ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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(1)『漫画とアニメと絵画』:空間と運動

村上隆が監督した映画『めめめのくらげ』がレンタル開始になった。例によって罵倒と絶賛が相半ばしている。私もTSUTAYAの宅配レンタルのリストに加えた。

ちょっと前にシュウウエムラとのコラボで制作したアニメの「シックスハートプリンセス・ピンク・オア・ブラック」が話題になったばかりだ。これで村上はイラスト、フィギュア、アニメ、映画とすべてに関わったことになる。画家が映画を撮ることはよくある。例外もあるけれど、おおかた失敗する。池田満寿夫も、それから画家ではないけれど絵心のあった黒沢明も構図や色彩に拘って失敗した。

映画やアニメは動画なのだから静止画の写真や絵画とは時間の様相が異なることは誰にでもわかる。しかし、時間だけではなく空間もまた異なることに人はなかなか気づかない。3D映画の『アバター』は両眼視差を利用した立体映画なのだが、観客は多かれ少なかれ吐き気を感じたのは、余計な錯視現象を無理やり付け加えたから、冗長になったのだ。動画は両眼視差がなくても、運動視差あるいは「時間視差」によって三次元空間の「擬似知覚」が生じる。 錯視ではなく《擬似知覚》と言ったのは、これはあくまで「知覚に基づいた想像」なのだが、限りなく知覚に近い想像だからだ。

両眼視差など使わず、実写とCGの合成でみごとな3D空間のイリュージョンを生み出したのは『007カジノ・ロワイヤル』の冒頭の追走シーンだ。観客は明らかに三次元空間の中で三次元のジェームズ・ボンドが激しいアクションを繰り広げているのを「知覚」する。スチール写真の場合は、我々は印画紙の図像を見ており、その知覚に基づいて三次元空間を想像している。その三次元空間は写真を見ている我々の身体空間とは印画紙の表面で分離されている。それに対して動画ではカメラの視線と観客の視線は重なりあって、我々の身体空間は動画の空間と接続し一体となる。このことは映画がストップして静止画になったとき矩形のスクリーンが現れ、自分の身体がスクリーンの外へ放り出されることで分かるだろう。

身体の運動感覚と対象の連続的な見え方(射映)の変化の統一として三次元の事物が知覚されるのだが、動画の観客自身は動いていないのだが、カメラの移動や対象の変化があたかも観客の動きであるかのような感覚を与えてくれるのだ。もちろんこれは真正の知覚でも、オプティカル・イリュージョン(錯視)でもなく、写真や絵画とおなじように「知覚に基づいた想像」なのだ。退屈な映画を見ているとふと我に返ってスクリーンの四角が気になることがあるだろう、それがスクリーンに映った図像の知覚なのだ。 運動変化のある動画のほうが、静止画よりも立体感や奥行きのリアリティがあるのはそういうわけだ。

ニンテンドウが3Dのゲーム機で失敗したのが業績低迷の原因の一つだと言う。なかには3Dのスイッチを切ってゲームをするプレーヤーもいたそうだ。何度失敗しても手を変え品を変えて「3D映画」が出てくる。子供の時分赤と青のセロファンのメガネを掛けて立体映画を見たけれど、これはダメだと子供ごころに思った。それ以来色々な方式が案出されたけれど成功したものはひとつもない。これからも両眼視差を利用した新式の3Dが鳴り物入りで登場しては失敗するだろう。原理的にダメなのだ。

さて、今度は「アニメと漫画」を考えてみよう。アニメも動画なので漫画と比べればリアリティがある。動いているキャラクターはフラットな描写でも漫画よりはるかに立体的に見えるし、自分の周りに容易に三次元の空間を作り出す。それだけではなく、その動いているものには魂が宿るのだ。 もともと彫刻やフィギュアと較べて絵の人物は生きているように見えるけれど、絵が動けばなおさらのこと生き々々としてくる。ディズニー・アニメで椅子や箒が踊りだすと生き物のようにみえるのはその例だ。

『鉄腕アトム』のアニメは第一回目の放送から見た。あんなに面白かった漫画の『鉄腕アトム』が全然面白く無い。それで同じエピソードの漫画とアニメを較べて見た。アニメが面白く無いのは一言で言えば動きがちゃっちいのだ。キャラクタだけ左右に動いて、背景は静止したまま、なかにはキャラクターの口だけがパクパクしているのもある。カメラはズームするか左右に移動するぐらいで、運動視差がないので奥行きや立体感は生まれない。 それにくらべ漫画はコマとコマの間を想像力が埋めるので、アニメよりもむしろ豊かな空間が生まれると言って良い。もちろんどんな漫画でもそうだと言うわけではなく、優れた漫画だけに言えることだ。

注意して置かなければなければならないのは、コマとコマの間を想像で埋めると言っても、その想像は勝手気ままな「自由な想像」ではなく、前のコマと後のコマの「二つのコマの知覚に挟まれた想像」が働いている。 漫画を見るということは前のコマの記憶(過去志向) と次のコマの予期(未来志向)の時間の流れを構成することだ。漫画を読んでいてしばしば前のコマやページに戻るのは、もう一度その時間の流れを体験するためなのだ。
 
現在のアニメ制作はCGであり、セル画の代わりにレイヤーが使われている。ずいぶんとリアルになり、カメラの動きにしたがって背景も変化するようになったけれど、上手く使わないと、逆にそれがちぐはぐな印象を与えることもある。村上隆の『6HP』はセル画方式のアニメのような極端なぎこちなさはない。秋葉原の遠近法の街を巨大なプリンセスが浮かんで行くシーンはセル画方式では難しかったろう。奥行きのない舞台の上のパラパラは音楽に合わせてとても可愛い動きをするけれど、パラパラはバレーやダンスとは違って日常的な仕草から生れたサブカル的な踊りだから、バレーやダンスの動きの美しさは絵に描けても、パラパラの可愛さは絵に描くことも、写真に撮ることも難しい。

それなら絵画の根拠は何だろうか。絵画にしか出来ないこと、マンガやアニメや、そして写真や映画には出来ないけれど、絵画にできる事があるだろうか。もちろんある。まさにここにこそ絵画の「知覚に基づいた想像」の出番があるのだ。

絵画の「空間と運動」を理解するために会田誠の《巨大フジ隊員VSキングギドラ》とアンリ・マチスの《ダンス》を比較してみよう。


(2)『会田誠とマチス』:(空間と運動)へ


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2014.01.24[Fri] Post 22:52  CO:0  TB:0  漫画とアニメ  Top▲

『経済成長がすべてではない』:シンガポールの芸術事情

『monopol』というドイツの芸術雑誌にシンガポールの芸術週間の見聞録が載っていたのでその要約を載せる。近頃はアジアのアートシーンがツイッターなどで紹介されているが、シンガポールの特殊な事情はあまり紹介されていないので少しは役に立つだろう。

以下要約


シンガポールの《Art Stage》と香港の《Art Basel》では何処が違うか。シンガポールの見本市の設立者でありデレクターであるLorenzo Rudolfは、香港はバーセルの支店のようなものだ。それに対してシンガポールは最初からアジア独自の見本市として企画された。シンガポールは都市国家であり、自由な市場だ。

 Lorenzoは2000年までArt Baselのデイレクターをしており2011年には《上海現代美術》die Messe ShContemporaryを率先して企画した。《Art Stage》に出店した100のギャラリーのうち80%がアジア太平洋地域からだが、Art Baselは50%である。ベルリンのギャラリストMatthias Arndtは4年前からシンガポールに興味を持ちギャラリーを見て回った。そして去年シンガポールに支店を出したが、仕事は軌道にのっている。木彫を一体売って3万ユーロのブース代の元がとれた。(香港の《Art Basel》のブース代は9万ユーロだった。)

見本市に平行してシンガポール芸術週間か開催され様々な行事展覧会が行われる。港湾地区には芸術村が設けられたが、シンガポールでは芸術はすべて経済成長のために設計されている。しかし、シンガポールは経済成長だけで社会の未来像を描くことは出来ないのではないか。

国が学ばなければならないことは、芸術は「抵抗やタブー破りや汚れ」とも関わっていかなければならないことだ。シンガポールは豊かで清潔で安全な都市である。ここではすべてに均衡と調和が計られている。人種差別しない、宗教のことは話題にしない。50年以上同じ政党が政権の座にある。これを受け入れているのは秩序と繁栄をもたらしてくれるからだ。道路やベランダには樹木や花がいっぱいで南国の空気は新鮮だ。たしかにこれは風水には理想的だが、アートシーンの創設にはそれだけでは不十分ではないか。

女性芸術家のDonna Ongは目下ベルリンのベタニアンのレジデンスで奨学金を受けて制作している。彼女が言うには、芸術が同性愛とか死刑などのテーマに触れる自由はシンガポールにはない。此処十年で事情が変わったのだ。以前は芸術はもっと自由で実験的だった。というのも誰も芸術に関心がなかったし、マーケットも存在しなかった。当時はパフォーマンスの見物人は少なかったけれど、今日ではみんな専門的でネットワークができており、芸術の出来事は国際的に繋がっているのだ。

Lorenzo Rudolfも検閲を経験している。2年前の《Art Stage》でインドの芸術家が裸のパフォーマンスをした時だ。テントの中だったのだが、警察が大挙してやって来た。パフォーマンスは禁止され、責任者は取り調べを受けた。警察を大ぴらに批判はできない。それに他のことではシンガポルールの政府から援助を受けている。相談窓口は文化省ではなく、産業省だ。見本市のチーフなら産業省とうまくやれるだろうが、若いパフォーマンス・アーティストは結局は西欧に行くしかない。ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリンの学校へ行くか奨学金を貰うしか道はないのだ。


今日の産経にシンガポールのインド人街で40年ぶりに暴動が起きたという記事が掲載されていた。マレー人と華人の対立が外国人労働者を差別することで解決しているのだろう。いくら表通りが綺麗でも差別や格差は隠せないものだ。

会田誠はインドネシアの雑然とした街を見て創作意欲が湧いたと言っていたが、シンガポールの印象はどうなんだろう。経済も美術市場も香港の次はシンガポールだみたいな風潮はいかがなものか。

日本では検閲というのは官憲がやるものではなく、人権弁護士や美術評論家がやるものらしい。

そう言えばクール・ジャパンも文科省ではなく、経産省ではなかったか。












2014.01.24[Fri] Post 16:18  CO:0  TB:0  美術評論  Top▲

小林史子と小林正人:《平面と矩形と絵具》

小林史子はインスタレーションのアーティストである。 確かに、これまではそうだった。しかし、今回の《1000の足とはじまりの果実》はインスタレーションを超えている。

裏側から見ると、ディズニーのアニメのように椅子が次から次へと這い上がって壁になっていったように見える。椅子は裏から登って、表側に矩形の平面を作る。隙間には青黒赤黄の古着が詰められ椅子は壁の平面に矩形の模様を描く。古着はレンガであり絵具である。そして壁は一枚のタブローになる。タブローの平面から空間のイリュージョンが現れる。

優れた作品というのは、その時代の美術のいろいろな課題や傾向を一つにまとめてくれるような作品だ。小林史子は芸大の油絵専攻を卒業し、壁画専攻で修士をでている。在学中から幾つかの賞をもらっているのだが、検索しても絵画作品は出てこない。 小林はもっぱら「オブジェ」の周辺を巡って来たかのように見える。 「コンセプチャル」らしきものもあるけれど、小林はあまり喋らない作家だ。ジャンク・アートがあって、レディメイドがあり、プロセス・アートがあって、そして何よりインスタレーションがある。すべて事物(オブジェ)を使った作品だ。

小林史子は絵画から壁画を経て、オブジェと戯れて、再び壁画から絵画に戻ってきた。絵画を忘却した現代美術の記憶を取り戻そうとしているかのようだ。《1000の足》はオブジェから絵画への回帰ともいえる。もちろん、再度オブジェに帰ってしまうかもしれない。

同じように絵画とオブジェの問題を探究している画家に小林正人がいる。しかし小林正人は小林史子とは反対に絵画を解体してオブジェを作ろうとしている。彼は自作の《Unnamed #7》(注1)を「素っ裸だ」と言う。「この絵具とこのキャンバス、この木材。その間に中間物はいっさい存在しません。」と。どこかで聞いたことがあるような言葉だ。そう、グリンバーグが「モダニズムの絵画」について述べた言葉だ。

リアリズム的でイリュージョニズム的な芸術は、技巧を隠ぺいするために技巧を用いてミディアムを隠してきた。モダニズムは、技巧を用いて芸術(アート)に注意を向けさせたのである。絵画のミディアムを構成している所々の制限----平面的な表面、支持体の形体、顔料の特性----は、古大家たちによっては潜在的もしくは間接的にしか認識され得ない消極的な要因として取り扱われていた。モダニズムの絵画は、これら同じ制限を隠さずに認識されるべき積極的な要因だとみなすようになってきた。(太字安積/『モダニズムの絵画』グリーンバーグ)


この三つの条件を小林史子の《1000の足とはじまりの果実》は満たしている。だから、これは「壁」ではなく「絵画」なのだ。それに対して、小林正人の《Unnamed #7》はどの条件も満たしていない。いや、そうではない。小林はモダニズムを極限まで進めたのだ。絵画を脱構築しているのだ。絵具は色彩ではなく汚れであり、キャンバスは捩れた布であり、木枠は矩形ではなく台形であり、平面を作るためではなく、ただの木材である。言わばこれは絵画の解剖標本なのだ。彼は魂を見つけようと人体を解剖したけれど何も見つけられなかった解剖学者に似ている。

彼は小林史子と違って話す作家である。絵画の秘密を知ろうとタブローを解体して見たけれど、そこには木材とキャンバス地と絵具のほか何もなかった。だから小林正人はしゃべり続けなければならない。解体するのではない、絵画を作っていくのだと言い訳をする。絵具が塗られ、キャンバス地は枠に張られ、矩形のタブローが完成するはずだった。ところが小林正人は「完成とはなにか」と、勿体ぶって問う。そして、「この作品、完成を目指して途中で止めたのではない。この作品は完結しない世界でのあるひとつの完成の仕方なのだ」と答える。

たとえば小林は「光」について語る。評論家も同じように小林の「光」について語る。評論家が先なのか作家が先なのか知らない。古谷利裕は「光を捕獲する」と言い、保坂健二朗は「反重力の光」と言う。そして小林正人は「生きている光」について語る。フェルメールやレンブラントなど古大家の光は、暗い所を背景に明るい所の表面色として現れる。ところが小林正人の光は図像主題の明暗ではなく、キャンバス表面の反射光として現れる。他にも面色の《青い空》や光の点である《星》など表面色ではなく面色や空間色を好んで使う。三次元のイリュージョンを抑圧している。

ここで「語る作家」と「語らない作家」の間に捩れが生じる(注2)。語る作家は語るものがないから語るのだ。絵画の面白さは「自由な想像」ではなく、「知覚に基づいた想像」にある。想像は絵画平面の知覚から生じる。立体は知覚されるだけで想像は生じにくい。三次元の事物は眼球の運動や視点の移動で様々なパースペクティブで現れる。オブジェと観者の身体は連続した同一の空間に共存している。それが三次元事物の知覚だ。マイケル・フリードがいうリテラルなものである。リテラルなオブジェは退屈である。だからこそ、オブジェ作家の小林正人は知覚できる微妙な差異を執拗に語り続ける。

それなら美術評論家や語る作家に騙されないようにするにはどうすれば良いか。それは言葉を聞くのではなく、作品を見ることだ。作品を見るというのは、「知覚にもとづいて想像」することだが、まずは 《Unnamed #7》を見てみよう。素直に見れば画家が捨てた粗大ごみに見えだろう。美術館に展示していなければ、誰も芸術作品とは思わない。もちろん、モダニズムの理論を知っていれば、木枠が台形なこと、キャンバス地が弛んで平面ではないこと、絵具が擦り付けられたようで汚れに見えることなどの意味を理解して、そのラジカリズムに感動するディレッタントもいるだろう。しかし、そうであっても三次元の事物は絶えず異なる側面を見せるので、知覚が支配的であり、平面のように想像が作動することはなかなか起きない。少し複雑な形をしているけれど、これはマイケル・フリードがいうリテラルな客体であり、ジャッドのキューブと同じ知覚の対象なのだ。

《1000の足とはじまりの果実》はどうだろう。インスタレーションは複数のオブジェが組み合わされ配置されている。そのリアルな空間の中を観者は現実に歩いて入れる。もちろん想像ではなく、知覚しながらである。壁の裏から表からそして横から近づいたり離れたり、あるいは見上げたりたりする。もちろん視知覚が作動している。壁に少し離れて正面から対峙する。つめ込まれた古着や椅子の脚や背凭れが見える。隙間や凸凹がある。もちろん三次元の事物を見ている。ところが壁の表面が突然平面になる。イリュージョンである。壁は矩形のキャンバスになり、古着は色彩になり、椅子の足は線になる。そして壁は抽象表現主義のタブローになる。知覚に基づいた想像が作動したのだ。

絵を見るということは、繰り返し言うけれど「知覚に基づいた想像」である。これは「自由な想像」とはまったく別物である。例えば会田誠の《犬》シリーズの美少女と文字の《美少女》を比べてみれば理解できるだろう。《犬》の美少女は絵に描かれた通りの美少女を想像しなければならない。紙の上に書かれた平面的な図像の知覚に基づいた、三次元でぬくもりのある乳房の少女を想像する。文字の《美少女》は概念を意味しており、美少女を思い浮かべるとしたら、それは自由な想像なのである。そういう意味では絵の知覚に基づいた美少女の想像というのはある意味で「不自由な想像」と言える。もちろん絵の美少女から注意を逸らして、自分の好みの美少女を自由に想像することも出来る。

絵を見ることは「知覚に基づいた不自由な想像」だということを忘れないようにすれば、作家や評論家の怪しげな理論に騙されることはないだろう。この不自由さこそが「絵描きの自由」の根拠なのだ。 



注1:『プレイバック・アーティスト・トーク』展(国立近代美術館2013年6月~8月)のパンフレット
注2:藤枝晃雄による。ちなみにマチスは画家になるならまず舌を切れと言ったけれど、マチス自身は語る作家であった。もちろん画家が語っていけないことはない。何を語るかが問題だ。










2014.01.07[Tue] Post 01:18  CO:0  TB:0  小林史子  Top▲

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