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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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「キッチュ」とは何か? : ジェフ・クーンズの『ホイットニー美術館回顧展』

ドイツの庭には白雪姫の小人のような陶器の人形(Gartenzwerg)が飾ってあるのをよく見かける。いわゆる、キッチュだという。安物の代用品ということだろう。



ブログを書くようになって、クレメント・グリーンバーグの『アヴァンギャルドとキッチュ』や石子順造の『キッチュ論』を読んで、「キッチュ」が何か分からなくなった。どうも現代アートでは、サブカルチャーやポップ・アートと絡ん、キッチュはガルテン・ツベルクほど単純ではなさそうだ。

『美術手帖』の《ジェフ・クーンズ特集号》の中で、ジェフリー・ダイチが「ウォーホルはキャンプで、クーンズはキッチュだ」と言っているのを読んで、わざわざ『ジェフ・クーンズ回顧展』のカタログをAmazonで買った。《GAZING BALL》という展示がある。ゲイジングボールというのは、アメリカの郊外の住宅の庭先に飾ってある大きなガラス玉のことで、まさにアメリカのガルテン・ツベルクだ。それを、これもキッチュのギリシア彫刻の石膏レプリカの上に載せてある。まさに、《ダブル・キッチュ》なのだ。




ジェフリー・ダイチが言う。「クーンズが取り上げるのは、(ウォーホルと)同じ(ように)芸術とは呼びにくいものではあっても、一般家庭にあるポーセリンの人形や風船動物の飾りなど、より身近でキッチュな、ほとんど美的価値をもたない物体ばかりでした。彼はこうしたオブジェをあらためて芸術の俎上に載せることで視覚文化のより入り組んだ様相をあきらかにしました。」(『美術手帖』)と。回顧展の作品を見れば、クーンズがダイチのいうキッチュの原則にきわめて忠実であり、キッチュに手を加えてオリジナルものを創造しようなどという野心は持たないことがわかる。キッチュはキッチュのままだ、ただ大きくしたり重くしたり磨き上げたりすることで、安物でも代用品でもなくなるけれど、美学的にはキッチュはキッチュのままだ。しかし、そこに現代芸術の「純粋性」があらわれるといえば言える。

それは、《MADE IN HEAVEN》も同じことだ。ポルノはもともとキッチュだが、それを磨き上げてなおさらキッチュにした。男はアーティストで身体はボディビルで鍛えてあり、二枚目で前髪がちょっとホツレている、女はポルノ女優でしかもニョウボで花嫁衣装のレースの下着とくる、これ以上のキッチュがあるだろうか。エロティックでないかわりに羞恥嫌悪も起こさない。キッチュなポルノはキッチュのままだ。どこの家庭にもあるだろう、だって、夫婦がコスプレしているんだもの。

とは言っても北斎春画にはかなうまい。北斎は「線が描ける」。線はあらゆる絵画のレトリックを浄化してくれる。そして、いま、ニョウボは、北斎の漫画春画と格闘している。ジェフ・クーンズの「素直さ」には負けるが、絵を見る幸せでは、たぶん、負けないだろう。








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2014.12.17[Wed] Post 15:14  CO:0  TB:0  ジェフ・クーンズ  Top▲

五月女 哲平 : 『記号ではなく、もちろん石でもなく』  【青山|目黒】

五月女哲平の作品は、青山|目黒の『NADA Miami Beach 2014』()の出展ブースの案内状で知った。これまでのイラスト風の作品とはずいぶんと違うというのが最初の印象だ。しかし、しばらく眺めていると、これは「失敗作」ではないかという気がしてきた。


  《Teppei Soutome, Pink, blue, and the others, 2014, acrylic on canvas, 1950x1290mm》 

これは、平行な二辺を持たない(台形ではない)同じ形のピンクと青の四辺形を二つ組み合わせて作った図形である。二次元の平面図形と三次元の立体図形の合の子になっている。立体に見えるときは、青とピンクが透視図法で描かれた立方体の二面にも見えるわけだが、その場合、ピンクの面と青の面の消失点(あるいは視点の高さ)が同じ水平線上にないことから、二つの面の間の稜線に歪みが生じている。それが面白いということなら、残念ながらそれは絵画の面白さではない。この図形のイリュージョンは、オプティカル・イリュージョンであって、ピクトリアル・イリュージョンではないからだ。

五月女哲平の絵画を理解するキーワードは「違和感」だと評論家は言う。それは日常的な事物風景の経験と絵画世界の風景が感覚的にズレていることで、図形に生じる視覚心理学的錯視のことではない。錯視は「オップ・アート」に典型的に見られるように、「知覚に基づいた想像」ではなく、「知覚の変異体」であり、歪みやチラつきなどの錯視の面白さはあるけれど、絵画的イリュージョンの楽しみを与えてくれるものではない。そういう意味で、失敗作だと言ったのだ。

こういう錯視現象に興味を持つと、画家ではなく、錯視現象の素人研究家になってしまう恐れがあるから、気をつけないといけない。

ところが、今年の夏に『青山|目黒』で五月女哲平の個展『記号ではなく、もちろん石でもなく』が開催されていた。ちょうどその頃、オペラシティアートギャラリーの『絵画の在りか』に展示された《土星》のことがニョウボと論争になっていて、この展覧会には気付かなかった。ホームページは見たはずだが、記憶に無い。たぶん、以前の「ネオ・ジオ」などの幾何学的抽象の系列だろうと勝手に思い込んで、無視していたのかもしれない。


Installation view Teppei Soutome : 《Neither a symbol, nor a stone》

そういうわけで、NADA Miami Beachの《Pink, blue, and the others, 2014》を見ても、哲平さん、やっぱりダメかと思ったけれど、この「Installation view」を見て驚いた。壁に立て掛けてある鉄道標識かサーカスのバーベルのようなものはともかくとして、二枚の変形キャンバスの作品は紛れもなく「絵画」なのだ。黒の中に白、緑の中にオレンジという明暗、色相の対立するものが描かれていながら、両者は「図と地」の分離が生じていない。

私は何度も繰り返し見た。写真ではなく、実見したいと隔靴掻痒のもどかしさを感じたけれど、もしこの作品が本物なら写真にもその一端が写るはずだと思い直して、写真を繰り返しみた。それだけではなく、他の画家たちの似たような絵を思い浮かべながら比較することで、少しずつ、この作品がどんな風に描かれているのか見えてきた。

白とオレンジが「図形」ではなく「絵」だということは、たんに幾何学的(多角形の)図形を知覚しているのではなく、その知覚に基づいて現れる絵画的イリュージョンを見ていることになる。(以下、黒白の作品を例として論じる)。それは平面的な白い図形ではなく、厚みのある白い「変形キャンバス」の絵なのだ。なぜ、そんなことになるかというと、この白い変形キャンバスの「絵」が描かれている支持体自体が「変形キャンバス」だからだ。黒い変形キャンバスの「支持体」に、白い変形キャンバスの「絵」が描かれているということになる。

絵画は類似による想像力である。黒い変形キャンバスの影響を受け、白い幾何学的図形(模様)の知覚は、白い変形キャンバスのイリュージョン(絵画)になる。しかし、絵画の類推はここで終わらない。今度は逆に、黒い変形キャンバスの支持体が白い変形キャンバスのイリュージョンの影響を受け、自分もまた絵になるのだ。物理的支持体のキャンバスが絵になるためには、その絵を描く支持体が必要だ。それで白い壁がキャンバスになる。キャンバスが三重になっている。白いキャンバスの絵と、もともとの黒い変形キャバスと、その黒いキャンバスが絵になるための白い壁のキャンバスの三つだ。そして、オレンジと緑の作品も同じ三重の構造になっている。

この三重構造を描くのは言葉で説明するほど容易ではない。変形キャンバスの形も、描かれた幾何学図形も、矩形を保ちながら、類似と相違を巧みに組み合わせて、両方の形がキャンバスに見えるように変形している。マレーヴィチの《黒の正方形》と較べてみよう。《黒の正方形》は、白も黒も正方形だ。正方形は特権的な形であり、余白の白が図になることはない。あくまで も正方形の支持体なのだ。もちろん黒の正方形が「地」になれば、黒は白の下に広がるのだが、正方形のキャンバス自体は支持体であり続け、黒い正方形は「知覚」でも「想像」でもなく、宇宙や正義の「象徴」になる。それに対してフランク・ステラのシェイプト・カンバスは、矩形の土台がないので、それ自体が支持体ではなく、オブジェになってしまうので「絵」にはなりにくい。従って、ストライプは支持体の模様であって、イリュージョンではない。レリーフ絵画も平面ではなく立体なので、同じようにオブジェになる。ステラの作品は、平面的な《ブラック・ペインティング》さえイリュージョンを拒否しているのでオブジェになってしまう。川村記念美術館のステラのコレクションを初めてみた時は、看板屋の物置かと思ったぐらいだ。

壁をキャンバスにするのにトリックを使ったのは李禹煥だ。横浜美術館の『余白の芸術』で、大きなキャンバスに刷毛で黒い点を適当な場所に描いてある。余白が重要ならば、キャンバスの縁の線と点との関係も重要だろうと一々確認しながら見て行ったけれど、何の感興も起きなかった。そして最後の部屋に入ると、刷毛で描いた点はあったのだが、キャンバスの縁がない。部屋の真ん中に立って見渡すと、点は壁に直接描かれている。一瞬「ヤラレタ」と思うと同時に感動もした。しかし、その感動はすぐに凋んでしまった。キャンバスの三重構造どころか、変形キャンバスの二重構造さえない。これはキャンバス画ではなく、ただの壁画、あるいは壁にイタズラ書きをしただけだと分かってみれば、何も《余白の芸術》なぞと大袈裟に言うほどのこともない。

しかし、話が出来過ぎではないか。疑問点がいくつかある。一つは冒頭に述べたように、おそらく後に制作したと思われる『NADA Miami Beach』の作品がオプティカル・イリュージョンの作品だということ。それから、個展のタイトルが『記号ではなく、もちろん石でもなく』という「表象文化論」と「もの派」の折衷的なタイトルということだ。こんなわけのわからない哲学的タイトルを付けられたら、作品を見ながら、タイトルの意味を考えてしまうし、反対にタイトルの意味を解釈して作品を理解しようとするだろう。もちろんそうすることが鑑賞の助けになることもあるだろうが、たしかに壁に鉄道標識のようなサーカスのバーベルのような工作が立て掛けてあるのも不思議だ。

五月女哲平はこれまでどちらかと言えば遊びの精神にあふれたイラストを描いていた画家だ。それが「オプ・アート」を描くのは分かるのだが、このような絵画のイリュージョン、平面性、支持体という自己言及的問題に取り組んだのには、未だ半信半疑だ。それとも評者たちが「違和感」と言っていたことは、この事だったのだろうか。五月女哲平からはしばらくは目が離せない。


補遺:「インスタレーション風景」の写真には部分を拡大した写真もあって、黒と白、緑とオレンジの境界線はいろいろな工夫がしてあるし、キャンバスの側面には意図的にだろう、一見下塗りがはみ出しているかのようにピンクや青の絵具が付いている。また、黒がメディウムを混ぜたように厚塗りされている部分もある。これらが、どんな効果があるか写真だけでは分からない。


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2014.12.09[Tue] Post 21:47  CO:0  TB:0  五月女哲平  Top▲

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