竜安寺体験
David Hockney の竜安寺体験
誰もが竜安寺体験と呼ぶべきものを持っている。といっても、最初の美的感動というのではなく、まったくその反対で、自分には美的感受性がないのだと思い知らされる体験のことだ。 ![]() ホックニーには他にも竜安寺の写真やスケッチがあるのだが、私が推察するに、彼は全然「無」を感じていないと思う。 * わたしは横浜美術館の李禹煥展をみて、この竜安寺体験がよみがえってくるのを感じた。といっても石と鉄板を使った『関係項』(これは石と鉄板を石庭に見立てたようにもみえる)ではなく、キャンバス画の『照応』を見ていたときだ。
白いキャンバスに黒い刷毛の跡。私はそこに均衡や運動や奥行きを探した。「余白の美学」と副題が付いているので、キャンバスのしろい部分に精神を集中した。しかし、何の感動も生まれてこない。 わたしは、少しいらだった。同じような感覚をかって経験したことを思い出したのだ。中学3年の修学旅行で行った竜安寺の石庭を見ていたときの苛立ちと同じものだった。 事前学習で、竜安寺の石庭がどんなに素晴らしいか繰り返し教え込まれ、さて、少し胸をどきどきさせて濡れ縁にたった。白い砂利が昼の光に輝いて美しい。転々と置かれている石は、なるほど、すっきりとしてなかなか調和がとれている。海に島が浮かんでいると言われれば、そう見えなくもない。しかし、見立てというものは、どうも生意気盛りの中学生にはばかばかしく思えるばかりだ。 石の位置は完璧で、一つでも動かすと美しさが壊れてしまう。この美しさは石の美しさではなく、石によって作られた空間の美しさであり、これは禅の無に通じるものだ等々、教わったことを頭に浮かべながら、庭の構図を考えた。 同じことが、ミロのヴィーナスが日本にやってきたときにもあった。あのときも「絶対の美」だといって、美術評論家が黄金分割を持ち出して説明していた。 わたしは石庭を平面の絵としてみようとしていた。どこの位置からみるのが一番美しいのか。縁側に立ってみれば、庭の手前には庭石がなく、間が抜けてさえ見えるし、石は塀のほうに寄ってバランスが悪い。僕は庭の向こう側からこちらを見て見たいし、屋根の上から見下ろして見たいともおもった。 おそらく座敷に座って、障子の向こうに少し見える庭が美しいのだろうが、どちらにしろ、究極の美とか無とか持ち出されると返答に窮してしまう。 確かに鋭い感覚の持ち主はいるのであって、先日見た宇治山哲平のマル・サンカク・シカクの模様を描いた抽象画は、左右対称にも拘わらず、微妙なズレと歪みで、心地よい緊張感を与えてくれる。これは、庭園美術館の三階に展示してあった制作途中の作品を見て判ったことなのだが、宇治山は、定規とコンパスを使ってキャンバスにマル・サンカク・シカクを描き、それを微妙に位置をずらし、形を歪めながら色を塗っていくのだ。 もちろんわれわれがその美しさを感得しうるのは、それが平面絵画だからであって、もしマル・サンカク・シカクではなく、球とキューブと三角錐だったらそうはいかない。 石庭もヴィーナス像も立体だから、どこから見て良いのか、なかなか視点が定まらず、イルージョンも生まれにくいのだ。 もちろん、彫刻や立体作品を見せるときに、照明を工夫し、カメラを移動させながら、ほら、どこから見ても美しいと、感動を強要するテレビ番組もあるが、いったいそれはデザインの美しさであって、美的感動とは別物ではないか。 抽象画で考えれば、そこには具体的対象がないのだから、どうしたって、バランスだとか線だとか調和を見ないわけにはいかない。そうなれば、李禹煥の中期の筆の跡を生かした作品は調和だとかリズムだとか余白の美しさといった、たんに、オシャレな作品ということにならないか。こういったオシャレな抽象画は、たとえば、吉原治良にもサム・フランシスにも共通していることで、私にはオシャレだけではどこか不満である。 藤枝晃雄などのフォーマリストたちは、良い抽象画はそんなリズムとか勢いとかいったことではなく、もっと奥深いものを表しているのだという。 それはカンディンスキーが抽象画に求めた音楽性や精神性といった表面的なものではなく、マレーヴィッチのシュプレマティスムのような、もっと形態の美を越えた超越的・宇宙論的なものだというのだ。 こういった話は何処か竜安寺の枯山水に「無」を見るのと似てはいないだろうか。高島野十郎を西田哲学の主客未分化の純粋体験だというのも同じことだし、作家の主体を消すというのも同工異曲のようなきがする。 正直なところ、わたしにはよく理解できない。もちろん、これからも、現代美術を見には行くけれど、分からないからといって、竜安寺のように絶望もしない。ただちょっとだけ、疑ってかかっているだけだ。 わたしは図像主義者としての立場を守るつもりだ。 たとえば、わたしはポロックは分からないが、ロスコはわかる。それは、ロスコの絵が具象に見えるからだ。宇宙の混沌から天と地が作られ、四角い色面は広大な大地となって広がるからだ。 しかし、ロスコの「シーグラム壁画」(川村美術館)は分からない。それは教会のような薄暗く、狭い空間に展示されており、しかも、ほぼ全面が暗い小豆色で塗られているので、眼の焦点があわず、いくら絵画と観者が一体になるといわれても、ただ苛立つだけで、とても鑑賞など出来るはずはない。 抽象であろうが具象であろうが、絵を見るということは、そこにある絵の具の塗られた平面を知覚することから始まるのであり、その物質の知覚が変容されることによって絵画の世界は開かれるのだ。だからまっとうな大きさの絵を、まっとうな光の下で、まっとうな距離から見ることだ。このことを忘れなければ、現代美術の迷路にはまることはないだろう。 フッサールの図像意識の構造 物理的図像 → 図像客体 → 図像主題 TRACKBACK
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