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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『女と男のヌード特集』(芸術新潮) : 日曜画家は何故ヌード・デッサンをするのか

何故日曜画家はヌード・デッサンの教室に通うのだろう。彼等はヌード画を描くことはめったにない。描くのはたいてい静物画や風景画だ。それでも、彼等はヌード教室に通う。まさか裸が見たいからではあるまい。ヌードデッサンをやれば絵が上達すると思っているからだ。それで、絵は上達しただろうか。

プロだって似たようなものだ。彼等は予備校で主に石膏デッサンで正確な線を学び、入学するとヌード・デッサンをする。もちろん昔のように正確さばかり要求されるわけではないが、それでも、自分の線を見つけられる美大生は、今の漫画世代には少ない。正確な線が引ける美大生の中で魅力的な線が描ける者は日曜画家とそれほど数はかわらないだろう。

正確な線は学べても、魅力的な線は学べない。正確な線は手の問題だが、魅力的な線は目の問題だ。中にはモデルの容姿体型を気にする生徒もいるが、ニョウボはそんなことは気にしない。太っていても胸がぺっちゃんこでも、魅力的な線が見えてくるモデルとそうではないモデルがいる。男性モデルも女性モデルも区別はない。イケメンを好んで描く木村了子のような画家もいるけれど、魅力的な線が見えれば、顔は後から適当に描けばいいと思っている。

デッサンの線は学べるものではないらしい。私がデッサンの入門書を買ってきて、鉛筆を立てて片目をつぶるとか、デッサン・スケールを使うとか、あるいは顔や身体の比例の線を予め描いておくとかしていると、ニョウボは「そんなことをしたら線が見えなくなるじゃない」と馬鹿にする。下のエッチングは私(安積)がモデルを務めたものだが、ニョウボは最初から自分の線を持っていた。(傑作だという意味ではない)



           仮題《鉄人28号》



これを見たとき私はギョッとした。マンテーニャの《死せるイエス》を思い出したからだ。しかし、ニョウボはマンテーニャは知らないという。それで、我々の間ではこのエッチングを《鉄人28号》と便宜的に呼んでいる。私が右足が短いのはオカシイと言うと、実際そう見えたんだから仕方ないという。でも、ひとが見たら、デッサンの間違いだと思うだろうと言っても、ニョウボは「これが見たままの私の夫です」と言って譲らない。確かに私は「片ちんば」なのだけれど。

デッサン教室に通い始めのころ、先生にコップのデッサンを描いてこいと宿題を出された。家で描いて持って行くと、それを見た先生は「コンパスで描いたのか」と多少非難がましくいった。確かにこれは円形のコップだが、斜め上から見ているのだから楕円形に描いてある。楕円形はコンパスでは描けない。

これは、私がつねづねいっている「絵画は知覚に基づいた想像である」ということだ。知覚しているのは図像客体(楕円形)で、その類似に基づいて想像しているのが図像主題(円形)なのだ。先生の名誉のために言っておくと、楕円形が正確な円に見えたのは、絵が分からないからではなく、むしろデッサンを見る目が確かな証拠なのだ。いつだったか、私がお皿を描いていたら、ニョウボがイライラして、「それじゃ、円いお皿に見えないじゃない、ただ楕円を描けば良いというもんじゃないのよ、手前の円弧と向こうの円弧は線が違うんだから」と言って私のデッサンを直し始めたことがある。まだ、ニョウボがデッサンを始める前だ。

自分の線が描けないと公言している現代美術家に会田誠がいる(た?)。彼についてはブログでいろいろ書いたので付け加えることはあまりない。しかし、よく見れば会田は魅力的な線をもっている。《大山椒魚》にしても《犬》シリーズにしてもエロティックな線である。ただ、それは描写の線であり、「美少女画」という日本画のジャンルでは生きているけれど、それが表層的な官能性である限り、たとえアブジェクトなものが付け加わったとしても、いや、そうであれば尚更のこと、竹久夢二や東郷青児の線とおなじように、好き嫌いの趣味の餌食になる。

会田の線が面白くないのは、手のせいではなく、目のせいだ。見る目がないのだ。彼には《巨大フジ隊員とキングキドラ》という北斎の《蛸と海女》のパロディ作品がある。確かに正確に三次元の対象を再現するテクニックは優れている。しかし、それはすでに書いたように大理石像の《ラオコーン》のように退屈である。そればかりではない。パロディを描いたぐらいだから、会田は北斎の春画漫画を見たはずだし、戯れに画狂(fou de dessin)と称していたけれど、北斎のデッサンに特別興味を示したフシはない。

会田は《灰色の山》のサラリーマンを写真に撮って、それを見ながら下絵を描く。写真で見るということは単眼で見るということだ。片目で見ることで、三次元の立体を平面化して知覚する。その平面の知覚をキャンバスの平面に写す。しかし、デッサンはそうではない。両眼で三次元のモデルを知覚して、二次元のモデルの線を想像する。想像すると言っても、勝手に想像するのではない。三次元のモデルの知覚に基づいて想像した(見えてきた)二次元の線を、紙の上の知覚できる二次元の線に写すのだ。片目をつぶって鉛筆を立てたら線が見えなくなるとニョウボが言ったのはこの二次元の想像の線が見えなくなることだ。反対にデッサンを見るということは、二次元の線の知覚に基づいて三次元の線(事物)を想像する(見る)ことである。

会田は18歳のときに自分の線が描けないと自覚したという。それなら見る目が皆無だったわけではない。だからこそいろいろ悩みもしたのだろうが、結局のところは酒とエロとコンセプチャルでごまかすほかなかったのだ。思想/コンセプトの問題は会田誠一人の問題ではなく、現代美術の宿痾のようなものであり、ひきつづき会田誠に託けて現代美術を考えていきたい。

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2014.08.20[Wed] Post 02:26  CO:0  TB:0  ヌード・デッサン  Top▲

永瀬恭一の「藤枝晃雄批判」 : マチスの《かたつむり》

中村ケンゴを検索していて、シンポジウム『20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から』(2012年2月)を偶然に見つけた。そこで、永瀬恭一が「1998年の総括」で、藤枝晃雄を批判している。当時、美術評論家で食べているのは椹木野衣一人と言ってよく、誰も椹木に反論しないので批評が批評としてなりたつ状況ではなかったというのだ。その後につづく永瀬恭一の発言。

永瀬:そうなんです。そのカウンターになる壁が、ほぼ村上隆も椹木野衣も無視して、大学でお給料をもらいながら自分の 枠組みだけで仕事をしている。唯一多分藤枝晃雄(1936-)さんっていう人が、若干なりともボールを投げていたかなと思うんですが、ほとんど明後日の方 向に投げていて、しかもあの人は致命的なことに文章が書けないというか、文体が非常に特殊といいますか。椹木さんは文章が書ける人なんですが、藤枝さんの 文章って僕いまだに読めないんですよ。


確かに藤枝晃雄の文章には癖があって読みにくい。しかし書いてある中味から言えば、私には椹木野衣の文章のほうがはるかに難解だ。この違いは、椹木と藤枝の絵画の考えかたの根本的な違いから来ているのではないか。それは永瀬がシンポジウムの冒頭で述べた「二つのキー」に表れている。

永瀬恭一:僕も二つだけキーを挙げさせてもらえば、まず作品に基づいて奥から手前へという動きがあったなと思います。それから状況論的には、外部からの侵入っていう のが四分野ほどあって、文学、アメリカ経済、建築、社会学という四つの外部から美術に色々なものが侵入してきたなというイメージをもって今日話したいと思います。


前者は「グリーンバーグの平面性」で藤枝のフォーマリズムに近いだろう。後者は表象文化論で椹木の反フォーマリズムに重なる。前者はモダニズムの自己批判であり、後者はポップを含むポスト・モダンの文化相対主義である。現代美術の思考の枠組みとしては「モダンVSポスト・モダン」あるいは「フォーマリズムVS反フォーマリズム」ということになり、現代美術の議論を整理するのにふさわしい枠組みだ。

ところが、議論はそんな風に進むわけではない。各年度のアート・シーンや国内世界の出来事にそれぞれが自分の立ち位置からコメントを加えていく。そんな中で永瀬の口から藤枝の名前が出たのは、話題が美術評論家のことになり、椹木野衣の『日本・現代・美術』が美術評論ではなく文芸評論だという話からだ。文芸評論といえば文学であり、その「文学」の支配から脱し、純粋化したのがモダニズムとも言えるわけだから、ここで永瀬は当然藤枝晃雄の名前を出すことになる。何よりも、椹木野衣は『日本・現代・美術』で藤枝晃雄の現代美術批評確立の功績を黙殺したのだからなおさらのことだ。そういう意味では永瀬は議論を本来の軌道に乗せようとしたとも言える。

そうは言っても、はたして、椹木野衣が分かりやすく、藤枝晃雄が難しいというのは本当だろうか。椹木野衣は時間芸術である音楽の技法を空間芸術である美術に適用したり、社会情勢で美術の主題や傾向を説明するのだから、ジャーナリズム的には、一読してなるほどと思わせる所はある。しかし、作品を見てのフォーマリスティックな分析評価はないので、本当の美術愛好家の作品鑑賞には役に立たない。藤枝晃雄が難解なのは、「ことはそう簡単ではないこと」をその都度「目で見ること」に戻って委細をつくすからだ。

藤枝晃雄は「見ること」をおろそかにしない。このことは、藤枝のマチスやジャッド(注1)の分析を読めば分かる。試しに『現代美術の展開』所収の『マチスの空間』〈何が現代的か〉を読んで欲しい。マチスの《テラスに坐るゾラ》とデ・クーニングの《女Ⅰ》と比較して、二人のそれぞれの芸術観に反して、いかにマチスの方が難解で現代的であるかを述べている。この『マチスの空間』〈何が現代的か〉を読めばフォーマリズム批評がたんに形式主義的な分析ではなく、内容のある豊かな作品批評であることが容易に理解できる。

最後のところにマチスが没する前年に描かれた《かたつむり》の小さなモノクロの写真図版が載っている。その《かたつむり》について述べた段落を引用する。

一般にマチスの色彩もまた、かれの言葉のように心地よいとされている。けれども、それは作品を熟読すれば明らかなように、一見単純だがはなはだしく微妙で、渋く、まさに苦々しいものである。マチスを早くから評価していた評論家クレメント・グリーンバーグですら、マチスの色彩は「個性的な表現を弱めてしまう用いられ方をしている」と批判したことがある。マチスの色彩は、難解で、俗にいってくろうと受けのするものである。その色相の関係は、対称し循環する形体、構成と相まって、画面をこのうえなく平面化する。装飾的ともいわれるゆえんだが、そのような平面化こそ、あらゆる諸要素をこえた画面の全体性を強調しているのである。


この文章を最初に読んだときは、「色相の関係」「対称し循環する形体、構成」「平面化」「装飾的」「全体性」などぼんやりとしか分からず、たしかに難解だった。ところが、今年の4月からテイト・モダンでマチスの『The Cut-Outs』展が開催され、ネットに《かたつむり》の展示風景の写真がいろいろ出まわった。観客が一緒に写っている3m弱四方の《かたつむり》の展示風景の写真を見て、あらためてその大きさに衝撃を受けた。正方形のフォーマット、黒と余白の白、そして補色の使い方、四角形のカットアウトの隅が触れ合い、微妙に重なっている。白い台紙の四辺に沿ってオレンジ色の紙片が囲んでいる。

「その色相の関係は、対称し循環する形体構成と相まって、画面をこのうえなく平面化する。装飾的ともいわれるゆえんだが、そのような平面化こそ、あらゆる諸要素をこえた画面の全体性を強調しているのである。」(強調安積)

ここで思い出すのは村上隆の正方形キャンバスの《FLOWER》シリーズである。これがスーパーフラットなのかはともかく、花は重なり合って、浅いけれど奥行きがあり、花の色彩や大小の組み合わせが視線を捕らえて窮屈である。それに比べ《かたつむり》の切り抜きは平面的であり、どの色もどの形も構図を作らず、視線はパターンからパターンへ自由に流れていく。(柿栖恒昭) 藤枝晃雄は言葉だけ読めば難解だけれど、作品を見ながら読めば、おそらくは椹木野衣よりはるかにわかり易いといえる。(注1)

私のTLでテイト・モダンのマチス展に行きたいと言っていたのは今井俊介一人である。ちなみに藤枝晃雄が『マチスの空間』を書いたのは1976年だ。これでも藤枝は「アサッテの方にボールを投げていた」と言えるだろうか。

永瀬は「大学でお給料をもらいながら自分の 枠組みだけで仕事をしている」と批判するけれど、逆に言えば、美の商人たちの営業に配慮することなく、自分の枠組みである現代美術の研究ができるということだ。現代美術は作品よりも思想やコンセプトが重要だという。だから理屈がつけやすい作品が評価される。作家も評論家も見ることを忘れて、喋ることに専念しているようだ。見ることを求める作品は理解するのが難しい。結局のところ、難しいのは藤枝ではなく、マチスなのだ。そしてその見ることを教えてくれるのが藤枝のフォーマリズム批評といえる。 藤枝の『マチスの空間』の結論部を引用する。

私は、マチスについていささか大仰に書きすぎたかもしれない。しかし、こう書かねばならないほど、かれは、芸術以外のことに屈服しすぎている美術、わけてもわが国の美術のなかで、軽視ないしは誤解されているように思われるのである。


40年前と事情は少しも変わっていない。 マチスは室内画で角のない形体を使ったパターンからパターンへの流れを、《Escargot》では角のある四角の切り抜きでやっている。下の写真をもう一度見て欲しい。もちろんプロが撮った写真だけれど、モデルは少しも邪魔になっていない。しかし、誰も驚かない。










注1:ジャッドのミニマル・アートについては、『現代美術の展開』の「〈あとがき〉に変えて」の(12)(13)を参照 藤枝晃雄は絵画が「知覚に基づいた想像」であることを理解している数少ない美術評論家の一人である。



スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2014.08.08[Fri] Post 01:19  CO:0  TB:0  -藤枝晃雄  Top▲

青田真也における「絵画の問題」

今年の初めに青田真也が『日常/オフレコ』展(神奈川劇場)でグランド・ピアノを削ったことが話題になった。

2010年の『青田真也 Shinya Aota』個展(青山/目黒)の展評()で言うべきことはすべて言ったつもりだったので、他の展評はフォローしなかった。この機会にあらためて他の青田真也評も読んでみた。

青田真也論は大まかに言って二つのポイントに収斂しているようだ。どちらも表面の「情報」を削ることは同じだが、一方は「何であるか」を曖昧にし、他方は「そうであること」の形相と質量を露呈する。

前者は例えば、ドラエモンを削ることで、ドラエモンがドラエモンらしきものになり、かえって想像と記憶を刺激する。後者は、ピアノを削ることで、ピアノがバイオリンと同じ木質の共鳴体を持った楽器だとわかる。

青田芸術のポイントがこの二つということには異論はないが、不満なのは、誰も「絵画の問題」に触れていないことだ。「絵画の問題」といえば、もちろん「平面と立体の問題」なのだが、コトが難しくならないように端折って言う。前回の『青山/目黒』展に展示された《世界地図》と《地球儀》は、平面の「地図」の方は、削ることで、地図そのもの全部が消えたしまったけれど、立体の「地球儀」の方は形が残った。これが平面と立体の根本的な違いである。

フッサールは遠景は絵に見えると言った。遠景は両眼視差も運動視差もなく、平面的に見えるからだ。青田真也の《蚊取線香》や《ビニール・バット》は遠くにあるわけではないのに絵に見えた。おそらくマットに削ってあって、陰影も反射もなく、背景も白なので、視差が認識しにくいからだろう。

下の写真を見て欲しい。これはすでに写真(picture)だけれど、俯瞰で撮影しているから奥行きが見える。目をテーブルの高さにして、白い壁を背景にすれば、たぶん《ビニール・バット》や《蚊取線香》のように「絵」に見えるだろう。モランディの絵のように。

絵画を見るということの秘密がここにある。

詳しくは記事『青田真也 Shinya Aota』()を読んで下さい。




右=青田真也展「The Information」(横浜市民ギャラリーあざみ野) 
左=「青田真也 2014」(ギャラリー青山|目黒)

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2014.08.01[Fri] Post 12:56  CO:0  TB:0  青田真也  Top▲

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