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Man Ray

《解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい》Man Rayの写真                    ー「20世紀美術探検」(国立新美術館)ー

  この写真は、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』に引用したロートレアモンの詩句をそのまま写真にしたものである。わたしはかねがねこの詩句を絵にしたものを見たいとおもっていたので、しばらく眺めて、そして満足した。満足したのは写真が面白かったからではなく、予想通り言葉と図像の面白さは別物だと納得したからだ。
 こんな当たり前のことをなぜ考えたかというと、言葉と絵は別の種類の記号だが、ともに美しいイメージを喚起する力があるからだ。わたしはある小説の一節を読むといつも思い出す絵がある。ぎゃくに、その絵を見るといつもその小説を思い出す。その小説は、梶井基次郎の『檸檬』で、主人公が檸檬を買う果物店の夜の風景を描写するところである。ちょっと長いけれど引用する。

  また其處の家の美しいのは夜だつた。寺町通は一體に賑かな通りで――と云つて感じは東京や大阪よりはずつと澄んでゐるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出てゐる。それがどうした譯かその店頭の周圍だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二條通に接してゐる街角になつてゐるので、暗いのは當然であつたが、その隣家が寺町通りにある家にも拘らず暗かつたのが瞭然しない。然し其家が暗くなかつたらあんなにも私を誘惑するには至らなかつたと思ふ。もう一つは其の家の打ち出した廂なのだが、その廂が眼深に冠つた帽子の廂のやうに――これは形容といふよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げてゐるぞ」と思はせるほどなので、廂の上はこれも眞暗なのだ。さう周圍が眞暗なため、店頭に點けられた幾つもの電燈が驟雨のやうに浴せかける絢爛は、周圍の何者にも奪はれることなく、肆にも美しい眺めが照し出されてゐるのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んで來る往來に立つてまた近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めた此の果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だつた。(梶井基次郎『檸檬』)

 そして、この一節を読んだとき、思い出したのはゴッホの《夜のカフェテリア》だ。そのとき以来、梶井基次郎の『檸檬』とゴッホの《夜のカフェテリア》は、わたしの中でペアになって記憶されている。廂のしたの溢れんばかりの黄色い光と、廂のうえの真っ暗な闇の対比が美しい。それは梶井の文章でも、ゴッホの絵でも同じように美しい。
 それなら言葉の美しさと絵画の美しさは同じものなのだろうか。もちろん同じはずはない。それぞれのジャンル特有の形式的な美しさがある。ロートレアモンの詩句を考えてみよう。「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」という詩句は美しい。具体的なイメージを思い浮かべることも容易に出来る。しかし、そのイメージには『檸檬』を読んだときのような絵画的な美しさはない。この詩句の美しさは言葉の美しさなのだ。まさに蝙蝠傘や解剖台や縫合機の「偶然の出会い」という絵に描くことのできないイメージ以前の、そして、フランス語を日本語に訳しても変わらない概念の美しさなのだ。
 梶井基次郎の果物店の描写の美しさはイメージの美しさだが、ロートレアモンの詩句の美しさは、イメージの美しさではない。といっても、わたしが言葉の美しさを理解したとか、イメージの美しさを理解したとか言いたいわけではない。ただ、詩句のイメージを思い浮かべるだけではなく、実際に絵に描いたらどうなるだろう、比較してみたいと思っていたところ、絵ではないけれど、マン・レイの写真を見たというわけだ。この写真は、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』を知らなければ、ただの天井裏に片づけられた古道具にしか見えないだろう。もちろんこれも「偶然の出会い」には違いないが、そこからなにか物語が始まるような出会いではないし、偶然は偶然のまま、それぞれは勝手にそこにあるだけなのだ。
 それは写真だからかもしれない。写真はすべての出来事から「偶然」を奪い取って、残った抜け殻を写すだけだ。それなら絵はどうだろう。絵だって同じことだ。キリコの絵にも「偶然の出会い」らしきものがあるが、そこには画家の露骨な意図が見えるだけで、不思議な出来事はなにもない。
 結局のところ、われわれは言葉と絵の美しさについて何も理解していないことになる。マン・レイの写真《解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい》を見て、美を理解したように思ったのは一瞬の錯覚だったのだ。

  肝心のマン・レイのことを書くのを忘れていた。彼はいったい何故このロートレアモンの詩句を主題に写真を撮ったのだろう。もちろんブルトンが『シュルレアリスム宣言』に引用し、シュルレアリスムの精神を象徴する言葉だったからだ。しかし、だからといってこんなつまらない写真を平気で撮るマン・レイの気持ちを理解するのは難しい。いったい、彼は、ロートレアモンの詩句の美しさは映像では表せないと思わなかったのだろうか。マン・レイは、時代を読むにさといだけの凡庸な写真家だったのではないだろうか。


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2007.04.02[Mon] Post 00:18  CO:0  TB:0  -Man Ray  Top▲

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