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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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VOCAは写真を追放すべきだ。

VOCA展の応募規定は絵画ではなく、「平面作品」である。公募団体展では写真や版画は独立の部門にしていることが多いけれど、VOCA展では、写真や版画も絵画と同じ平面作品に分類される。「平面性」を支持体の形状と考えているからだ。それなら、支持体の形ではなく図像の内容からみて、いったい写真の平面性と絵画の平面性は同じものだろうか、それとも異なるのだろうか。

2003年にVOCA10周年を記念して、「絵画、写真、映像? 現代美術の行方」というタイトルでシンポジウムが行われた。そこで、パネリストの宮崎克己(ブリジストン美術館学芸課長)が、「絵画、写真、映像」の区切りについて、4つにまとめた。

①:映像は動くのに対して写真・絵画は静止。
②:絵画は描くという身体的な動作で作品が制作され、映像・写真は工学的装置でつくられる。
③:絵画は一点ものだが、写真・映像はオリジナルが無意味になるほどの複製が可能。
④:“芸術”というものとの関係性。絵画は密着しているが、映像・写真はそれが希薄。

映像は厳密な意味では平面とは言えない。誰もが知っているように映画が上映されているとき、われわれはスクリーンの平面性に気づかない。映像が静止すると、スクリーンの平面があらわれる。絵画(平面作品)の空間は、平面の知覚に基づいて「想像」されているけれど、彫刻(立体作品)は原則的に両眼視差によって三次元として「知覚」されている。映像が静止しているときは、写真なのだから、絵画とおなじように平面の知覚に基づいて空間を想像している。(実際には写真の場合は印画紙に注意を向けないと平面には気づかない。モダニズムの絵画はこの平面性を宣言する)。平面には両眼視差が生じないから、知覚ではなく、平面の知覚をもとに想像がはたらくのだ。ところが、写真が動いて映像になると、「両眼視差」の代わりに「時間視差(運動視差)」が生じ、三次元空間の「擬似知覚」が生じる。写真と映像では空間が異なるのだ。

それ故、動画は単純に平面作品とは言えない。絵画が動けばアニメになり、写真が動けば映画になる。動けば「運動視差」が生じるからだ。映画もアニメも、動画は三次元の立体映像だ。ほかに色眼鏡などを使って「両眼視差」を人工的に作り出す立体映画がある。立体映画は両眼視差と時間視差(運動視差)がうまく協働しない。運動視差だけの映画の方が自然である。しかし、絵画の三次元空間は知覚に基づいた「想像」であり、「運動視差」や「両眼視差」の立体視とは別のものだ。片目でも絵画の遠近法の奥行きが見えるのは「知覚に基づいた想像」だからだ。錯視(オプティカル・イリュージョン)ではなく、ピクトリアル・イリュージョンなのだ。

両眼視差を人工的に生み出す方法は色眼鏡の他にもさまざまある。無理やりつくりだすと不自然な立体視が現れる。動きだけで立体的に見える映画にさらに人工的な両眼視差を加えると、観客はみんな吐気に苦しむ。また、アマチュアが手持ちのカメラを振り回して撮った前衛映画も吐気をもよおす。自分の体がふりまわされたようで、平衡感覚が働かなくなるからだ。これが、メルロ・ポンティの言う「受肉」ということだ。

動画には静止画とは異なる空間のイリュージョンがある。また、漫画のコマ割りによって生じる運動空間も独特のものである。これに関してはすでに私の「漫画論」(『漫画とアニメと絵画』)で詳しく論じた。「絵画と漫画とアニメ」の空間はそれぞれ性質の異なる三次元空間のイリュージョンである。

以上は「運動」のあるなしで、静止画と動画の空間のイリュージョンの違いについて述べたのだが、「描写」の違いによる空間の違いもある。素描(線)の空間、絵画(線と色)の空間、陰影のある写実的な空間、モダニズムの平面的な空間、ハイパーリアルな絵画の空間、写真の空間と並べてみれば、静止画の空間の違いが分かるだろう。もし、「絵画の奇跡」があるとしたら、それはショーヴェ洞窟の木炭画であり、もっとも奇跡に遠いものは写真である。現代美術を「絵画(想像)とオブジェ(知覚)とコンセプト(観念)」に分けるなら、写真はオブジェに分類される。それは、次に述べるように、「現前性」の問題に関わってくるだろう。

次の②と③は、同じことを別の視点から言っている。絵画は「アイコン記号」であり、写真は「アイコン記号」と「インデックス記号」の両方の性質をもっている。アイコン記号は意識の「志向性」であり、インデックス記号は物理的な「因果関係」である。写真が証拠になるのは、写真と被写体の関係が物理的な因果関係であって、類似性による記号作用ではないからだ。そのことがかえって写真が証拠あるいは記録として、現代美術に重要な影響を与えることになる。このことを論じた美術評論にヴィクター・バーギンの『現前性の不在ーコンセプチュアリズムとポストモダニズム』がある。とくに、インデックス記号としての写真がコンセプチャリズムと結びついて、現代美術を支配していることを手際よくまとめている。

ただ、バーギンの理論はマルキシズムの影響を受けてかなりイデオロギー色の強いものだ。絵画は美的で、ブルジョワの趣味や教養のためのものであり、今では、雑誌や新聞の挿絵は写真にとって代わられた。かってステンドグラスがそうであったように、絵画はもはや時代錯誤になった。しかし、取って代わったのは、インデックス記号としての写真であり、「絵画の真理」は、依然としてショーヴェの木炭画やマチスの平面性、ピカソのキュビスム、そして北斎の春画にある。こんなことを言えば、絵画はその「現前性」ゆえに、真理から遠いとバーギンなら言うかもしれない。しかし、「絵画の真理」と「写真の真理」とは違うものだ。写真の真理は対象との一致であり、絵画の真理は「存在の開示」(ハイデッガー)なのだ。

最後の④は何を言いたいのか分かりにくいけれど、おそらく絵画原理主義者の本江邦夫が、平面作品として絵画と同等の資格があるはずの写真をどうしても認めたくないので、絵画より一段劣るメディウムとして差別化を図るために、「絵画的な質」があれば、写真も認めて良いと言ったことに、宮崎克己が配慮したのだと思われる。もって回った言い方だが、選考委員には写真の専門家もいるだろうし、そもそも絵の分からない学芸員にとって写真家の個展ほどお手軽な企画はないわけで、彼等にとって写真は死活問題なのだ。本江邦夫としては妥協を謀ったつもりだろうが、それがVOCAの命取りになる。

写真はアイコン記号としては絵画の仲間である。写真が絵画と異なるのは、「絵画あるいは芸術としての質の問題」だと本江邦夫はいう。写真は正確である、しかし、芸術としては絵画に劣るということだ。写真が発明されたとき、「絵画は死んだ」と言われたのは、絵画の描写が写真の描写の正確さにおよばなかったからだ。しかし、しだいに絵画の独自性が自覚されるに従って、写真史の中で「ピクトリアリズム」という表現方法が流行したこともあった。ソフトフォーカスやプリントの雑巾がけなどして画像をボカして、写真の正確な再現性を弱めて、「芸術性」を高めようとしたのだ。

ほかにも、写真の「芸術としての質」を高める方法は、構図、照明、スローシャッター、ブレ・ボケ・アオリなどいろいろあって、たとえば、土門拳、森山大道、柴田敏雄、杉本博司、荒木経惟、森村泰昌などの写真も一種のピクトリアリズムといえる。VOCA関係では、99年VOCA賞のやなぎみわ、06年大原美術館賞の蜷川実花がそうだ。今年のVOCAにも福田龍郎や本城直季が「絵画的質」を高めた写真が評価されて、推薦されている。最近はPhotoshopなどPCで加工した作品も増えているけれど、どれも小手先の工夫で、「絵画の真理」とは無縁のもので、一瞬、目を惹くけれど、すぐに飽きてしまう。

そのかわり写真家はまるで思想家哲学者のように喋る。写真は証拠であり、レディ・メイドあり、リテラルなオブジェなのだから、新聞や雑誌の記事はキャプションになる。この辺りから本江邦夫の情熱にも拘わらず、絵画の根拠が写真によって崩れはじめたと思われる。アイコンとしての写真からインデックスとしての写真へ、そしてインデックスからコンセプチャリズムの写真へと、絵画に危機が迫っている。そうだとすれば、できるだけ速やかに、写真をVOCA展から追放すべきだろう。ところが本江邦夫は油断した。写真でも絵画的な質があれば、絵画の仲間だと認めてしまったのだ。絵画的な質を持った写真としてやなぎみわや蜷川実花に賞を授与したわけだ。「絵画の忘却」である。

そして、今年は最もインデックス記号らしい写真がVOCA奨励賞と大原美術館賞を受賞するという、本江邦夫が選考委員会で居眠りしていたのではないかと思えるようなことが起きた。大原美術館賞を受賞した川久保ジョイの《千の太陽の光が一時に天空に輝きを放ったならば》はインデックス記号100%の写真と言って良い。もちろんオレンジ色とか大判のプリントとか、絵画的な質を加えているけれど、これは個人の外部被曝線量を測定するために用いられる線量計のフィルムバッジの発想をそのまま利用したインデックス記号、すなわち被曝線量のデータなのだということは誤魔化しようがない。

フィルムバッジのことに誰も触れないことも怪訝だが、「線一本引けない」アーティストたちが3.11で一山当てようと福島詣を繰り返しているのを尻目に、絵とは無縁の写真家がフィルムを使った線量計のアイディアを使った「コンセプチャリズム」に文学的宗教的タイトルを付けて、本来絵画のためであったはずのVOCAの賞を横取りしてしまうという結果になったわけだ。

もう一つの受賞作(奨励賞)である岸幸太の写真作品《BLURRED SELF-PORTRAIT》も、また二重の意味でインデックス記号である。まず、写真の描写が、最初の写真といわれるニセフォール・ニエプスの《彼の家の窓からの眺め》のようにグラデーションを欠いた版画のような明暗二値的な描写だということだ。版画は言うまでもなくインデックス記号である「痕跡」だ。その他、影や現像液のしたたり、アクションの跡など、インデックス記号が盛りだくさんで、いわば、コラージュの手法が写真に芸術風味をつけるためのものになっている。

ところが、《BLURRED SELF-PORTRAIT》には、もう一つのインデックス記号が隠されている。それは、1871年6月、パリコミューン支持者がこのバリケードの上で撮った記念写真が証拠となって、ギロチンで処刑されたという、「写真は証拠になる」という有名な写真史のエピソードだ。証拠になるのは写真がインデックス記号だからで、写真は指紋であり、今でいえばDNAの塩基配列のようなものだ。ここではコラージュは芸術風味ではなく、社会批判の手法になっている。

このエピソードは、写真家なら誰でも知っているエピソードだ。しかし、誰も、本江邦夫でさえ、そのことに触れない。川久保ジョイは写真を絵画的質を持った抽象表現主義的作品として出品しているのだから、フィルムバッジのことを隠すのは分からないではない。しかし、岸幸太の写真はコンセプチャリズムとして積極的に政治にアンガジェしているのだから、権力側の写真を証拠にしてのギロチン・テロのエピソードに触れないのは不思議といえば不思議だ。

実はVOCAにおける絵画原理主義者の本江邦夫の存在を考えれば不思議ではないのかもしれない。本江邦夫は絵画主義者でありながらフォーマリズムの視点から絵画を理解していない。絵画は平面だというのは正しいのだが、そうなると写真も絵画になってしまう。もちろん写真は「ピクチャー(picture)」なのだから絵画には違いないのだけれど、機械的に作られた写真はいくら手で描いた絵画より正確だとしても芸術的な質では劣る。それでも、「絵画的な質」があれば写真や映像もVOCA展の資格があると妥協したが、実際にこれまでVOCAで受賞した写真作品はフォーマリズムの視点から芸術的に優れていると言える作品はないだろう。

本江邦夫はアイコン記号としての写真と妥協をはかろうとしているが、実は彼が恐れなければならないのはインデックス記号としての写真の方だ。インデックスは絵画の想像力を抑圧する。インデックス記号の暴力は写真だけにあるのではない。版画もまた足跡と同じようにインデックス記号だ。そのことを本江邦夫も感づいているらしく、『依存について』と題した今年の選考所感で受賞した三作品を「依存的だ」と批判しているのだが、三作品ともインデックス記号なのだ。まず、VOCA賞を受賞した小野耕石の《Hundred Layers of Colors》は「シルクスクリーンで網状の版を通して、ひたすら色インクを重ねて刷る」という方法、すなわち「描く」のではなく絵具の痕跡を積み重ねるという方法によってつくられた作品なのだ。

「依存的」というのは、どうやら「既存のシステムや権威に依存する」ことらしいのだが、具体的にどんなことを意味するのか、例によって江本邦夫の言うことは難解だから、こちらで勝手に解釈すると、シルクスクリーンに独自の工夫を加えた新奇な技法に絵画表現が「依存しすぎている」と本江邦夫はいいたいにではないか。現代美術が「絵画表現」ではなく、新奇珍奇な「描写技法」の競争に陥っていると批判したのは柿栖恒昭だ。新しい「描写技法」の開発に便利なのはアイコンよりもインデックスだろう。絵画は洞窟の画家のように手で描かなければならない。例えば、CGはコピー&ペーストがいくらでもできるのだから、アイコンというよりもインデックスなのだ。インデックス記号は工夫次第で、絵の描けないアーティストも新奇珍奇な描写技法の競争に参加できる。シルクスクリーンや写真という既存のシステムに工夫を施すことで、ちょっと見には新奇な作品のように見えるということだ。

VOCA賞の小野耕石は画材のリストからシルクスクリーンをはずし、大原美術館賞の川久保ジョイはアイディアをもらったフィルムバッジのことに言及せず、VOCA奨励賞の岸幸太は写真が初めて証拠として使われた写真史のエピソードに触れず、それぞれがインデックス記号を使った新しい描写技法によって受賞したことになる。

現代美術では誰もが絵画の「知覚に基づいた想像力」(絵画の真理)を忘れて、新奇珍奇な描写技法に「依存的」になるわけだが、なかでも、インデックス記号の写真や版画が、手が自由に動かないアーティストにとって、新しい描写技法を編み出すに便利なメディウムなのだ。たしかに、小野耕石や川久保ジョイの作品は、一見したところ、抽象表現主義の作品にみえるのだが、岸幸太のコラージュ風の写真を含めて、インデックス記号の操作によって制作された作品特有の想像力の枯渇がある。

三人の作品とポロックのポード絵画を比べてみれば、その違いは歴然としている。ポード絵画は「描くことと偶然の弁証法」がある。しかし、三人の作品には機械的な作業の組み合わせや繰り返しがあるばかりだ。一つ例をあげれば、岸幸太の「現像液」の滴りは偶然をよそおったワザとらしさがある。千住博の滝の線だ。ポロックの線は滴りではない。キャンバス地を床に水平において、エナメルペンキをポーリングする。偶然を取り込んだ描線だ。誰にもまねができないポロックの線だ。

写真はトロイの木馬だ。中からコンセプチャリズムが出てくる。絵画の陣地に入れてはいけない。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2015.05.20[Wed] Post 12:43  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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