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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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長谷川祐子 VS 藪前知子 : 《檄》のもう一つの解釈

《檄》も《首相演説》も、会田誠自身が政治的なものではないと言っているにもかかわらず、安倍政権批判だという意見があとをたたない。もちろん、作者が作品解釈の独占権を持っているわけではないのだから、作者の制作意図がどうであれ、観者の解釈だって述べてみる価値はある。それなら、会田誠に、おまえは古い、もう終わっていると宣告された身だけれど、長い間、会田ウォッチをしてきた私の解釈も述べておきたい。もちろんこれは作品のフォーマリスティックな分析ではなく、主題を巡る与太話である。

二つの作品は、会田誠自身をして画家になってよかったと言わしめた作品である。たしかに、《檄》は「文字シリーズ」として、《国際会議で演説する日本の総理大臣と名乗る男のビデオ》は「ビデオ・アート」として会田誠の傑作といえる。

もちろん、これは本来の絵画作品ではない。それなのに、わたしが《檄》に感動したのは「私小説」としてだった。はじめに頭に浮かんだのは、言うまでもなく、三島由紀夫の『檄』だ。それから、「新潟の会田家」のこと、エッセイの『カレー事件』など、最後に、「佐々木豊のインタビュー」()を思い出した。佐々木豊は10年前にこの《檄》にピッタリのことをインタビューのなかで言っている。そして、会田誠は10年後に、この作品《檄》で佐々木豊の問に答えているということもできる。

以下は第11回“Round About”からの引用だ。エロについて話している(下線太字は安積)。

佐々木:「いい加減にしなさい」とか奥さんは言わない?
会田:妻も美術家で、破廉恥なビデオ作品とかも作っています。
佐々木:もう一代も含め、三人で破廉恥をやることもありそう?
会田:でも息子が両親を嫌って、すごく道徳的な人間になるかもしれない。両親がかなり潔癖な方だったので、ぼくはこうなっちゃったんで。
佐々木:教育者でしたね。厳格な。それに対する反動が…。
会田:すごくあった。自分で言うのもなんですけど、根は上品なのに、頑張って下品にならないといけないという強迫観念があった。
佐々木:ただ、芸術家といえども、社会の中で生きてる。だんだん子供が育って、どこか有名校に入れたいとか、これから奥さんもそういう風に変わらないとも限らない。そうす ると、太宰治が「家庭の幸福は諸悪の根源だ」と言ったように、会田さんも小市民のモラルを憎んで今のままどんどんいけるのかどうか。
会田どうでしょうねえ。周りは「もっと破廉恥な絵を描け」と期待して、それに応えていれば、絵は売れるんでしょうけれど、ぼくはだんだん尖った表現はやらなくなってくると思います。でもそれは、家庭の幸福とかのためじゃなくて、ぼくの個人的な変化としてですけど。


これを読めば、《檄》が政権批判ではないことは分かるだろう。アーティストの家庭のしつけのことを話しているのだ。それにしても、佐々木さんは、エロのことを話していて、いきなり「親子三人で破廉恥をやる」とは大胆なことをいう。

学校教育に対する不平不満は、アーティストの家庭とサラリーマンの家庭ではそんなに違いはないだろう。あるとすれば家庭教育の方だけれど、三島由紀夫が言ったように、銀行員のように規則正しく小説を書くことだってできるのだ。

芸術家論はさておいて、《檄》が「子どもにふさわしくない」のかどうか問題になるのは、佐々木豊が予想したように、「三人で破廉恥をやっている」のではないかという疑いがあるからだ。

破廉恥といってもエロとはかぎらない。美術も権力と結びつけば破廉恥になる。会田誠は、自分には金と権力がないとかねがね言っている。しかし、すでにそうは言えないだけの権力の持主ではないのか。《檄》が「三人で破廉恥をやっている」と感じるとしたら、それは美術権力の介入があるからだ。

会田誠はこれらの作品が政治を扱ったものではないと主張している。しかし、会田誠の声明文の正論ぶりを読むと疑問が湧いてくる。美術評論家たちもこぞって長谷川祐子の背後にいる政治権力の存在を仄めかしている。しかし、長谷川祐子はそんな「破廉恥なこと」を言っているのだろうか。これはもともと公共の美術館の夏休みの子供のための企画なのだろう。「子どもに難しい」とか「過激である」ということは、至極まっとうな感覚ではないのか。長谷川祐子が「過激だ」と感じて「都」に相談したのは、「表現の自由」の問題や企画の権限の問題があるからだ。もちろん、そこで都の側から修正撤去を要請された可能性はある。

抗議電話が一回だけだということを問題にしているが、なにも長谷川祐子は抗議電話があったから問題だと思ったわけではない。電話の前に、自分の目で見て疑問に思ったのだ。墨で書いた文字が、会田誠の意図と違って、長谷川祐子は「生の感情の表出」と受け取ったのだ。もしそう受け取られるとすれば、その文字が伝えるメッセージは子どもにとってだけではなく、大人にとっても危険なものとなるだろう。

長谷川祐子は都の意向に配慮したかもしれないが、それより前に、公立の現代美術館のキュレーターとしての良心にしたがって判断したのだ。だから、修正を拒否されたとき、撤去すべきだと強く要求できたのだ。長谷川祐子はめずらしく気骨のあるキュレーターだが、なにぶん《檄》を見たのが内覧会の三日前だというのだ。既に遅し。都をもちだしたことで、美術権力は政治権力に変わってしまったのだ。

話はここで終わらない。会田家の三人は『子供展』の担当学芸員である藪前知子氏とチェ・キョンファ氏と去年からこまめに連絡を取り合い、準備を進めてきたと会田誠はいう。長谷川祐子の知らないところで、実は別の二つの美術権力のあいだで密かに談合が行われていたのだ。長谷川祐子の要求が権力の横暴で、自分たちの話し合いは民主主義の理想と言ってしまうところが、権力がときに猥褻になる理由なのだ。

藪前知子の『子供展』の企画書かと思われるポストモダン風の文章を見かけたのだが、検索しても出てこない。藪前知子がこんな重要な役回りをしているとは思わなかったのでうかつだった。ちなみに、椹木野衣は藪前知子が権力の介入に抗してよく戦っていると褒めている。

こうやって、公立の文化施設がサヨクに乗っ取られていくのだ。その腐敗した組織と戦っている橋下市長の文化行政の支持を公言しているアーティストは村上隆一人である。村上隆をバッシングしているのはオタクたちではなく、おそらく、サヨクの美術業界人だと思われる。

つづく

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2015.08.10[Mon] Post 14:08  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

会田誠の《檄》と三島由紀夫の《檄》

会田家の《檄》は三島由紀夫の《檄》のパロディだろうか。もちろん会田誠自身が三島を愛読し、影響を受けたと言っているのだから、「文字」に鋭敏な感覚を持つ会田誠が《檄》の制作中に三島由起夫のことが頭になかったはずはない。

とは言っても、会田家は檄を飛ばすわけでも、決起をうながすわけでもない。子どもの教育の問題で、会田家の三人が文科省にあれこれ抗議をしているのだが、檄文の最後に、「アーチストだから社会常識がない。真面目に子育てにやってないと言(以上)」と愚痴っている。どこが、檄なのか一向にわからない。それに対して、三島由起夫の方は家庭を切り捨て、男たちに決起を呼びかけている。

それなら、会田誠は三島由紀夫から何も学ばなかったのだろうか。そんなことはない。本当のことを言うと、「檄」に対応するのは「デモ」なのだ。三島由紀夫の「檄」の背後には昭和44年10月21日の「国際反戦デー」の暴徒化したデモがある。鎮圧のための自衛隊の治安出動がなかったために永遠に「憲法改正」のチャンスを失うということがあった。また、会田家の「檄」は文部科学省に物申しているのだから、《檄》自身が三人のデモと言えなくはない。会田誠には他にも《一人デモマシーン》や《ユア・プロナンシエイション・イズ・ロング》など、ジョークまがいの作品はあるけれど、政治的な目的を実現するための示威行為としてのデモ・パフォーマンスはない。

しかし、《檄》が、会田誠自身がいうように、「子どもの問題」と考えるなら、三島の「国際反戦デー」のデモに対応するデモが、会田家の「檄」にもある。それが「子どもを守れ」デモだ。「子どもを守れ」はおそらく「九条守れ」から派生したのだろうが、「反核」と「反戦」を兼ねて、便利な言葉である。

「九条守れ」はサヨク色が強いので、ソフトなイメージの「子どもを守れ」が逆に過激派には好都合だった。原発事故が起こると、狂ったように「子どもを守れ」キャンペーンが始まった。最初は二本松市の山下俊一長崎大教授の講演会だった。袈裟を着た男が山下教授に、「安全だというなら自分の子どもを住まわせろ」と言っていた。いろいろ怪しげな大学教師、ジャーナリスト、開業医が現れて、子どもが最大の犠牲者だと言っていたけれど、「子どもを守れ」デモの最大のスターは山本太郎だった。そして、つい先日、朝日新聞デジタルが「若者、ママたち、SNS」の三題噺でコラムを書いていた。

東京都現代美術館のチーフキュレーターの長谷川祐子が「檄」という文字が過激だからという理由で、修正を要求したことに、批判する向きもあるが、その批判する美術評論家たちも過激とは言わないまでも、《檄》を政治的メッセージと受け取っていることにかんしては長谷川祐子と同罪といわねばならない。しかし、政治的に過激なのは、会田の《檄》ではなく、過激派が背後にいる「子どもを守れデモ」の方だ。どちらにしろ、サヨクもウヨクも《檄》をポリティカル・プロテストとして理解していることにはかわりない。

実はこの拙文は数日前に前半部を書いたのだが、どうしても三島由紀夫の『檄とデモと憲法改正』の問題を会田家の場合と比較したかったので、というのも会田の《檄》が政治的なものではなく、「ギャグ」だということを示すためにはデモとの比較が必要だったのだ。

正確にいえば、「ギャグ」ではなく、スラップスティック・コメディなのだが、会田にはスラップスティック・コメディの才能がある。ドタバタといえば貶したように思えるだろうが、あのカフカの『変身』だってスラップスティック・コメディの要素があると言われている。そう考えれば、エッセイの『カレー事件』も、小説の『青春と変態』もスラップスティック・コメディといえる。

ひとまずアップする。まごまごしていると、会田誠にみんな先に言われてしまう。ツィッターと合わせて読んで欲しい。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2015.08.02[Sun] Post 00:56  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

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