ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

村上隆監督の映画『めめめのくらげ』の〈跳んだり撥ねたり走ったり、そして着地〉

画家が監督した映画は大抵は失敗する。これまで私が見た映画で評価できるのはジュリアン・シュナーベルの『潜水服は蝶の夢を見る』ぐらいだろう。池田満寿夫や村上龍などの監督作品も気取りばかり目について(今にして思えば「キャンプ」だったのかもしれない)優れた作品とは言えない。

画家が映画に失敗する理由はいろいろあるだろうが、なかでも、絵画の空間と映画の空間の違いを理解していないことが大きい。絵画は「知覚に基づいた想像」の空間であり、映画(動画)は想像ではなく、錯視あるいは擬似知覚の空間なのだ。この違いを理解するには、絵画はいつもキャンバスの矩形のフレームが知覚されてそこにあるけれど、映画は上映されている時はスクリーンのフレイムに気づかないが、映写機が停止して静止画になると途端に矩形のスクリーンが現れる。

絵画の物理的表面は平面なので両眼視差が生じない。映画も同じようにスクリーンは平面なのだが、カメラや被写体が動いているので、両眼視差のかわりに時間視差(動体視差+カメラの移動による視差)が働く(立体視にはその他いろいろな視覚情報が協働しているけれど)。3D映画は人工的に両眼視差を作って無理矢理余計な三次元空間を押し付けるので観客は吐気を催す。

漫画やアニメの楽しみ方はすでに述べた()。漫画アニメは「跳んだり撥ねたり走ったり、そして着地が楽しいのだ」 これは、私の個人的な楽しみ方なのだが、日本の漫画本来の楽しみ方でもある。そういう意味では宮﨑駿のアニメが面白くないと言ったビートたけしの意見には賛成だ。一番、面白いのは、コマ割りの優れた日本の漫画(ワタリ、ドラゴンボール)、つぎは最近の特撮やCGにアシストされた映画(ジャッキー・チェン、スパイダーマン)、ダメなのが宮崎駿のアニメということになる。

村上隆の『めめめのくらげ』はアニメと実写のハイブリッドだ。アニメは跳んだり撥ねたり着地する。実写は走ったり歩いたりする。「跳んだり撥ねたり走ったり」を見れば『めめめのくらげ』がどの程度評価すべき映画か、およそのところ分かるだろう。

まずアニメだが、「ふれんど」の「跳んだり撥ねたり」はよくない。観客はキャラクターの動きと一体になれないのだ。確認のために『HERO』を見たが、同じようにCGの欠点がまる見えだ。ただ、くらげ坊の着地だけはピタリと決まっていて気持ちが良い。あと、最後の決戦のふれんどの動きはイワシの群れのようでちょっと白ける。

実写の方は、正志がくらげ坊をダンボール箱に入れて神社まで運ぶシーンは、映画における「歩く」ことの意味が分かっていない。カメラも正志の歩き方も全然何をするのかわからなくて、観客の感情移入が起きない。誰も居ないところに行って、二人が知り合って、心が通じ合うためとわかるのはだいぶ経ってからだ。映画のモンタージュや心理描写の基本が分かっていないような気がする。このシーンは一番の見せ所なんだけれど。そういえば正志と咲の間に恋心が芽生える流れも新興宗教やいじめが出てきて、シナリオとしては定形なのだろうが、どうもチグハグの感は免れない。

咲がスク水でプールに飛び込むところは、ぎこちないが、それがかえって初々しく成功している。胸も小さくて会田誠が喜びそうだ。登校途中の田圃道を上半身だけ見せて、右から左へ歩いて行くカットは気に入っているらしく数回出てくるけれど、退屈だ。それと、咲が橋の上を走り、正志が追いかけるシーンは、映画のクライマックスとも言えるのだが、どうもカメラと咲正志の二人の演技が、それともちろん編集も下手なため盛り上がりに欠ける。咲の走り方は悪くはないのだが、ちょっと大袈裟すぎるかもしれない。それからラストシーンで、るくそーに抱かれた正志と咲が顔を近づけたので、てっきり、キスをするぞ、さすが世界の村上やるじゃんと思ったら、途中でやめてしまった。メイキングを見たら村上はかなり細かく演技指導している。なんだろう、あのキスをためらう演技指導は。

村上はアニメを作ることが長年の夢だったという。だから、やりたいことはたくさんあったのだろう。それが分からないではないから、けっこう見ていて、楽しめた。二度借りたのだが、一度目は、最初の神社へ行くところで見るのを止めてしまった。ところが、小松崎拓男田中功起との論争などを知って、それなら、『めめめのくらげ』を最後まで見てみようと思ったのだ。

ニョウボの感想は、『芸術起業論』を読んだ頃は村上は嫌な奴だと思っていた。ヴェルサイユ宮殿の個展以来村上を見なおしていたけれど、この映画を見て、村上のぎこちなさは好感がもてるし、きっと評判とは違って「いい人」に違いないと思うようになったそうだ。村上は美術では職人たちの助けを借りているのだから、映画はなおさら協働が重要だ。映画は監督を含めてかっては職人集団の仕事だった。なかでもシナリオは「原案村上隆」とあるのだから、協力者がいたのだろうが、どうも絵画彫刻のようには協働が上手く行っていないようだ。

書き終わった後、「マイナビニュース」に村上隆のインタビュー記事《「日本はアートに対して無知」 - 映画『めめめのくらげ』》を見つけた。それを読むと、村上氏は随分といろいろなひとに相談したり協力を仰いでいる。『めめめのくらげ』には強い思い入れもあるようだが、私の批評は私の子供のときからの「漫画の見方」によるもので、決して「アートとしてのアニメ」の批評ではない。それにも拘わらず、私の「漫画の見方」は現在でも有効だと思っている。

わたしは『スパイダーマン』が好きだ。スパイダーマンがビルの窓にピタリと「着地」すると、ターザンがジャングルの蔓を伝わって、象の背中に着地するのを思い出す。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

スポンサーサイト
2014.10.29[Wed] Post 01:00  CO:0  TB:0  -村上隆  Top▲

「ウォーホルのキャンプ」と「クーンズのキッチュ」 ジェフリー・ダイチ 

BT4月号の「ポップ・アート特集」とBT10月号の「ジェフ・クーンズ特集」を比べると面白い。編集長の岩渕貞哉は「ポップ・アート特集」は楠見清に任せて、書き手は日本人ばかりだが、「ジェフ・クーンズ特集」の方は、評論インタビューなど英語からの翻訳だ。そのためか、ポップ・アート特集は難解なのに比べて、ジェフ・クーンズ特集は非常に分かりやすい。それまでクーンズは勿論のこと、ウォーホルのポップも本当のところ理解できなかったのだが、この特集号を読んで、日本のポップを巡る現代美術の混乱の理由が分かってきたような気がする。

なかでも、クーンズの友でもありアート・アドバイザーでもあるジェフリー・ダイチのインタビューは説得的だ。楠見清はポップ・アートは見た目より、思想やコンセプトが重要だというのだが、ダイチはそんな表象文化論的な事は言わない。そもそも、クーンズ自身が、「僕の作品をはじめて見た人は、作品の中にアイロニーを見るに違いない……でも、僕にはそんなものは見えない。アイロニーとはとてつもなく批評的な観賞を生むものだ」(jp.wiki 出典不明)と言っている。

ダイチはウォーホルとクーンズに共通するものとして「芸術文化と大衆文化の関係性」をあげている。まず、ウォーホルにはキャンプな表現があるという。キャンプは、珍しいものと大量生産品とを区別せず、複製に対する嫌悪感を超越すると、スーザン・ソンタグは言う。さらに、キャンプが「大衆文化時代のダンディイズム」だというところは、まさに芸術家ウォーホルにピッタリではないか。自動車事故は現代の文化的出来事であり、マリリン・モンローや毛沢東などのスターの選択にも「悪趣味に関する良い趣味」が感じられる。

一方クーンズが取り上げるのは一般家庭にある美的価値の無いキッチュだとダイチは言う。初期においては《空気ビニール玩具》や新品の《電気製品》、《広告ポスター》など、どちらかと言えば、安価なレディ・メイドだった。次第に、ポーセリンの人形や風船動物の飾りなど、同じキッチュだが、素材を変えて大きくて重くて制作費もかかるオブジェを制作するようになる。もはやそれはどこにでもある安価な大量生産品ではなく、重くて大きくて少数生産の高価なオブジェである。それは高価だから、誰でも買うことは出来ないし、一般家庭に飾ることは無理だが、キッチュは相変わらずキッチュのままだ。キッチュを楽しむために、キャンプのような特殊な趣味や態度はいらない。褒め言葉の「クダラナイ」も無用だ。普通の人々が誰でも楽しむことができる「芸術」なのだ。

《Cat on a clothes line》は物干しに吊るされた毛糸の靴下から子猫が首と手を出している。これをあるアメリカの評論家()が「攻撃的なほど男根主義的でもあり、無垢でもある」(at once aggressively phallic and innocent)と日本人の好きそうな表象文化論的なことを言っているけれど、大袈裟な、なんにでも性的な隠喩を読み込むのは表象文化論の悪癖だ。一般家庭の普通の人々に聞いてみれば、アメリカ人でも日本人でもみんな「可愛い!」と言うだろう。ためしに、本屋のペットコーナーで猫の写真集を覗いてみれば、同じような可愛い猫であふれている。

会田誠は「キャンプ・タイプ」で、村上隆は「キッチュ・タイプ」と言えるのではないか。どちらもまだウォーホルやクーンズには遠くおよばないけれど。




スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2014.10.23[Thu] Post 13:46  CO:0  TB:0  ジェフ・クーンズ  Top▲

田中功起の《コレクティブ・アクト》はグループ・セラピーか

田中功起のヴェネチア・ビエンナーレの映像インスタレーション「抽象的に話すこと - 不確かなものの共有コレクティブ・アクト」の第一部は、複数が協働して一つの芸術的創作を行うのだが、これは「バラエティ番組」の「パクリ」だということはすでに述べた。「パクリ」というのは、一種のアプロプリエ―ションの手法のことで、村上隆が「おたく」のパクリなら、田中功起は「バラエティ」のパクリになるということで、とくに否定的な言辞ではない。(*) ただ、村上の場合は形があるので目立つけれど、田中の場合は方法なので目立たないという違いがある。

映像インスタレーションの第二部は、「まだ固まりきらないアイデアに基づいて誰かと何かを行い、それを写真やテキストにとどめたものだった。非常食を食べながら自分の名前について話す、懐中電灯を持って大勢で夜の街を歩くなど、田中が《集団的行為 collective acts》と呼ぶ、まだ行方の定まらない種々の実験である。」(プレス・リリース) 第一部のプロジェクトは「社会心理学的実験」だったが、第二部も「実験」であり、ともにシミュレーションだということでは共通している。この集団的行為の実験を東京駅で大勢のサラリーマンが階段を降りてくるのを見て思いついたと田中は言う。これも、ビニール傘が風で飛ばされるのやオレンジが階段を転げ落ちるのと同じようにちょっと面白い情景だ。

しかし、この集団的行為には第一部の芸術的な共同作業と違って、何かを創作するという目的はない。懐中電灯を持って集団で歩けば、他の人は何事かと訝しむだろうし、懐中電灯がペンライトのかわりになっているところはバラエティ的だけれど、まさにそこで集団における個体同士の原初的なコミュニケーションが生まれる。食事や睡眠など人間の基本的な欲望も関わってくるのだから、言葉以前のコミュニケーションも生じる。引き合うだけではなく、反撥もあるだろう。そして、最後は言葉の交換になる。

この集団行為の実験には社会性の萌芽はあるけれど社会批判はない。集団的行動をとおして個人としての自己を知ること、コミュニケーションよりアイデンティティを求めることが重要になる。そうだとすれば、「非常食を食べながら自分の名前について話す」というのは、「グループ・セラピー」そのままだ。カウンセラーもいない、悩みを告白するわけでもない。しかし「名前」は、他人と自分を識別する目印なのだ。

「宗教との結びつきを欠いた芸術は自己を見失い、娯楽や心の治療法のごときものとなり、そうした堕落から芸術を救出するには至らなかった」と藤枝晃雄は言う。

芸術は治療法として作用するという指摘は、ロバート・ヒューズのポストモダンへの批判の中で繰り返される。 ~(中略)~ 治療法としての芸術、それは芸術に投資する成り上がり者、それに群がる画商や美術ブローカー、芸術に憧れる文化人、感性的なものとは無縁な美術評論家、学芸員、美術史家、そして芸術家自身を一時的に癒やすものである。(『現代芸術の彼岸』7P.藤枝)


「現代美術」は美術業界の集団セラピーと言える。美術に癒やしを求めたのはポストモダンの芸術家が最初ではない。芸術による自己救済はモダニストの画家と成り上がり者のコレクターが始まりだ。しかし、画家とコレクターの関係は、例えば、マチスとシチューキンのように、作品を媒介にした関係だった。ところが、作品を作らないコンセプチャル・アートが生まれた。買うものがなくなったコレクターは作品を買う代わりにアーティストを援助するパトロンになった。あるいは話は逆かもしれない。パトロンは、「芸術に投資する成り上がり者」などと批判されることもなく、芸術に関わることが出来る。村上隆と田中功起の対立の背後にはこのコレクターとパトロンの対立が隠されている。

田中功起が受賞したドイツ銀行の《Künstler des Jahres》2015は賞金は出さない、そのかわり若い芸術家を育てるためにベルリンの「芸術会館」での個展のチャンスを与えると、さすがに芸術の保護者らしいことを言っている。

「治療法としての芸術」といえば、誰よりも会田誠のことだろう。彼の全作品は、《河口湖曼荼羅》から《灰色の山》まで、自己救済のためと言っても過言ではない。このことは多くの人が美学的視点から論じているので、私の出る幕ではない。しかし、もっと通俗的な「癒やし系」と言われる視点から述べておきたいことがあるけれど、それはまた別の機会にしたい。






スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2014.10.20[Mon] Post 00:41  CO:0  TB:0  田中功起  Top▲

村上隆の《おたく》 と 田中功起の《バラエティ》 : 「芸術における協働の問題」(改題)

奈良美智の「制作風景」のビデオ(注1)には「制作学(術)」の真髄がある。

奈良は絵師と彫師と摺師を一人でやってのける。たとえば、彼はいろいろな方法で線を描く。筆を長く持って、腕を伸ばして描いた少女の顔の輪郭線を、内側と外側から刷毛の角を使って整える。はみでた絵具をティッシュで拭き取ることもある。この方法は彫師が一本の線を彫るために、両側から二本の輪郭線を彫る方法と似ている。絵師が大雑把に描いた櫛の目や髪の毛を彫師が一本ずつ細密に彫っている。

奈良は摺師の技法も使う。薄いアクリル絵具を下の色も見えるように重ね塗りしたり、アクリル絵具をティッシュや刷毛で伸ばしたり、擦ったりする。奈良は「これは化粧です」と言っているのだが、摺師の「重ね摺り」や「ぼかし摺り」の技術に通じる。浮世絵師たちが分担してやっていることを奈良は一人でやっているわけだ。

いまここで問題にしたいのは、田中功起がインタビューで提起した「芸術に於ける協働の問題」である。技師の仕事と違って「芸術家の仕事は個人的なものだ。ーたとえば絵を描くことー それは役割分担という考えには馴染まない。芸術家の仕事は有機的なもので、もし、参加者が一緒になにかを創造したいと思うなら、民主的に協働しなければならない。」と、田中は言う。芸術家の仕事は有機的なものだと言えば確かにそうだろう。しかし、その有機的な芸術が民主的な協働で上手くいくかどうかは疑問だ。

協働がうまくいっている例を考えてみよう。上で挙げた「浮世絵木版画」の例では、コミュニケーションや段取りが必要だが、民主的に協働しているわけではない。版元が一番力をもっているけれど、絵師彫師摺師は人気や技量によって力関係は変わるだろう。もっと分かりやすい例は村上隆の工房システムだ。彼は最初は芸術家の自由を尊重して工房を梁山泊にしよとして失敗した。そして今のような詰め込み型のスタッフ方式に変えたという(『創造力なき日本』村上隆著)。もちろん村上が統括して、タイムテーブルにしたがって、反省し、話し合い、次の作業のための指示書をだしている。

「浮世絵」(北斎漫画は例外)や「村上工房の作品」に共通していることは、ともに工芸品の性格を強く持っていることだ。田中のプロジェクトの三つの中で陶芸が一番工芸的である。工芸の職人的な技は段取りさえ決めておけば協働は易しい。反対に芸術性や独創性が高いものは協働になじまない。たとえば、ポロックの《ポード絵画》は、一見して、協働が上手くいきそうだが、四五人で描いたら決して優れた作品にはならない。ポロックは簡単そうに見えて誰にも真似ができない。それに対して、白髪一雄の足で描いた抽象画は段取りさえ決めておけば、優れた作品は無理にしても、白髪よりマシな抽象画が出来上がる可能性はある。何故か、それはポロックはアクション・ペインティングではないが、白髪は文字通りのアクション・ペインティングだからだ。

田中功起は自分のプロジェクトが失敗したり成功したりすると言っているが、何をもって成功といい、何をもって失敗というのだろうか。そもそも、浮世絵版画も村上工房も作品を作るための協働だ。それなら田中功起のプロジェクトの作品とは何か。ことさらに作品をプレゼントし、評価することもないところをみれば、重要なのはサントラでも陶器でもヘアスタイルでもないようだ。とすれば、インスタレーションで上映している《ビデオ》が作品ということになる。プロジェクトは本来一人でやることを複数の参加者で行い、協働が上手くいくかどうか観察し、それまで気づかなかったことを明るみにするのがプロジェクトの主旨なのだから、その過程を記録したビデオが作品になるのは当然だとして、もしプロセスが重要だというなら、田中功起自身が言っているように、失敗は失敗ではなくなる。ところが、皮肉なことに、この「失敗は失敗ではなくなる」というプロジェクトの便利な性格が、このプロジェクト全体を失敗に導くのだ。

まず、ビデオを見てみよう。最初の印象は「既視感」だった。出来の悪い「NHKのドキュメンタリー番組」に見えた。次に思い出したのは「パラエティ番組」だ。こんな変なことをやらせて笑いをとる番組が沢山あった。なかでも松本人志が優れていた。彼のひねりは一回ではなく、二回だった。お笑い番組だから、ワザと失敗したり、反対のことをしたりして、笑いをとる。私も実は、バリカンで刈らないか、ピアノを足で弾かないか、粘土の器に穴をあけないか、密かに期待したけれど、何も起きなかった。つまらない。しかし、我慢して見ていると、何か変なのだ。陶工のプロジェクトの最後で、一人の陶工がこれ以上、協働は続けられないと言って、その理由を述べ始めるのだが、取ってつけたようで、ワザとらしい。

早送りで他のプロジェクトのビデオも見たけれど、やはり態とらしいところがある。「やらせ」に見えるけれど、これはヤラセではない。初めての参加者はこの多人数で一つのことを同時にやるというプロジェクト興味を示し参加できることを喜んだという。それで、参加者はアーティスト田中功起の意図を汲んで自分から積極的に協力したのではないか。それでは慣れ合いになって、思いもかけないことなど起こりようがない。ただ、白けるばかりだ。

勿論これはお笑い番組としては失敗だが、コンセプチャル・アートとしては失敗ではないと言うだろう。失敗にはベタな失敗とメタな失敗がある。連帯協働には相手の意図を忖度して協力することが重要だ。忖度しすぎて失敗することもあるからコミュニケーションが大切だなどと、言おうと思えば言えるわけだけれど、グループ作業に参加した者同士ではなく、いわば被験者が被験者同士のコミュニケーションではなく、実験者とのコミュニケーションを優先した結果、「擬似的ヤラセ」が生じてしまったのだ。もちろここでは皆をまとめるための言わずもがなの提案も「ヤラセ」に含まれる。社会心理学的実験では常に起こりうる失敗だから、そのための方策はいろいろあるのだろうが、詳しくは知らない。ひとつには報奨の問題がある。みんなで協力してそれなりの作品を作るよりも、自分だけ実験者に喜んでもらえる方が満足度が高いのだ。

実験が終われば、参加者に面接をしたり、ビエンナーレの前後には会議をするのだろうが、しかし、ああ言えばこう言うのは会議であって、作品制作の協働ではない。制作学の視点から奈良美智の「制作風景」のビデオと田中功起の「プロジェクト」の記録ビデオを見れば、面白いのは言うまでもなく奈良のビデオだ。ちょうど、ニョウボが油絵具からアクリル絵具にかえて使い方が分からなくて困っているときに見た。奈良は惜しげも無くアクリルの使い方の秘密を見せている。アクリル絵画の入門書が沢山あるけれど、本当に役立つのはこの奈良美智のビデオだろう。一人で描く奈良の絵画と複数人で分担する浮世絵の線の違いが面白い。

以上で一旦終わるが、私は田中功起を否定しているわけではない。この問題はもともと田中功起のヴェネチア・ビエンナーレ2013年のいわゆる受賞に、村上隆などの「Tokyo Pop」の時代は終わってこれからは田中功起の「ライト・コンセプチャル・アート」の時代だという小松崎拓男のコメントから始まっている。確かに村上と田中は対照的な二人である。片方は絵画彫刻の作品があり、もう片方は作品といえるのはビデオだけである。しかし、両者はサブカルチャーという視点から見れば、村上隆は漫画アニメおたくの影響を受けているし、田中功起は日本のバラエティの手法を使っており、ともにジャポニズムなのだ。

村上隆も田中功起もともに欧米への売り込みに長けている。その意味では二人とも「スーパージャポニズム」といえるのだが、田中功起の戦略は明らかに「バラエティ番組」の「フォーマット販売」の手法を使っている。このことはいずれ詳しく分析するつもりだが、ともかく田中功起の「日常的なものと政治的的なものの間に橋を架ける」という来年のベルリンでの個展が俄然楽しみになってきた。

注1:『奈良美智の線』 http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-914.html / 『奈良美智とビール』 http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-916.html
2014.10.09[Thu] Post 23:55  CO:0  TB:0  奈良美智  Top▲

ドイツ銀行の『Artist of the Year』受賞後の田中功起のインタビュー

 『art』 Das Kunstmagazin 7/8/2014の記事からの拙訳



  《われわれ自身をちょと振り返って見よう》


田中功起はビデオ・アート制作のために、美容師や陶工、ピアニストに協力してもらった。彼はなぜチームワークが自分の作品の大きなテーマなのか、『art』誌のために話してくれた。
                  [インタビュアー:Sophie Jung]

田中功起のビデオ作品は皆で同時に同じ仕事をする人たちを記録している。彼等は一緒に一台のピアノを弾き、九人の美容師が一人のモデルために新しいヘアスタイルを考えだす。田中のインスタレーションやパフォーマンスは常に社会性をめぐって展開される。

【質問】 あなたの作品は集団行動の困難や矛盾を明るみにします。なぜ、あなたはこれ等の社会的要因に関わる問題に取り組むのですか。

【田中】 美容師やピアニストだけではなく、陶工や詩人にも協力してもらいました。すべてのプロジェクトは連続するシリーズの一部です。どれもコラボレーションのプロセスの問題です。ということは、参加者が結果の分からない状況の中でいかに協力し合うかをめぐる問題なのです。参加者が一時的に集まったグループなら、最初は、コラボレーションを楽しみに喜んで参加します。しかし、参加者はそれぞれ異なる社会背景を持っているし、自分の職業に関して異なるイメージ、すなわち、芸術とは何か、芸術はいかに実行されるかに関して異なるイメージを持っている。そういうわけで、参加者は予想もしなかった芸術上の問題に突き当たるのです。彼等はヘアカットや焼物作りや音楽、詩作についてどう考えているか自分の考えを述べることが求められます。ビデオ撮影を始めるとき、いつも、彼等がお互いに議論できるような自己反省的な課題を与えておく。たとえば『ピアノービデオ』のプロジェクトでは、“sound track for collective engagement”(集団参加のためのサントラ)というテーマです。それは結局は自分たちが直面した状況と同じものなのです。みんなで一台のピアノで一つの曲を演奏するというテーマです。陶工のグループはプロを集めました。彼等はもっとも激しく衝突したグループでした。コラボレーションをしているときに、陶工の一人がこれ以上続けることを拒絶した。そして彼は何故一緒にやれないか話し始めた。失敗はある意味で、常に何らかの真実を発見してくれる、このプロジェクトの一部です。一面では美しく、他面では醜いのです。

【質問】 陶工、美容師、ピアニスト、詩人、あなたはプロジェクトのために創造的な仕事をしている人たちを集めます。なぜ、別の職業を選ばないのか。たとえば、協働して橋を作っている技師たちなど。

【田中】 技師の仕事は部門で分けられるのが特徴です。たとえば、技術的な観点からです。その作業過程にはヒエラルキーの組織が必要になります。これはコラボレーションという意味での共同作業ではありません。それに対して、芸術家の仕事は個人的なものです。ーたとえば絵を描くことー それは役割分担という考えには馴染みません。芸術家の仕事は有機的なものだ。もし、参加者が一緒になにかを創造したいと思うなら、民主的に協働しなければなりません。 芸術家の制作と言うのはコラボレーション作業の大変良い例です。しかし、非常に極端な例でもある。なぜなら、芸術家は本来一人で作業するものだからです。わたしのプロジェクトの参加者は、自分たちにとってコラボレーションとは何か真剣に熟考しなければならない状況に陥ります。この意味で極端な状況というのは私達の社会の反映でもあるのだ。この私のプロジェクトのために集まってもらった一時的な共同体を通してわれわれ自身の社会を振り返ってみることができるのではないか。(このあたりの正確な意味不明:訳者)

【質問】 あなたは、自身の芸術について、自分の仕事は日々の決断と格闘することだと言っている。その例としてまったく単純な物事を挙げている。朝食はバターピーナッツにするか、トーストにするかなどです。ありきたりで個人的なさしあたってのことがあなたの仕事に中心なのですか。

【田中】 個人的な決断はしばしば政治的な決断でもあるのです。最近、ロンドンのICA(現代芸術研究所)のためにあるプロジェクトを行いました。それは、2011年のロンドン暴動が勃発した地区の住民に関するプロジェクトです。なんらかの形で反乱に参加した人たちに、騒擾が起きた日に通った帰宅路をもう一度辿ってもらうという遣り方で、その日を再現してもらい、それをビデオに撮り、後で彼等にインタビューをした。彼等にはその道を選んだ非常に個人的で特別な理由があった。ある者はあの晩女友達と家に帰るところだった。彼女は何としても騒動に参加し、道沿いの商店の略奪に参加して、彼のためにT-シャツを盗もうとした。彼は何度も暴動に入り込むのは止めてくれと頼んだ。

再現することで、彼の当時の記憶が甦った。暴動は政治的な出来事だが、また、まったくの個人的な経験でもあった。日常的な事柄を話すことから始めれば、あとになって予期しなかったことが明らかになる。

【質問】 2013年のベネチア・ビエンナーレの日本館のインスタレーションはあなたが中心に行った。そこで、2011年のフクシマの核災害と比較することで、集団行動における矛盾を芸術家として分析して見せてくれました。しかし、あなたのビデオ作品はすでに部分的にはそれ以前に作られていました。イヤミに聞こえるかもしれませんが、これはただ偶然がうまく働いたということですか?

【田中】 私はすでに2010年に『九人の美容師による(二度目)ヘアカット』のプロジェクトを行っています。しかし、地震と津波と、最後に核災害が起きた後、この仕事に対する私の見方が突然変わってしまいました。『ヘアカット』ビデオとフクシマ後の日本の社会のあいだに小さな結びつきがあることを知ったのです。そういったカタストロフィは、たとえ望ましいことではないにしろ、連帯と助け合いのユートピア的瞬間を生み出すものです。日本だけではありません。: 『災害ユートピア なぜ、そのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(レベッカ・ソルニット著)という本があります。そういうわけでこの本を読んだのですが、これは米国の自然災害の多くの事例を扱っている。サンフランシスコ地震やニューオーリンズのカトリーナ・ハリケーンなどです。ソルニットは、このような災害の後いつも短期的な共同体が形成され、人々は連帯する。日本でもそうだった。 日本館のキュレーター蔵屋美香にヴェネツィアでフクシマの災害をテーマにする気はないかと問われたので、『ヘアカット』ビデオを日本館のプロジェクト全体の冒頭に持ってくることで、日本館のプロジェクトはやっとのことで、災害後の社会の現状と将来に向けた可能性と取り組むプロジェクトになった。

【質問】 福島カタストロフィ以来、個人的なあるいは芸術家としての態度に変化はありますか?

【田中】 そうですね、われわれの世代の日本の芸術家は、以前はいつも非政治的と言われてきました。芸術家は日常的なことに専念して、日本の政治的社会的状況とは関わり合おうとはしなかった。それには理由がある、この世代は90年台の不景気の時代に現れた世代です。不景気はすでに20年継続しています。我々の世代は日本が経済的に強国だと感じたことはありません。ヨーロッパにくると、いつもユーロやポンドが強いと感じました。もうお金はありません。何ももっていません。というわけで、わたしたちは将来もなく現在と身の回りの細事もかかずらっているのです。わたしが美大の学生だった時皆そう感じていました。ところが福島のカタストロフィは我々を目覚めさせたのです。我々の世代だけではなく、日本人みんなが目覚めたのです。

【質問】 ヴェネチア・ビエンナーレで上映されたビデオはネットで見ることができます。だれでも見ることが出来ます。これは空間的だけではなく、ネットでお互いに結びあった一種の共同体なのでしょうか。

【田中】 ヴェネチアは特別なのです。日本館のプロジェクトは日本とある意味で密接な関係にあります。プロジェクトは日本から始まって、日本を扱っています。ところがイタリアは遠い国です。それで、日本館のすべてのビデオと情報をネットにアップロードして、開会前にはTwitterでも自由にしました。わたしはただ日本の皆にビエンナーレに興味を持って欲しかったのです。そもそも、一般的な日本の観客に私の仕事を身近に感じて欲しかったのです。同時にギャラリーでも販売したけれど、ビデオをアップしたことでこの目的は達せられました。私はフランス・アリスの大ファンです。彼もまた自分のビデオ作品をインターネット上で公開している。彼の仕事は公開するために行われる。だから公開する。そういうのが好きだ。

【質問】 ドイツ銀行の“Artist of the Year”に選ばれました。ドイツ銀行のアートホール(ベルリン)で、来年ヨーロッパの公的機関での最初の個展が開催される。どんな展示をするつもりですか?

【田中】 私の芸術家としての実践は多岐にわたる。まだ、正確には分からないが、古い仕事を新しい仕事に結び付けたい。今は社会的なテーマと政治的なテーマを芸術的実践に取り入れている。以前は、日常的なものとそのオブジェにより集中してきた。日常的なものと社会政治的なものとの間に橋を掛けることが私にとっての挑戦だ。来年の展覧会は、回顧から私の総体的な芸術的実践の肖像画のようなもの作成するための絶好の機会になると思っている。展覧会はテーマごとの地図のようなものになるだろう。展覧会がどんなものになるか今から私自身がワクワクしている。

以上

このインタビューを読むと田中功起と村上隆の対立点がよくわかる。いくつかのポイントを指摘しておく。

①村上隆が欧米の文脈というが、田中功起も欧米の文脈に見事に乗っていることが分かる。

②このインタビューで一番のポイントは田中功起がフクシマのことを問われて、『災害ユートピア なぜ、そのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(レベッカ・ソルニット著)を持ちだしたことである。これは「トンデモ本」ではないかとすぐにピンと来た。Amazon.comの星1つと星5つを幾つか読んだ。どちらもおもったとおりだ。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』だ。朝日新聞の書評欄に柄谷行人の書評がある。唖然とする。独断というより昔のサヨクそのままの臆見で、今ではむしろ珍説の部類だ。

③エンジニアとアーティストに於けるコラボレーションの違いについての説明が不明瞭だ。村上隆の工房方式の開発と田中功起の企画会議を比較すれば、手で作る作品の有無が重要。田中さんのプロジェクトの成果はなにか。失敗にも意味があるというのはおかしくないか。コンセプチャル・アートだからか。芸術に於けるコラボレーションの問題は村上隆に聞いたほうがよくないか。

④コンセプチャル・アートというより、社会心理学的実験ではないのか。パブロフの犬の実験はコミュニケーションの問題でもある。なぜ、フクシマの事実を隠そうとするのか。朝日は嘘をついてまで、「フクシマの50人」を否定しようとした。連帯や助け合いには程遠い反核運動。広島や長崎では泥水を飲んで頑張ったと被爆二世の山下長崎大教授は言った。そして、サヨクたちは官邸前デモこそSNS連帯だと言い張った。

⑤日常的なものと社会政治的なもののあいだに橋をかけるという田中氏の新しいプロジェクトは、それ自体随分と古い六十年代の政治的テーマだ。当時は実存主義かマルクス主義かの問題で、サルトルの“engagement”の思想が喧伝されていた。しかし、アンガジェしないこともアンガジェだと、なにやら訳の分からないコトを言っていた。

⑥田中さんは政治的なものの中に日常的なもの見つけるという手法をとるのだろうか。それとも日常的なものの中に政治的なものを見つけるのだろうか。両方とも日本共産党が愛用している手法だ。どちらにしろ、パトロン達に喜んでもらわなければならない。そのためにはたぶん少し左に舵をきることになるのだろう。

これ以上ごちゃごちゃ言っても仕方ない。このインタビュー記事を読めば田中功起は自分の役割を心得ているスマートな芸術家であることが分かる。ベルリンの個展に期待しよう。



スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2014.10.03[Fri] Post 22:59  CO:0  TB:0  田中功起  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。