大竹伸朗(4)
『大竹伸朗全景展』のことを忘れているわけではない。約束どおり三回、見に行った。三回目は『網膜』シリーズを注意深く見てきた。ナディッフに『ヤバな午後』も見に行った。
何度もこの展覧会を訪ねると言っていた浅田彰は、何度見に行ったのだろうか。ひょとしたら賢明な浅田は再訪しなかったのかも知れない。再訪したって、なにも新しいものは発見できないことを浅田は見抜いていたのではないか。だから、浅田はカタログの解説を断ったのであり、「いつの日か大竹伸朗を語るために」と、これからも大竹について論じることはないだろうと仄めかしているのだ。 わたしが三度も東京都現代美術館に足を運んだのは、もちろん大竹伸朗に語るべき何かがありそうな気がしたからだが、回を重ねるごとに、説明しようのない失望感にとらわれ始めた。最初に感じた「こじんまりと纏めようとする」という表現はあまり的確ではないが、何処か中途半端なのである。それは抽象画にもインスタレーションにもドローイングにも感じられるのだが、三回目に『網膜』シリーズを注意深く見て、ますますそう感じた。決定的だったのは、最後に行ったナディッフのドローイング『ヤバな午後』だった。 大竹にとってドローイングは特別な意味がある。その技術はホックニーに見せたぐらいだから自信があったにちがいない。画家がいかにも旅行中にサラサラと描いたような達者なスケッチもある。人物の後ろ姿をちょっと漫画風に描いたドローイングもある。『ヤバな午後』は誇張省略歪曲逸脱反復ヘタウマ何でも有りを巧みに纏めている。そして彼はそのドローイングをちぎった和紙で四隅にのり付けにする。何故そんなことをするのか、いかにも崩したような巧い絵が恥ずかしいのだろうか。 ホックニーもデッサンを崩した時期はある。しかし、ちゃんとしたドローイングを捨ててはいない。魅力的な線を求め続けている。しかし、大竹はまるでそんな線に飽きてしまったかのように捨てる。次々と線が変わる。その辺のところがわからない。年代順にたしかめてみないとわからない。 『網膜』シリーズも様々に変貌する。いろいろな試みをする。どれもがそれなりに纏まっている。しかし、いったい何をやりたいのか、一つ一つそれなりに纏まっているから、なおさらわからない。だから、見ているうちに飽きてくる。一回目は次々に目の前に現れる変化に見とれる。二回目は既視感。三回目は退屈。もちろんこれは誇張だけれど、とにかくカタログが手元に届いたら、しばらく眺めて頭の中を整理し、もしも、大竹の膨大な作品の一つでも理解が出来たら、報告する。 曖昧ながら頭の中で、何かがブツブツ言っている。 TRACKBACK
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