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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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《スーパージャポニズム》について : 黒田清輝と村上隆の《智・感・情》

「戦略としてのジャポニズム」を「スーパージャポニズム」と呼ぶ。

もともと「浮世絵」は海外向けの美術ではなかった。パリ万博に出展するために送った陶器の梱包材に使った浮世絵が、当時フランスで勃興期にあった印象派に影響を与えたのだという。ジャポニズムは浮世絵だけではなく、陶器織物工芸品などの日本趣味のことだ。

それに対して、最初から西欧に認めてもらうための戦術としての《ジャポニスム》が《スーパージャポニズム》であり、その始めての作品が黒田清輝の《智・感・情》だ。黒田は1900年のパリ万博に《湖畔》と《智・感・情》を出品して、《智・感・情》が銀賞を獲得した。ヌードはヨーロッパの水準に達し、エロティスムは抑えられている。百年前に美少女フィキュアの体型を先取りしているのは、黒田のジャポニズムにたいする鋭い感覚にちがいないが、それだけなら折衷主義で済まされる。しかし、さらに黒田は奇妙な仕草と表情をモデルに付け加えている。左右の二人の暗い表情はヌード画にはふさわしいとは思えないし、髪は美人画とは異なり、エロティックな生え際を見せていない。とくに《情》は洗い髪なのか、日本女性の黒髪の魅力はない。《湖畔》が湯上がりの「色香」があるだけに、なおさら、黒田の日本女性のヌード表現に対する並々ならぬ決意が感じられる。

この絵が「第4回内国勧業博覧会」に出品されたとき、画題やポーズが不可解だと批判されたけれど、同じようにフランス人にも違和感を与えるだろうことは黒田清輝が予想しなかったはずはない。これは推測だが、フランスの審査員は、その違和感をジャポニスムと受けとって、銀賞を授与したのではないか。黒田の「スーパージャポニズム」戦略の勝利だったのだ。

黒田の戦略が如何に大胆なものだったか、「黒田清輝へのオマージュ」だという村上隆の《智・感・情》を見れば分かる。一番暗鬱な印象を与えるのは、《智》と《情》の暗い顔と、幽霊のような《情》の髪で、そのためポーズが余計に不可解に見える。その印象を拭うために、目を大きくして、陰になっている顔を明るくし、髪に動きを与え、隠れていた乳首が見えるようにした。見事に美少女キャラに変身している。

しかし、黒田は「ドメスティック」な作家である。パリ万博の銀賞を勲章に日本でのキャリアをつむために、《湖畔》の外光派アカデミズムの道を歩むことになる。

スーパージャポニズムで最初にフランスで成功したのは藤田嗣治である。乳白色の肌、面相筆の墨の線、猫、子供、オカッパに丸いメガネなどはよく知られているけれど、彼の本当のスーパージャポニズムは《アッツ島玉砕》にある。戦争画だ、いや、反戦画だとかしましいが、あれは見た通りの「玉砕」の絵だ。藤田のスーパージャポニズムは戦略ではない。国立近代美術館の『藤田嗣治展』で上映された藤田嗣治監督の映画『風俗日本 子ども篇』〈姉と弟〉で描かれていた日本人の心のふるさと、大袈裟に言えばやまとごころが藤田のスーパージャポニズムであり、その意味では黒田清輝と藤田嗣治のスーパージャポニズムは、かたや「戦略」、かたや「心」、まったく正反対のものだといえる。藤田は日本人として《戦争画》を描き、フランス人として《宗教画》を描く。どちらもやまとごころのスーパージャポニズムだ。

現代のスーパージャポニズムはサブカルチャーを武器にする。原ジャポニスムの浮世絵もサブカルチャーだった。村上隆はスーパーフラットの旗の下、漫画アニメおたくぬりえを糾合して、世界の美術界に打って出た。完全に戦略的なものである。村上はおたくを搾取していると繰り返し非難されている。しかし、村上隆はおたくの凄さを褒め称えながら、独自の工房方式を開発し、人材を集め、地場産業と協力して、サブカルチャーを磨き上げて、ハイカルチャーに仕立てあげた。村上はコレクターが満足する高品質の作品を作ると言っているのだから、スーパーフラットはまだまだ進化するはずだ。スーパージャポニズムからシノワズリー、そしてオリエンタリズムに広がっていく。もはや、おたくもクール・ジャパンも村上の眼中にはない。勝負はこれからだ。

スーパージャポニズムについて書きながら、まてよ、ヒョットしたら田中功起もスーパージャポニズムの仲間ではないかというアイディアが頭をよぎった。田中功起は村上隆のように絵画や彫刻のような物質的な作品は作らない。小松崎拓男の言葉を借りれば、「ライト・コンセプチャル・アート」ということになる。この「ライト」なところが日本的な美的感覚にマッチしているのではないか。そういえば、近頃の美術評論家はしきりに「軽やかに」という言葉を使う。「軽やかな」ではなく「軽やかに」の副詞であるところがミソだ。
蔵屋美香はそこに着目して、田中功起をヴェネチア・ビエンナーレの相棒に選んだのだろう。それだけではない。協働の問題も世界が賞賛したフクシマでの日本人の行動に繋がるものだった。また最近では毎日日本国憲法を読むというプロジェクトを実行している。これも日本的な九条を含む日本国憲法を毎日読むことは、日常と社会政治の間に橋を架けたいという田中のプロジェクトの一部なのだ。研究するのではなく、議論するのでもなく、毎日、日本国憲法を読むことで、読書百遍意自ずから通ずの「ソフト・ジャポニズム」のカタチがあるのではないか。田中功起は一方では「個人的な行為」と言いながら、他方では反戦平和主義のメッセージも出しているようなので、さっそくリベラルたちが蝟集している。

作品をもたないコンセプチャリズムがジャポニズムであることに異論はない。玉砕だって性文化だって立派なジャポニスムだ。現代の情報化社会では、思想やコンセプトが商品になる。それだけ持て囃されれば市場も生まれる。絵画が市場で取引されるようになったのは、随分と後のことで、それ以前はパトロンが芸術家を保護した。現代でも作品を持たない美術家を保護するのはコレクターではなく、国家や企業というパトロンだ。

村上隆と田中功起の「タダ飯論争」の背後には、コレクターとパトロンの対立があったのだ。その対立は売買出来る「絵画彫刻」と出来ない「思想・コンセプト」の対立でもある。どちらにしても、両者ともに「絵画忘却」というポスト・モダンの病に侵されている。








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2014.09.28[Sun] Post 02:01  CO:0  TB:0  スパジャポ  Top▲

制作学から見た四人の画家たち : 《村上隆 田中功起 奈良美智 会田誠》

ヴェネチア・ビエンナーレ2013年に田中功起が代表の日本館が受賞したことで、小松崎拓男が、村上隆奈良美智会田誠の三人の「Tokyo Pop」の時代が終わって、田中功起の「ライト・コンセプチャル・アート」の時代が始まったと言ったことで、四人のあいだで論争が始まった。論争の仔細はブログ記事に任せるとして、評論家の小松崎さんを除いた四人の美術家を制作学の視点から見てみる。

【奈良美智】
一言で言えば、「奈良美智は浮世絵の絵師と彫師と摺師を一人でやってのける」ということにつきる。奈良氏の制作風景()で一番印象に残っているのは、イーゼルではなく、白い壁に掛けた製作途中のキャンバスを異様に離れてチェックするところ、それから、テーブルの上に水平に載せて刷毛で作業するところだ。線はペンの線、筆を長く持って手を伸ばした線、色面の縁としての線、絵具を拭きとった後の線など、いろいろな線を使って、偶然を巧みに主題の中に取り込んでいる。佐藤順子は「今、日本で一番、線が描ける画家」だという。

【村上隆】
最近、奇妙なツィートを見た。なんでも村上隆はフィギュアが専門と思われているが、本領は絵画にあるというのだ。しかし、彼の制作方法は工房方式(ファクトリー方式)であり、それによって作られるのは工芸品なのだ。《Flower》シリーズもコンピュータで下絵を作り、シルクスクリーンでキャンバスに拡大し、アクリル絵具を塗り重ね、研磨して箔を貼って詰めのペイントして、仕上げのバーニッシュと、まるで漆塗りの工芸品だ。
分業だからそれぞれの分担がある。しかし、絵師彫師摺師の仕事を一人でやる奈良美智とは逆に村上隆は個々のプロセスには直接手を下さず、全体を差配する大工の棟梁のような役回りする。北斎が彫師に目や鼻の線に注文を付けている手紙が残っているけれど、村上隆も細かいところをチェックして指示書を出している。
地場産業に発注することもある。反対に企業から注文を受けることもある。そうなればコミュニケーションが重要になるし、ベースになる線や色も生まれてくる。ヴェルサイユ宮殿の個展が成功したのは、村上隆のフィギュアの線と色がバロックのインテリアの楕円と白と金色などの色彩に調和したからだ。特に線は工芸品であることによって、仏蘭西の職人と日本の職人の美意識が共鳴したとも言える。たぶん、奈良美智の線はヴェルサイユ宮殿とは調和しないだろう。
(『AKA:悪夢のどりかむ 公開制作』というのがあったけれど、これはKaikaikikiのメンバーの公開制作なので、別に考える。)

【会田誠】
『公開制作もうイヤだ!』の中で、自分は「鶴の恩返し」タイプの画家だから、公開制作は肌に合わないと言っている。それでもドキュメンタリー・フィルム『駄作の中にだけ俺がいる』の予告編で、《灰色の山》の制作風景が見られる。死んだふりをしたモデルを写真に撮って、それをもとに下絵を描くという極オーソドックスな手法である。会田誠は、山口晃はスラスラと人物を描くが自分は写真や資料を見ないとそうはいかないと言っている。漫画の入門書などを見ると、体の各部分の比や中心線をまず決めてから輪郭線を描くのが標準的な漫画の描き方らしい。(おたくなどは顔の部品から順に描いていくようだ)
たしかに、会田誠はさまざまな線を使い分ける「天才」だ。日本画、イラスト、ヘタウマ、漫画などの線。中学生になったときから絵画教室に通い始めたというのだから、そのころから絵が好きだったし、絵が上手だと周りからも認められていたのだろう。佐藤順子が、会田の《ポスター》シリーズを見て、「会田は絵が上手い。ワザと下手に描いたのではなく、そのまま描けば子供の絵になる。子供の時から絵が進歩していない」と言ったことは前にも書いた。
ところが、会田誠には「自分の線」がない。そのことを会田自身が自覚したのは十八歳の時だという。同じ時に自分の写実的な描写力が抜きん出て優れていることも知る。そしてその技術習得の動機は自家製自家用ポルノ制作というピュアなものだったという。この「自分の線が描けないこと」と「絵の原点が自家製自家用ポルノだったこと」の二つが会田誠の美術家としての人生について回ることになる。
会田さんはポップ・アート宣言をして、「全国ダンボール行脚」を続けている。佐藤順子は「会田誠はもうダメよ、未練がましい」というのだけれど、わたしはまだ諦めきれない。いつか酒を止めて、自分の線を見つけると信じている。近頃、酒の武勇伝も聞こえてこないし。

【田中功起】
コンセプチャル・アートは手で作品を作るわけではないので、上の三人のように制作学的視点からの分析は難しい。社会心理学的実験の方法論なら有効かもしれない。ここでは田中功起の分析は省略する。ちなみに田中功起はドイツ銀行の「Artist of the Year」の受賞後のインタビューで、来年(?)のベルリンでの個展では日常的なものと社会政治的なものとの架け橋になるものやりたいと答えている。

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2014.09.24[Wed] Post 12:27  CO:0  TB:0  制作学  Top▲

佐藤順子の伝記作者の憂鬱② 《永井荷風と高階秀爾の北斎》 

今朝、目を覚ますとまだ薄暗かった。Kindleで永井荷風の『江戸芸術論』の『泰西人の見たる葛飾北斎』のところを読んだ。Kindleは明かりを付けなくても読めるのが重宝だ。ニョウボが目を覚ますとその日一日中文句を言われる。眠られないままその章の終わりまで読んだ。最後のところで、荷風は「北斎は近世東西美術の連鎖だ」といっている。オランダの山水画の影響で成立した北斎の芸術は西欧の印象派に影響を与えた。そして、その印象派が明治維新で日本に洋画としてやってきたとき、北斎の本国で北斎のことは忘れられていたと言うのだ。荷風は鑑賞家コレクターのことを言っているのだが、画家もおなじことで、かねがね日本の近代美術は日本画も洋画も北斎を無視することから始まっているという私の主張と重なる。

今、ニョウボの佐藤順子は北斎の春画漫画を借用してマチスの「線と色彩の葛藤」に頭を悩ませている。ニョウボは北斎とマチスの線にしか興味を示さない。しかも、ニョウボの「線を見る目」には分からないところがある。例えば二人の間でマチスの《ダンス》の事がしばしば話題になった。というのも、《ダンス》はニョウボが一番好きな絵だと言っていたし、わたしもマチスの中でなんとなく良さが分かってきた最初の絵だったからだ。ところがどうも話が合わないと思ったら、私の言っていたのはあの五人が輪になった、有名な方の《DanceⅡ》で、ニョウボが言っていたのはバーンズ財団の《Dance》だった。

もっと奇妙だったのは、北斎だ。国立博物館の『北斎展』(2005年)に行ったが、浮世絵を楽しむほどの知識はなかったし、《富嶽三十六景》のデザインが素晴らしいぐらいの感想しかなかった。そもそも『春画』はなかったし、『漫画』も数が少なかったこともあって、印象に残らなかった。ところが、ニョウボは「相撲取りの絵が一番良かった」と意表をつくようなことを言った。相撲取りの絵は漫画やメンコでよく知っていたし、浮世絵も少年雑誌の口絵などに載っていたので、「本物は迫力があるなぁ」と思ったけれど、あらためて仔細に見る気にはならなかった。それが最近、ニョウボが北斎の春画をもとに男女のダブル・ヌードを描いているのを見て、ふと思い立って、『北斎展』のカタログを見てみた。


            葛飾北斎  《鬼面山谷五郎と出羽海金蔵》

そこには男二人の「ダブル・ヌード」があるではないか。ニョウボに相撲を「春画」として見ていたのかと訊ねると、そうではない、ただ、あの時は、他のと比べて一番線が生きていると思っただけで、今は『漫画』の相撲の方が好きだという返事だった。佐藤順子には相撲の取り組みの片方をビキニの女性に入れ替えたエッチングがある。ビキニを回しに見立てた作品だ。



北斎の線はアカデミーの正確な写生の線ではなく、マチスの「線画は私の感動の直接の、もっとも純粋な翻訳」の線だ。言い換えれば、北斎の線には人間への愛がある。さらに言えば、江戸時代の日本人への愛だ。北斎の相撲の絵を見れば、相撲が神事だったことがわかる。北斎の線はビゴーの風刺の線ではなくマチスの線なのだ。永井荷風の「北斎忘却」の嘆きの言葉を引用しよう。

しかしてこの新しきフランスの美術(印象派)の漸く転じて日本現代の画界を襲ふの時、北斎の本国においては最早や一人の北斎を顧るものなし。


北斎は晩年に画を極めるために漫画春画の浮世絵から離れ、故事古典や動植物宗教画に画題を変えていった。北斎自身が北斎を忘れたのだ。

マチスは1937年に書いたエッセイ『とりとめもなく』の中で、アングルの「デッサンは芸術の誠実さである。」という言葉は「服の裁断と仕立てに失敗して、体を締めつけ、その動きを不随にするような手直しをいくつもやって服をお客の体に密着させることで窮地を脱しようとはかる仕立屋を思い浮かべる」と言う。ルノワールやセザンヌがそんなことを言うだろうか、言わないだろう。しかし、すぐれたデッサン家である北斎が“画狂老人(vieillard fou de dessin)”と呼ばれるときには私は差し障りをかんじないと、マチスは言う。仏蘭西の素描の大家がそういうのだから、北斎の線はたんなる写生の線ではなく、アカデミーの解剖学の線に反抗したモダニストの線だということだ。

『VOCA展』の審査委員長をしている高階秀爾という美術史家がいる。日本近代美術史の第一人者であり、『日本近代美術史論』という著作があるのだけれど、その中の『狩野芳崖』の章の冒頭に、1958年パリで『日本古美術欧州巡回展』が開催されたときの奇妙なエピソードが書かれている。58年といえば、マチスが世を去ってまだ数年である。そんなとき、連れ立って『巡回展』を見に行った仏蘭西と日本の若い美術研究者が日本古美術評価、すなわち、永徳と雪舟等伯をめぐって、気まずい雰囲気が生まれたというのだ。フランス人は永徳が一番良いと言い、高階は雪舟等伯がしっくりくると感じる。

高階秀爾は「もしかしたら、この行き違いは、仏人が水墨画が分からないという以上に、現代のわれわれは狩野派が分からなくなっているのではないか」と言いながらも、仏蘭西の研究者はともかく、わざわざパリまで仏蘭西の近代美術史を学びに来ている高階秀爾が、「まことに近世東西美術の連鎖だ」と荷風が言う北斎に一言も触れないのは、怪訝というほかない。

高階秀爾は、フェノロサと天心の「日本画復興」の運動が日本画の発展に寄与し得たのは、江戸三百年の狩野派アカデミズムの地盤があったからだと、随分と政治的な発言をする。しかし、日本画が発展したというのは本当だろうか。むしろわれわれは明治以来の日本画洋画の近代絵画が「現代美術」のポップやコンセプチャリズムまで劣化したのは何故かと問うべきではないか。

仏蘭西のモダニズムは印象派がアカデミーのサロン展に反旗をひるがえしたことからはじまった。そして、マチスたちがアカデミーのデッサン教育に反抗することでモダニズムの精神を引き継いだ。マチスの線は、大袈裟に言えば、ポロックのポード絵画にも生きている。同じように北斎も狩野派アカデミズムに「反抗」した。しかし、日本にはモダニズムの自己批判の精神はなかった。線は写生の手段だった。遠く泰西では北斎のモダニズムは理解されていたけれど、日本では北斎の線を含めて浮世絵はあくまでサブカルチャーだったし、その誤りをただす美術史家は現在に至るまでいない。せいぜいのところ北斎は「奇想の系譜」に属する絵描きなのだ。

狩野派アカデミズムを引き継いだという日本画の線は、もちろん北斎の線とは似てもにつかぬ線だ。佐藤順子は北斎の漫画春画の線をマチスの線につなごうとしている。しかし、誰にも理解されないだろう。佐藤順子の伝記作者の憂鬱な日々は続く。






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2014.09.13[Sat] Post 01:28  CO:0  TB:0  北斎  Top▲

佐藤順子の伝記作者の憂鬱① 《田中功起と村上隆のタダ飯論争》

近頃、明け方目が覚めて眠られないときは、と言っても大抵は眠られないのだが、Kindleでロバート・ヒューズを読んでいる。今朝はベーコンのところを読んだけれど、随分と褒めてある。表現主義的だが、同情を求めるようなところもないというのだ。ベーコンの線とマチスの線の違いを論じたこと()があるけれど、国立近代美術館の個展の会場で全体を見渡した時の寒々とした感じははっきりと憶えている。作品を覆っているガラスは、三次元の座標軸のような白い線と呼応しているのだろうが、折衷主義のアザトさを感じないわけにはいかない。

いつの間にか眠って昼近く目を覚まし、グズグズとベッドの中で、絵のことを考えて過ごす。ブログは五六篇書きかけて放ってあるし、ツィッターは「陰謀論」というタイトルで⑱まで連続ツイートしたけれど、おかしなタイトルをつけたために先に進まない。それでも、このヴェネチア・ビエンナーレの日本館受賞の騒動は現代美術の重要な問題を提議しているように思える。提議しているのは村上隆だ。村上さんの小松崎拓男の「終わった論」批判と田中功起のタダ飯批判は正鵠を得ている。

小松崎さんも田中さんも誤魔化そうとしている。村上さんが言ったとおりかどうかわからないけれど、田中さんはロスアンゼルスで村上さんにあんたの時代は終わった。これからはオレたちの時代だといったそうだが、そうだとすれば、田中さんの小松崎さんへの反論は、おかしなことになる。それに現代美術家は、まさに新奇珍奇なものを目指して、そのとき盛んな傾向を否定するのが常道だとわきまえているけれど、どういうところが古いのか、あるいは終わっているのか一向に分からない。

いろいろ議論するのは面倒になってくる。話に出てきた村上隆、奈良美智、田中功起、会田誠と並べてみると、奈良さんを除いてほかの三人は、みんな自分では作品を作らない。奈良さんだけが職人の手仕事をする。自分で自分のその都度の未完成の作品を「見ながら」、偶然を利用し、修正して作品を作る。村上さんはアルバイトを使う。あるいはその道のプロに依頼することもあるし、まかせることもある。自分ではやらないけれど作品は手で作られる。村上さん自身は全体を管理している。

いろいろごちゃごちゃして整理がつかないけれど、複数の人間が制作に携わるのだから、三人共「プロジェクト」という言葉が当てはまるだろうが、村上さんの制作はいわゆるプロジェクトとはいえない。会田さんも「ダンボールプロジェクト」と言っているようだが、田中さんがもう止めると言った「アート・フェア向けのスペシフィックなプロジェクト」とはちがう。田中さんは細かいことをいうけれど、現代美術における「プロジェクト」の意義をことさらに無視しているように思える。アートフェアとビエンナーレの違いは今更言うまでもないことだ。それより、私は、「プロジェクト」と聞くと、すぐに助成金の申請書を思いだす。メセナもある。

『芸術/批評』という藤枝晃雄氏編集の批評誌がある、あったというべきか。その2号(2005年)の巻末に特別共同企画『美術の文脈』というのが載っている。その中で田中さんが『プロジェクトとワークショップ』という文章を書いているけれど、これが驚くべき文章なのだ。『映像インスタレーションという方法』批判なのだが、まさに「ビデオ・アート」のことであり、これが今回の蔵屋田中の日本館の「インスタレーション」にそのままあてはまる。というより、そのパターンにはまるのに抵抗したのだが、現代美術の圧倒的な力にやぶれたと言ったほうが良い。

ところが、プロジェクトやワークショップに当然付いて回る助成金については田中さんは触れていない。そこを村上さんは「タダ飯批判」という形で問題にしたと考えられるのではないか。

『陰謀論』というタイトルで、連続ツィートをしたのはそういうわけだ。もう一度、田中功起さんのツィートを引用しよう。

田中功起 @kktnk
おそらくアート・フェア向けのスペシフィックなプロジェクトはもうやりません。市場はぼくにとっても重要なのでギャラリーを通して作品は出続けるだろうけど、フェアに合わせたプロジェクトをすることは、何かそこに批評的な必要性を感じないかぎりもうやらないでしょう。 via Echofon 2014.08.23 15:43

「市場」という言葉が重要だ。

2014.09.05[Fri] Post 13:47  CO:0  TB:0  絵画の忘却  Top▲

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