパフォーマンスも一種のレディメイドといえるのではないか。非日常と言えば大袈裟だけれど日常というにはちょっと面白いこと、そして誰もがひそかにやったことがあるけれど、ちょと誰にも言えなかったこと、それを田中はわれわれに代わってやってくれているのではないか。これは反芸術的なパフォーマンスではなく、この世界を開示するオマジナイの身振りなのだ。
 しかし、そうは言っても、田中のオマジナイは、一方に反芸術かたちの大袈裟な身振りや哲学ぶったコンセプトがあるからこそのオマジナイであって、反芸術が芸術を必要とするように、田中もまたアンチ反芸術としてもともとの反芸術を必要とするのではないか。
 『笑い展』は、最後に田中を持ってくると言う巧みな展示で、この笑えない『笑い展』を見事に笑い飛ばしていた。
PS:ところで、盥を積んだシーソウが上がらないように引っぱっていた紐を切ると、紐の方にシーソウが落ちてくるのは何故なのか教えて下さい。兄弟の兄の方が5・6才でした。
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2007.04.14[Sat] Post 17:52  CO:1  TB:0  美術展評  Top▲

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サンフランシスコで田中功起展を見ました。
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