ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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小林史子の《1000の足とはじまりの果実》は紛れもなく一枚のタブローである。

小林史子のこの作品は産経新聞の『六本木クロッシング2013展 アウト・オブ・ダウト』の美術展評で見た。解像度の悪い印刷の写真だけれど胸がジーンと来た。解説にはインスタレーションとあるが、これは紛れもなく一枚の「タブロー」だ。

表面に凸凹があるので絵画のようにイリュージョンが現れることはない。事物の知覚が優勢だ。古着が隙間を埋めている。様々な色の古着がある。様々な形の布がある。椅子の直線があって、丸められた布の曲線がある。まるで抽象表現主義の絵画のようだ。

そこで逆転が起こる。知覚された絵画平面の向こうに空間が生まれるのではなく、椅子や古着の凸凹や隙間から平面のイリュージョンが生まれる。写真だけれど、少し平面が見える。「首振り立体視」()をすれば奥行きの錯視が現れる。

写真のほうが実物よりも分かりやすいかもしれない。実は我々はこういう平面を知っている。おみやげでいっぱいになったスーツケースを帰国して開けたとき、リサイクルのゴミを固めて運ぶとき、大型プレス機で潰した廃車などの面が、この作品とそっくりな抽象画のような面を作っている。もちろん小林史子の作品のように凸凹や色彩が豊かではないのだから面白さには欠けるけれど。

シュヴィッタースのメルツ絵画や大竹伸朗のジャンクアートにも凸凹の立体的なコラージュによって絵画的なイリュージョンを生み出そうとした作品があるがとても成功しているとは思えない。お皿をキャンヴァスに貼り付けたジュリアン・シュナーベルも、プロセスアートの手法で絵画を解体した小林正人もただ物質の知覚が強化されるばかりで、「知覚に基づいた想像」という絵画の神秘が出現するわけではない。

想像が働かなければ、どんなに絵画に擬態しても、知覚が優位なオブジェになる。シュヴィッタースや大竹伸朗や小林正人と比べるのも大きなお世話だが、小林史子には立体と平面に対する鋭敏な感覚がある。椅子二つ使ったオブジェも自転車を使ったインスタレーションも立体ではあるけれど、写真に撮れば絵画的な平面性に対する感性がすぐれて繊細であることが分かる。

ニョウボは《1000の足とはじまりの果実》の写真を見てポロックみたいだと言った。たしかにエナメルの絵具が盛り上がっているところが知覚を刺激し、線と線に挟まれた空間のイリュージョンが脈動しているところは似ていなくもない。いずれにしろ私はデ・クーニイングの抽象表現主義を思い出したのだから、ニョウボと私には《ファーマリズム》理解にそれ程の差はない。

なぜ、デ・クーニングか。すでにお分かりだと思うが、念のため説明しておく。デ・クーイングの《おんな》についてグリーンバーグが言った「帰する場所なき再現性」の問題である。

私がこの語で意味しているのは、抽象的な目的のために適用されはするが、再現的な目的をも示唆し続けるような、彫塑的かつ描写的な絵画的なるもののことである。(グリーンバーグ『抽象表現主義以降』)

《1000の足とはじまりの果実》の古着や椅子は抽象的な線や色や形の面白さのために使われているが、再現的な役割も担っている。デ・クーニングの《女》は三次元のイリュージョンが再現(represent)を担ったが、小林の《1000の足とはじまりの果実》では三次元の事物がリテラル(直接)に現在(present)しているのである。

小林史子の図像検索をしていたら、驚いたことに下の作品《The Island Over There-Hiroshima》(2009)を見つけた。何故驚いたかというと、もちろん上で述べたシュヴィッタースや大竹伸朗と同じ仲間の立体コラージュだけれど、タブローではなくインスタレーションの作品だからだ。外見は幾何学的抽象もどきの絵画の擬態をしているが、「知覚に基づいた想像」が発動することはない。インスタレーションとは作品の中に知覚する観者が歩いて入れる実在の場所なのだ。《The Island Over There-Hiroshima》はインスタレーションではあるが、壁のような実在の平面に遮られて中に入ることは出来ない。ただ、目で知覚できる隙間や穴が空いているだけだ。

グリーンバーグは「観者が歩いて入っていける自分を想像できる古大家の空間のイリュージョン」と「観者が覗き見ることしか出来ないモダニストの空間のイリュージョン」と区別したが、小林史子は文字通り「観者が歩いて入れるリアルなインスタレーションの空間」と「手で触れることのできるリアルな隙間や凹みや穴ぼこの立体コラージュの空間」を区別する。インスタレーションと立体コラージュの空間は観者の身体的空間と連続した同一の空間である。小林史子は立体コラージュの隙間や穴ぼこを古着で充填して、椅子の硬い表面を柔らかいいろいろな色彩の布で和らげ絵画的(ペインタリー)な表面を生み出している。

《The Island Over There-Hiroshima》と《1000の足とはじまりの果実》の間には無限の距離がある。前者は知覚の支配するオブジェであり、後者は「知覚に基づいた想像」が支配する一枚のタブローなのだ。

小林史子の《1000の足とはじまりの果実》は今年一番の収穫である。何よりも自分の絵画理論を実現してくれたような作家を発見したのだから。







                                     The Island Over There-Hiroshima /2009



       《1000の足とはじまりの果実》(2013年)




スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2013.12.23[Mon] Post 00:20  CO:0  TB:0  小林史子  Top▲

バルチュスのポラロイド写真 :《芸術か猥褻か》

以下の文は 『ZEIT ONLINE』の記事《Die Bilder des Begehrens》(「猥褻写真」15.12.2013)の要約です。



バルチュスの少女のポラロイド写真をめぐって芸術か猥褻かの論争が起きている。

バルチュスの死後未成年のAnnaの2400枚のポラロイド写真が発見された。それが現在NYのメトロポリタン美術館で展示されている。それだけではない。ガゴシアン・ギャラリーで一枚最低2万ドルで販売され、さらに豪華版写真集が発売される。

絵は芸術的に昇華されているかもしれないが、ポラロイド写真は淫らで、小児性愛者の欲望の記録だ。児童擁護団体はそういうものは犯罪を誘発するから、蔵に仕舞うか、ただちに破棄すべきだと主張する。

イギリスでは最近Graham Ovendenがリアルの少女虐待で有罪になった。オヴェンデンはホックニーなど他の美術家に高く評価されている。ヴィクトリア&アルバート美術館にも所蔵されている。テート・ギャラリーは34枚のオヴェンデンの写真を所蔵しているが、その大方は猥褻なポーズをしている。テートは有罪判決を受けてオヴェンデンの展示をヤメて、インターネットのサイトはタイトルだけ残して写真は削除されている。

長い間誰も気にしなかったことが突然タブーになった。航空会社は一人旅の子供を男性客の隣に座らせることを禁止した。スイスではサンタクロースが疑惑を招かないように子供を膝にだっこしないことにした。それ以来、児童虐待はどこにでも潜んでいると思われた。美術館は細かくチェックされた。実直に調査する者には、美術史は容易に小児性愛の歴史のように見えて来る。

ゴーギャンは13歳の少女を誘惑したし、キャロルがアリスの写真を撮ったのは11歳のときだった。

これまで多くの美術館は寛大だった。芸術家は貪欲な者であり、市民的な道徳は尊重しないと思われてきた。ブリュッケ・グループの画家たちもそう思われて来た。彼らは少女たちを湖に連れて行きそこで裸の絵を描いた。しばしば脚を広げたポーズを描いた。キルヒナー達のお気に入りのモデルを最初に湖に連れて行ったのは八歳の時だった。かれらによれば芸術は自由で、他のものは自由に狩猟してもよい獲物なのだ。

今日の基準から見れば明らかに虐待と思われるとキュレーターのフェリックス・クレーマーは言う。彼は数年前キルヒナーの大展覧会を開催した。しかし、過激なモチーフの作品の展示は諦めた。子供の性がいやらしい視線にさらされるのは望まなかったという。これは検閲だろうか、それとも正しい差し止め措置だったのだろうか。

これまで繰り返し裸の少年少女が展示されて来た。もし良いものと悪いものを一旦分けようとすれば、境界線を引くこがいかに難しいかすぐに分かるだろう。どこから露骨が始まり、どこから猥褻が始まるのか。カラバッジョやドナテッロのいろいろと噂のある少年愛の像を展示してもよいのだろうか。もし今日思春期の裸体像を制作しようと思ったら嵐のような抗議に見舞われるだろう。

さて、そうだからと言って、芸術家の自由が危険にさらされるなんて誰も言わないだろう。これからも、人は好きなモノを描き、好きなモノを書いてもかまわない。ところが、もし、グラハム・オヴェンデンの場合のように、芸術家の実生活の品行が彼の写真を陳列しても良いかどうかを決めることになると、芸術の自由に奇妙な影がさす。不当なことが起きていないか写真の領域をあたかも道徳警察がパトロールしているかのような事態が起こる。ただ自分だけに従い、いかなる他の目的にも従わない芸術の自立性という、決して犯罪になりえないことが犯罪にされてしまうのだ。

これまでの画家と児童虐待を巡る議論には強引に整理しなければならない多くの混乱がある。整理してみよう。

第一の問:芸術家には何が許されているのか。《答》想像であるかぎり何を考えても、何を展示しても許される。

第二の問:犯罪を犯した場合はどうなるか。芸術の領域を逸脱して法律や規則を破った場合はどうなるか。《答》その場合は法の裁きを受けなければならない。

第三の問:彼の芸術はどうなるか。《答》さしあたって何も起きません。というのは作品は相変わらず同じものだからだ。作品は引き続き芸術の自由の権利を要求できる。

第四の問:そうなったら、作品はどう評価されるのか。《答》もし、芸術家が自分の芸術のモチーフと現実の行為と明確に区別しなければ、観客たちに彼の芸術のモチーフと実生活の行為を区別して貰うことは期待できない。ブリュッケの画家たちは実生活と絵を描くことの境界を意識的に無くしたいと思っていたので、観客はブリュッケの児童モデルの虐待を知らぬふりをして、かれらの美学の大胆さばかりに感嘆することは出来ない。

第五の問:美術館やギャラリーや出版社が写真を展示したり、出版したりするのは写真を認めたことにならないか。バルチュスのポラロイド写真の場合のように高価に販売することは写真をフェティシュ(呪物)にすることだ。《答》だからといって、それらの写真が危険になり、さらに虐待を誘発するというのは的外れだ。インターネットの時代、児童虐待者は刺激を得るために芸術作品を必要としない。

芸術が犯罪を誘発するなんてことは断じてない。パルチュスの写真を展示するのはかまわない。しかし、そうではあるが、無条件に見せなければならないかどうかはやはり疑問が残る。というのは、このバルチュスのポラロイドは本当に芸術的価値があるのかどうか問題だからだ。今、ポラロイド写真はそれ自身独自の芸術作品だとしてプレゼンテーションされているけれど、作品には署名がない。だからといって、すべて習作(Vorstudien)だというのも疑わしい。というのはそんな大量の写真があることが説明できないからだ。「そこで、これは老人がたんに刺激が欲しかったからではないかという疑いが生じる」とカタログを出版したGerhard Steildが言う。それにもかかわらず、彼は写真を出版するのを躊躇しなかった。写真の色が素晴らしかったからだ。あとで油絵にする時の色調の雰囲気を伝える写真だと思った。それが芸術かどうかはそうしたい人が判断すべきだと彼は言った。

誰が芸術にしたいと思っているのか、そこがまさに問題なのだ。バルチュスはこれらの写真を単純に思いついたのではない。彼は現実の少女Annaをソファベッドに長い間ポーズを取らせ、最後にはゴヤのマヤのように(たぶん裸になって)寝そべらせるに至る。彼は写真を発表するつもりもなく、ただ少女を性の対象にしていただけだ。バルチュスは芸術だとは思っていなかった。ところが今芸術として公表され、税金で運営されているフォルクヴァング美術館がそれに加担している。おそらくスキャンダルを嗅ぎつけて、一儲けしようとしているのだろう。より一般的な多くの人の覗き見趣味を利用して儲けようとしているのだ。色が素晴らしいというだけではそんなに関心を集めることはできない。美術館の覗き見趣味による少女アンナの搾取は正当化出来ない。

以上



これが欧米の標準的な考えなのだろう。特筆すべきことはバルチュスのポラロイドをエロ老人の楽しみで芸術ではないと断言していることだ。そして、アンナが公開に同意しているに拘わらずこれは児童虐待だとしていることと、著作権者の夫人を暗に批判していることも重要だ。

他方でイギリスで児童虐待で有罪になったグラハム・オヴェンデンの作品は児童性愛的な描写にも拘わらず芸術的に優れていると言う理由で展示の自粛には反対している。あくまでも芸術の自由を守る立場だ。
 
もう一つ付け加えておきたいのは、欧米と日本では、根本的に性文化が異なるということだ。欧米では児童虐待も日常的に起きているようだが、日本のロリコンいうのは一種のコスプレであり、あくまでも想像の世界を楽しむことなのだ。たとえば会田の《犬》シリーズもSMの異常性愛ではなく、可愛い犬のコスチューム・プレイをしているのだ。
 
椹木野衣の森美術館の『会田誠 天才でごめんなさい』展批判の文章を再読してみたい。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2013.12.20[Fri] Post 21:14  CO:0  TB:0  バルチュス  Top▲

会田誠のための記号論入門[1]:《文字と絵画》

会田誠のストーカーのようになってきたけれど、決してそうではありません。

初めは「画家のための記号論」を書くつもりだったが、それでは誰も読んでくれないだろうから、いっそのこと画家の代表として会田誠の名前を借りることにした。幸いというか、会田は現在の日本の美術家の中でもっとも文字と絵画の違いに自覚的な絵描きである。

会田には文字を使った主な作品が四つある。《美少女》のパフォーマンス、《桑田》のレタリング、《1+1=2》の抽象画、そして《書道教室》の看板だ。あとはイタズラ書きやポスターや文章などのための文字で、これほど《文字と絵画》の問題を探究した画家は会田の他にはクレーぐらいしかいないことは以前にも書いた。(注1)

都合のいいことに、会田には《美少女の絵》と《美少女の文字》の両方の作品がある。《犬》シリーズの美少女と自慰パフォーマンスの《美少女》だ。絵の方は、中学生のときに大場久美子の水着姿を裸にして自家製ポルノを描いたのが始まりだ。会田の絵画の原点だと言う。上手く描ければ一度ならず二度三度と使えたそうだ。文字の方は「美少女」だけではなく、おそらく「大場久美子」の名前や「美少女」の文字を見ながら自慰を試みたこともあるだろう。「名前」はその人を思い浮かべるとはかぎらないし、「美少女」の文字を見ても意味を志向するだけで、絵のように具体的なイメージを見るわけではない。ただ文字から注意を逸らして自由な想像・連想をするだけだ。絵の美少女も文字の美少女も自慰という会田にとっては究極の判定基準があったわけだから、「文字」と「絵」の違いについては十分に思索を重ねたに違いない。

文字も絵画も記号である。文字はデジタル記号で絵画はアナログ記号だと俗に言う。これは間違いではない。しかし、「絵画の記号論」というと話がおかしくなる。もともと言語学から生まれた記号論を絵画に適用するには無理がある。世にある「絵画の記号論」と称するものはたいていは強引な辻褄合わせなので、絵をちゃんと見る人にはひどく難解なシロモノになる。

必要なのは「記号の現象学」なのだ。普通の人は文字(言葉)が記号であることは理解しても、絵が記号かどうかはなかなか確信が持てない。文字と絵画の現象の仕方が異なるのはだれでも知っている。しかし、いざそれが何か問われると、知っていると思っていたことが実は何も知らないことに気付く。

記号を定義して理論を構築してもかえって迷路に嵌り込む。まず、美少女の絵や文字がどういう風に現象するか見てみよう。《犬》シリーズの美少女五人はそれぞれ個性のある美少女に見える。《月》の美少女は眼窩が凹んで白人とのハーフのように見える。《野分》の少女が一番わたしの好みに合う。風に向かって吠え、向こうを見る白目が美しい。最後の《陰影礼賛》の少女は田舎娘のようで美少女の基準に合わないような気がするが、会田の好みなのかもしれない。

それに対して文字の《美少女》は会田も言っているように概念を示すので、大きい字でも小さい字でも、あるいは上手な字でも下手な字でも概念が変わることはない。もちろん言葉の意味から注意をそらして誰の筆跡かとか、自分が好きな美少女を想像したりすれば違った意味が表れるだろう。そのときは文字を見ているのではなく、文字から意識をそらし、周辺部に意識を向けているのだ。

以上のことは、図像や文字に意識を向けている客観的態度なのだが、上に述べた「注意をそらす」とか、「周辺部に意識を向ける」などは、言わば意識を客観的態度から主観的態度に転換していると言える。これが「現象学的還元」というものだが、あまり深入りすると返って分からなくなる。事は大雑把が一番なのだ。

図像がどう見えているか文字はどう見えているか、絵と文字を比較してみよう。するとすぐに分かることは、図像を見たり、文字を読んだりすることの根底に知覚があるということだ。絵はキャンバス上の絵具を見ているし、文字は紙の上のインクのシミを見ている。基層にある知覚は絵と文字は同じだが、その知覚を超えた意識のあり方(志向性)が図像(絵)と文字(言葉)では異なっている。どう違っているか会田はもちろんよく知っている。ただ、言葉にできるかどうかは判らない。

これまでブログで繰り返し書いてきたように絵を見ることは「知覚に基づいて想像する」ことだ。自由な想像とは異なる「知覚と想像」が融合した不思議な意識が絵を見ることなのだ。

つづく

注1:キュビスムの文字は平面性の問題だ。

2013.12.13[Fri] Post 22:51  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

ホアン・ヘノヴェスのフォーマリズム

ハフィントン・ポストの《The 10 Hottest Artists At Art Basel Miami Beach》() の先頭にあげられたホアン・ヘノヴェスの《Trayecta》は不思議な魅力を持った絵だ。しばらくは目が離せなかった。横断歩道のゼブラの模様が大きくて人が小さく見える。昼間のように明るいのだが、影は太陽光の影ではなく人工光の影のよう拡散している。拡大してみると人物の体のパーツの釣り合いがおかしいので人というより絵具の塊に見える。

Youtubeにヘノヴェスのインタービューがあったので、文字に起こす。スペイン語を英語に訳したテロップを日本語にしたので分かりにくい箇所もある。それでも、日本の画家や美術評論家のように訳の分からないことは言っていない。簡単にまとめておくと、「抽象より具象のほうがフォーマリズムが生きてくる」ということになる。

これまで私はアヴァンギャルド運動に賛同したことはない。しかし、彼らに積極的な側面もあることは認めていた。常に前進していたし、何か新しいことをやろうとしていた。

私は人々と離れ孤立することは決して好まなかった。作品は人々に理解して欲しかった。少数の人しか私の作品を理解できないのは真っ平ゴメンだった。多くの一般の人々に理解して欲しかった。私の作品を見た人々の心に響いて欲しかった。この共鳴こそが人々と私を繋ぐ言わば「臍の緒」のようなものだ。

アヴァンギャルドの芸術家はこの「臍の緒」に無頓着である。彼らは自分のやりたいことをやり、それが人々の気に入れば「great!(素晴らしい)」という。

そういう一方的な遣り方は好きじゃない。ここには多分私が写真と関連付けている問題がある。誰でも写真というものを理解していると思っている。しかし、そこには切っても切れない「臍の緒」の繋がりがある。これは(モノクロ)写真のように描いているけれど、同時に写真にはない芸術的な問題も提議している。その間には(写真と絵画の間に?)処理しなければならない、そして芸術的に展開しなければならないたくさんの問題が存在する。

それに対して抽象画は同じ方向に向かってしまう。そして何かが失われる。私は心底具象絵画を必要とした。

60歳になる前に、現代絵画を論じたMoridenisの本を読んだ。絵画は家や馬である前に表面であり、絵具で汚れた四角い布だと書いてあった。この言葉を決して忘れない。そして考えた:そう、これは絵(painting)だ。人をあらわしているのか、馬をあらわしているのか、どちらでも良い。わたしに重要なのは、これが絵具のシミ(stain)だということだ。

そのシミを人のように見せるのは、その方が何だか分かりやすいからだ。もちろん別の物でも良かったのだが、人物のほうが親しみやすく安心していられる。

わたしにとって人物(person)は空間のなかの点(point)であり、そしてその空間が絵画なのだ。この空間のシミは人間の形をしている、しかし荷車でもよかった。何であろうとかまわない。空間の中の点が点以上の事物であることが大切で、そうすることが私には幸せなのだ。

絵画とは衝突であり、出会いであり、ニアミスなのだ。絵画をなにか言葉で言い表すのは難しい。複雑にしているのは画家の筆あとが見えることだ:筆あとは物語る。画家がこれを描いたのだ。それがnarrativeだ。なぜなら画家が何をしたか筆あとが教えてくれる。そうなれば、筆あとが物語(story)になる。

絵が語るものとは図像主題(イメージ)が語るものではない。そうではなく絵画が物語るのは、画家がどうやって絵画を描いたのか教えてくれるもの、Brushstrokeが語るものだ。(後は省略)




写真のところは分かりにくいが、冒頭に説明したように、外観は写真に見えるが光は太陽光で、影は人工光になっている。また体のプロポーションは崩れている。絵画は絵具のシミが見えるので写真のつるつるな表面とは異なっている。二つのことなったものが、ここでは写真と絵画が「臍の緒」で繋がっているというわけだ。

また、絵画の意味は図像主題にあるのではなく、キャンバス表面の絵具のシミ、すなわち画家の筆あとにあるという。前者は図像学(イコノグラフィー)で、後者は筆あとや空間を論じているところを見ればフォーマリズムに近いと思われる。いずれにしろヘノヴェスにはPopの要素があるのだけれど、Tokyo Popと言われる村上奈良会田には本来の意味でのフォーマリズムの側面が欠けているのは寂しい限りだ。ポップというのは社会性ともフォーマリズムとも矛盾しない。ヘノヴェスの横断歩道の絵は見ているだけで楽しくなるではないか。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2013.12.11[Wed] Post 21:47  CO:0  TB:0  ホアン・ヘノヴェス  Top▲

《上野パンタロン日記》 : 会田誠の失禁パフォーマンス

会田誠がフェミニストと論争をした。男性器は健全な感じがするけれど、女性器は不健全な感じがするという会田の発言が発端だ。以下、会田の弁解を2ちゃんねるから抜き書きしたものだが、孫引きなので正確かどうかはわからない。

『たとえば、男性器を神輿に担いであがめるのは"健全"な感じがする。しかし女性器を神輿に担いであがめるのは”不健全"な感じがする。』

『自分は性器の判断価値についてなど語っていない。』

『自分は女性を差別する意味で話をしていたのではない。』『誤解されたくない。』

『そちらの”過剰反応”だ。』

『悲しい気持ちになった』『僕は君たちと同じ立場、立ち位置で発言をしている。』

『自分は「○○イスト」の教条的な言語の使用法、思想と断固対決するために芸術家をやっている。』


どうだろう。何かちょっと引っかかるところがある。そもそも会田には議論する気がない。ただ、自分の感じていることを話している。会田が書いたものやYoutubeを見ても、会田はフェミニストのように論争に勝つための議論はしていない。表現は作品にまかせる。無防備なのだ。『悲しい気持ちになった』という表現は確かにこのフェミニストが言うように弁論術ではある。フェミニストに言ってはいけないセリフだろう。

会田は悲しんだ。それは『僕は君たちと同じ立場、立ち位置で発言をしている。』という苦し紛れとしか思えない言葉からも分かる。フェミニストには、「著名な現代美術家」と「素人同然の小娘」が同じ立ち位置であるはずがないと一蹴されてしまう。しかし、それは「誤解」だ。 会田はただ女性の立場で発言していると言っている。会田はゲイではないが、多分に女性化愛好症的なところがある。あるいは、そう演じているのかもしれない。

卒業式の前日に頭をオカッパにして下半身を裸で男根を白い布で巻いて記念写真を撮っている。結婚式では自分もウェディングドレスを着ている。それどころか『青春と変態』では湯山さんや久保さんの替りに自分が藤田くんに抱かれる想像をしながらオナニーをすると書いている。もちろんこういうことは精神分析を知っている会田のことだ、あまり真っ正直に受けとらない方がよいが、《犬》シリーズの四肢の切断はペニスの切断のメタファーだという事は言える。この四肢の切断を女性差別的な性的暴力と受けとる人がいるけれど、四肢を切断された少女を見て性的に興奮するのだろうか。日本人なら、たぶん「可哀想」と「可愛い」の対立する感情に引き裂かれるだろう。

それより自己女性化愛好症で重要なのは中学生まで続いたという寝小便のことだ。会田には《上野パンタロン日記》というビデオ作品がある。上野公園で修学旅行の中学生の団体の前で知的障害者を演じて「失禁」するというものだ。 ここで会田は重要な事を曖昧にしている。夜尿症が治った時期をあるときは中2と言いあるときは中3 と言っていることだ。わざわざ上野公園まで行って(もちろん芸大の隣すぐ側ということもあるが)、修学旅行中の中学生の前で失禁のパフォーマンスをしたのは何故か。中学生で寝小便が問題になるのは、宿泊をともなう修学旅行があるからだ。当然治った時期は正確に憶えているはずだ。

会田は修学旅行については触れていない(と思う)。そのかわりというか、カタログの解説で「今でも失禁がもたらす深い“子宮内的法悦”をよく憶えています。」と言っている。会田はこの子宮の記憶を三島由紀夫の産湯の記憶に重ねているのかもしれないが、寝小便の最中の快感だけではなく目覚めた時の冷たい不快な 感覚を憶えていないはずはない。

寝小便と立小便は対立するもので、寝小便はおちんちんがなくとも出来るけれれど、立小便はおちんちんがなければ遠くに飛ばすことができない男の子のあかしだ。会田にとって寝小便(失禁)がもたらす「子宮内的法悦」とは胎児退行ではなく女性になるということであり、失禁はいわば破水なのだ。

以上はまじめに言っているわけではなく、会田が寝小便を子宮内的法悦と言ったのを真似しているだけなのだが、おそらく会田がそのことで言いたかったのは、おちんちんが必要のない失禁のパフォーマンスによって、自分にはペニスがないことをあらためて確認して、そのことで性的快感を感じるのだろう。それを会田は「子宮内的法悦」と言い、女性器は不健全だと言った理由ではないだろうか。

精神分析というのはほとんどがトートロジーなので、何も言ったことにはならないのだけれど、これで会田がフェミニストに『悲しい気持ちになった』『僕は君たちと同じ立場、立ち位置で発言をしている。』と言った意味が、屁理屈ではあるが少しは理解できるのではないか。

《犬》シリーズの美少女は会田誠の自画像である。


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2013.12.04[Wed] Post 18:23  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

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