ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

《巨人フジ隊員VSキングギドラ》と《ラオコーン像》

会田誠の《巨大フジ隊員VSキングギドラ》をはじめて見れば、誰だって一瞬何の絵か分からないだろう。アニメの原画らしいことはわかっても、『ゴジラ』と『ウルトラマン』のキャラクタを絡ませた「春画」だとは気づくまい。

落ち着いて見ればフジ隊員とギドラが闘っている図だと分かる。最早決着は付いている。フジ隊員は腹を喰い破られ内蔵が飛び出している。ギドラの首の一つが頭をフジ隊員の性器に突っ込んでいる。逆麟になって抜けないだろう。これはただの暴虐行為で北斎の《蛸と海女》のようなエロティックなものはひとつもない。時間が停止して、死の静寂があたりを支配している。

巨大フジ隊員とキングギドラは性行為をしているのではなく、死闘を繰り広げている。だから《蛸と海女》よりも《ラオコーン像》の状況に似ていると言ったほうが良い。

「ラオコーン論争」というのがある。造形芸術と言語芸術はそれぞれ空間芸術と時間芸術であるとか、美や感情の表現にどちらが優れているとかいった美学上の論争だが、造形美術は見てどう感じるかが肝要だ。《ラオコーン像》を写真で初めて見たとき、こんな複雑で入り組んだものを大理石からノミとハンマーで削るなんて信じられなかった。しかし、歌舞伎役者が蛇を絡ませて見得を切ったような動きのないつまらない大理石像に見えた。

《巨大フジ隊員VSキングギドラ》は絵だけれど、フジ隊員の腕や脚とギドラの長い首がまるで知恵の輪のように絡みついた三次元の描写がなお一層複雑で、その技巧には感嘆するけれども、一瞬時間が止まったように尻もちをついたフジ隊員の無感動な姿がラオコーンの見得を切った姿に重なる。(フジ隊員が無表情なのはバルタン星人に憑依されているからだと後から知った)

中村光夫は三島由紀夫が筑摩書房に持ち込んだ『花ざかりの森』の原稿を読んで-120点を付けたというエピソードを思い出す。たしかに三島も会田も天才だ。そして、会田にも、三島の『仮面の告白』や『金閣寺』のような作品があるにちがいない生まれるだろうか。




スポンサーサイト
2013.09.28[Sat] Post 22:59  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

「クール・ジャパン」を巡る美術業界の争い

どうやら美術業界の覇権争いは風雲急を告げているようだ。草間彌生と高橋龍太郎が、河口湖美術館に高橋コレクション展を見に来てもらったお礼に安倍首相を官邸に訪ねたという報道があった。近頃、首相が高橋氏の個人コレクションを見にいったり、皇后陛下が森美術館に『LOVE展』を見に行かれたりと現代美術が脚光を浴びている。勿論これはアベノミクスの成長戦略である経産省の「クール・ジャパン事業」の一環である。

経産省が出している「クール・ジャパン情報」のポータルサイトにはコントリビュータとして三潴末雄(ミズマアートギャラリー)と南條史生(森美術館館長)の名前が出ている。三潴氏は避暑中の安倍首相にゴルフ三昧ではなくたまにはアートを見に行ったらどうかと薦めたり、官邸は日本画ばかりではなく現代美術も飾ったらどうかと提案しているとツイートしている。森美術館は批判を覚悟で会田誠の『天才でごめんなさい』展を開催した。

他方で椹木野衣は『ARTiT』の連載《美術と時評》で『天才でごめんなさい』展は失敗だったと批判している。というのも「性と引用」は会田芸術の本質的な問題にもかかわらず、児童ポルノ疑惑や著作権侵害疑惑に対して会田本人も美術館側も真摯に答えていなかったというのだ。しかも、キュレイターの片岡真実が自分の著作から無断借用をしたとか、会田の芸術家としての戦略が誤魔化しだとか、巡回展はどこも引き受けなかったとか、仕舞いには、絶賛しているのは「美術関係者」や「文化人」で美術評論家ではなかったような、いやみとしか聞こえないことを言っている。それを読めば、口に出して言わないけれど、クール・ジャパンの利権を巡る「美の商人」(藤枝晃雄)たちの争いが背後にあることは想像がつく。

クール・ジャパンから外されているといえば村上隆だろう。『ヴェルサイユ宮殿』展でもドーハの『Ego』展でも村上は日本の美術館からは声をかけられていないと言っていた。また、「クール・ジャパン」なんて外国では誰も知らないと悪口さえ言っていた。クール・ジャパンという言葉をはじめて聞いたのは山口裕美の『クール・ジャパン』を読んだときだ。「現代アートのチアリーダー」と称している山口は自分で設けたクールジャパンの賞の選考で、断固として村上隆は選ばないと主張していた。その山口裕美がこのまえ「チャンネル桜」のクール・ジャパンをテーマにした討論番組に出ていた。

ともかく美術業界のことはよく知らないけれど、値付けの問題と考えれば目下起きていることはわかりやすい。かっての日動画廊と公募展団体を中心とした『美術年鑑』の号何万円の値付けから、バブルのころはオークションに主導権が移りかけたが、バブル崩壊によってウヤムヤになってしまったような気がする。しかし、ネットを見れば、美術業界の変化が感じられる。茂木健一郎が日展二科展は芸術とは関係ないと高校生にアドバイスしていたし、村上隆は公然と日本の美術に投資してはいけないと反旗をひるがえしている。ワコーなどのオークション業界は元気が無いようだけれど、ミズマなど積極的に海外の市場を開拓しているギャラリーもある。あるいは高橋龍太郎のようなコレクターが積極的に日本の現代美術に投資しているのもこれまではなかった日本の美術業界の新しい動きだ。

もちろん「クール・ジャパン」は産業政策だけではなく、芸術の問題でもある。ここで話は振り出しに戻る。ミズマ末雄や森美術館の南條史生がクール・ジャパンのコントリビュータになっている話だ。そうなれば会田誠が有力な対象者になりそうだが、本人はなるはずはないと思っている。田中功起が出品したヴェネチア・ビエンナーレの日本館が受賞したことを受けて、小松崎拓男がTOKYO POPの時代が完全に終ったと言う。村上隆、奈良美智、会田誠らが牽引した時代は終り、会田誠の森美術館の個展が最後の華だった。これは新コンセプチュアル時代の幕開けであると小松崎はツイートする。それに対して村上奈良美智(2014/8/31訂正)はTOKYO POPはおわったのではなく、定着したのだと反論する。椹木野衣は会田は歴史の評価を経ていないのでまだ世界標準で芸術とは認められないと言外にクール・ジャパンの対象にするのに反対したい様子だ。

難しい議論はともかく、日本の性文化こそクール・ジャパンにふさわしい。性文化といえば春画だろう。そういうわけで、ひとまず東京オリンピック2020年にはクール・ジャパンの目玉として葛飾北斎・会田誠の二人展を開催することを提案したい。会田誠の春画は児童ポルノではないし、北斎の春画は女性が一方的に虐げられていたわけではない、むしろ女性が男を性の道具にしていたことも世界の人々に分かってもらえる絶好の機会となる。

2013.09.22[Sun] Post 22:03  CO:0  TB:0  クール・ジャパン  Top▲

世界文化賞 絵画部門=ミケランジェロ・ビストレット 彫刻部門=アントニー・ゴームリー

いつだったか「アート・オブ・アワ・タイム」(世界文化賞受賞者展)を見に行ってがっかりしたおぼえがある。ちょっと面白いと思ったのはデ・クーニングの《女》ぐらいだった。バルチュスの作品なんかは私には未完成にしか見えなかったけれど、まさかそんなことはあるまい、そいういう風な作品なんだろうと思った。

今回の受賞者は、ネットで写真を見ただけだけれど、彫刻部門のアントニー・ゴームリーの作品などは近頃のオブジェではなく、正統的な彫刻になっている。自分の身体を石膏で型どりをしているのだというが、コピーでもアリズムでもない。感情や表現や運動を削り取ってあくまでも「像」を作りだそうとしているようにみえる。

それに比べ絵画部門のミケランジェロ・ビスレットは凡庸なアーティストに見える。鏡面仕上げにしたステンレスに鏡に写ったような絵が描かれ、さらにそれを見ている人を描いている。「絵の中と絵」と「鏡像」を二重三重にしている一種の「だまし絵」だ。それはそれで騙される面白さがある。しかし、アルテ・ポーヴェラだという《ぼろ切れのヴィーナス》は、どんな理屈をつけようとも、あまりにも陳腐な組み合わせではないか。

絵画でもない彫刻でもない「オブジェ」が蔓延している中で、画家より彫刻家のほうがオブジェ化に抵抗して、「像」の探求を続けているような気がする。オブジェの始祖であるデュシャンやジャッドが画家であった事からも 分かるように、彫刻がどちらかというと知覚が優勢なミディアムなのに対して、絵画はもともと想像のミディアムなので、どうしても画家は、特に才能に乏しい画家は、アヴァンギャルドとしての反絵画に陥りやすい。

この反絵画は、抽象画、反イリュージョニズム、オブジェ、ミニマル・アート、コンセプチャル・アートなどに展開する。会田誠は2010年の某インタービューで自分は絵描きではなく、コンセプチャル・アーティストだと答えている。会田のコンセプチャル・アートというのは、コスースの知覚する「オブジェ」さえ存在しないようなコンセプチャル・アートではなく、コンセプトを図解(イラスト)するという意味でのコンセプチャル・アートだったり、美少女のイラストの代わりに「美少女」と言う文字(概念)を使い、それを《I-DE-A》とタイトルを付けたりすることだ。会田誠の発言はいろいろと変わるので何事につけても先のことはわからない。近頃は抽象画に挑戦している。
2013.09.18[Wed] Post 23:43  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

「イタズラ描き」と「自家製ポルノ」--会田誠の画家としての原点

会田誠は自分の画家の原点は「漫画」だと言っているのだが、本当の絵描きとしての原点は「イタズラ描き」と「自家製ポルノ」と言ったほうが真実に近い。

「自家製ポルノ」は正確に言えば中学生会田誠の「自家用のための自家製ポルノ」なのだが、会田の画家としての基礎を形成している。大場久美子の水着姿の写真を削って裸にしたのが最初で、それで写実の技を磨いたという。 この精神は《あぜ道》や《滝の絵》に生きている。《滝の絵》はエッセイ『公開制作もうイヤだ!』(注1)に詳しいけれど、まさに「自家製自家用ポルノ」のノリで制作されている。

椹木野衣(注3)は会田の児童ポルノ疑惑の例として《犬》シリーズをあげている。しかし、会田はカタログの解説で、《犬》シリーズは「作品の題材を『自分』限定から、様々なレベルにおける『我々』に変換する」と言っている。《犬》シリーズは自家用ポルノではなく、むしろ販売用芸術、あるいはいっそうのことアンチ・ポルノと言ったほうがいいのかもしれない。児童ポルノ禁止法について会田は「空想した者ではなく実行した者の刑を重くしてゆくしか打つ手はないと思う」(注2)と常識的な考えを述べている。

児童ポルノ禁止は児童虐待の問題なのだから、非実在の絵画の性的表現を擁護するのがむしろ美術評論家の努めだろう。それを、椹木野衣はわざわざ「児童ポルノの適用範囲を非実在の図画対象まで拡張」して、会田や森美術館に記者会見をして説明責任を果たせと言うのは怪訝である。まぁ、それはそれで良しとしよう。それより美術評論家としていささか疑問なのは、ポルノの問題を「芸術か猥褻か」の問題にしていることだ。ポルノは芸術的価値とは関係がない。欲望を刺激できるかどうかでポルノの価値は決まる。

もちろん春画にはいろいろな楽しみ方があって良い。江戸時代の春画は売れるか売れないかで価値が決まった。それが『自分』限定から『我々』に変換するということだ。「人々」ではなく「我々」なのは画家自身も含まれているからだ。自家用から販売用への変換だ。そうであれば、デザインの優れた歌麿を好む人もいるだろう。笑いがあるのが好きなひともいる。真っ裸の北斎がいいという人もいる。いや、いや、若衆が良いというのもいる。そもそも女と男では好みが違う。

北斎の《蛸と海女》は女性の白昼夢を描いた女性用の春画とも言えるし、不能になった北斎の妄想ともいえる。会田にはこの北斎の春画とアニメを組み合わせた《巨大フジ隊員VSキングギドラ》という実質的なデビュー作がある。高度な技術には驚嘆するけれど、ポルノグラフィーとは言えない。《ジューサーミキサー》や《犬シリーズ》ならSMとしてエロに感じる人もいるだろうし、あるいはグロとして喜ぶ人や嫌悪する人もいるだろう。しかし《巨大フジ隊員VSキングギドラ》にはエロティックなものもグロテスクなものもない。フジ隊員は尻もちをついているのだが、空中に浮いているようにも見える。目を大きく開き、涙がひとすじ溢れているけれど、無表情である。腹を喰い破られ内蔵が飛び出ている。キングギドラの一つの首がフジ隊員の性器に頭部を突っ込んでいる。血は流れていない。車の事故が起きているが、街には人影はない。時間が停止しているように見える。

ドキュメンタリー・フィルム《駄作の中にだけ俺がいる》で会田が《滝の絵》を描いている。その映像に重ねて会田のナレーションが「絵は人が見ることによって得られるある種の快楽を刺激するサービス業だと思っている」と言う。「ある種の快楽」とはもちろん第一義的に性欲のことだろうが、ここで重要なのは絵描きはサービス業だと言っていることだ。会田は自分のためではなく、お客さんのために絵を描くプロの絵描きだと、「自家用ポルノ」から「販売用展示用ポルノ」へのサービス業宣言だ。横尾忠則は画家宣言をしたが、会田誠は反対にサブカルチャー宣言をしたことになる。

会田には《わたばバルチュスになる》という駄作系の作品がある。バルチュスは名前を売るために猥褻なシチュエーションの美少女を描き、地位を築いてからスイスの山で毎日美少女を呼んで絵を描いたという。会田には《愛ちゃん盆栽》でわかるように隠居願望があるけれど、これは「自家用ポルノ」への回帰願望だ。また、会田はヘンリー・ダーガーにしばしば言及している。ダーガーへの関心は、自分が性犯罪者になったかもしれないという恐れや、児童ポルノ製作者の嫌疑をうけたことも理由だが、それよりも、ヘンリー・ダーガーが「自家製自家用ポルノグラファー」として人生を全うしたことにたいする羨望ではないだろうか。

「自家製自家用」は「イタズラ描き」にもある。と言ってもイタズラ描きは何かの用に供するものではない。それがデタラメな線でも「へのへのもへじ」でも文字でも模様でも、何かを再現(リプレゼンテーション)するためではない。マスターベーションに利用するわけでもないし、人に見せるためでもない。精神分析家がもっともらしく何か言おうと思えば言える。しかし、イタズラがきは何も表現しない。アクションの軌跡でもなく、深層心理の指標でもない。ただのイタズラがきである。誰だって、教科書や机にイタズラがきをしたことがあるだろう。これは一種のヒーリングなのだ。ADHDだったという会田がイタズラがきに夢中になるのは想像にかたくない。

私はここで会田の精神分析をしたいのではない。そうではなく、会田が絵をどう捉えていたか、あるいは画家になることをどう考えていたのかを知りたいだけだ。「イタズラがき」には具象的なものと抽象的なものがある。具象的なイタズラ描きはヘタウマの漫画や駄作系の作品になっている。「駄作の中にだけ俺がいる」というわけで、《濃かれ薄かれみんな生えてんだよなァ・・・・・》の傑作が生まれる。これは《あぜ道》や《滝の絵》のように「失われた時を求めて」ではなく、東京に出てきてからの経験だろう。横断歩道を横に広がって小中高OLと和服姿の女性五人が渡ってくるのをローアングルで描いている。みんな口が曲がって、あー怖い。OLはムダ毛を剃ったあとにちょろちょろと毛が生えていてちょっと笑える「反美少女の世界」である。

抽象的なイタズラ描きは当然抽象画になる。例えば哲学の文庫本のページにイタズラ書きをした《美術と哲学1 判断力批判批判》という作品がある。おそらく『アートで候。』展の「浅田・岡崎批判」がきっかけだろう、抽象画に挑戦するようになった。『美術手帖』の企画で辰野彦坂古谷の三氏に抽象画を教えてもらう座談会を開いた。そのあとは抽象表現主義なのか、あるいはアクションなのかパフォーマンスなのか抽象画のパロディのような絵を描いている。パロディならたけしの機械仕掛の《Monsieur Pollock》のほうが画家の主観性を排除して断然面白い。

会田が抽象画に挑戦している真意は分からない。グリーンバーグを変なオジさんといい、抽象表現主義を嫌っている。しかし、《1+1=2》はデ・クーニングの「女」を文字記号に置き換えたらどうなるかをシミュレーションした作品とも言える。《女》は線一本でも空間のイリュージョンが生まれるが、文字は識別されるだけで空間のイリュージョンは生じない。このイリュージョンがグリーンバーグの「帰する場所なき再現性」(homeless representation)なのだ。この辺りのことは会田のこれからの作品を見ていかなければならない。といっても会田は「モンドリアンのように前進する画業」の画家ではない。「自家製ポルノ」と「イタズラ描き」から始まり、紆余曲折を経てついに抽象画にたどり着いてメデタシめでたしのお伽話は会田にはない。

会田はモダニズムを理解しない。反対に、モダニストはイラストを認めない。両者のあいだには越えられない溝がある。それなら素朴な質問から始めよう。人はなぜ絵を描くのだろう。あるいはまた、人はなぜ絵を見るのだろう。会田誠は言う。「絵は人が見ることによって得られるある種の快楽を刺激するサービス業である」と。会田の発言はポルノにかぎったことではない。画家という職業の根幹にかかわる問題だ。マチスは同じようなことを『画家のノート』(注4)で言っている。有名な言葉だからそこを引用する。

私が夢みるのは心配や気がかりの種のない、均衡と純粋さと静穏の芸術であり、すべての頭脳労働者、たとえば文筆家にとっても、ビジネスマンにとっても、鎮静剤、精神安定剤、つまり、肉体の疲れをいやすよい肘掛椅子に匹敵するなにかであるような芸術である。


「肉体の疲れをいやすこと」と「快楽を刺激すること」とは随分と違うような気がするが、快楽も癒やしも見ることでて得られるサービスだ。理屈で得られるものではない。会田の「イラスト(ポルノ)」は分かりやすい。コンセプチャルなものなら理屈が役立つこともある。それに比べてマチスに理屈は役に立たない。マチスの平面性はキュビスムの平面性より難しい。ドローイングのデフォルメが分かっても、そこに色が加わると分からなくなる。顔にも手にも表情がないけれど表現はある。見続けると、ある日突然マチスを見ることが快感になる。そして翌日はその快感は消えている。そのうちマチスをみることが疲れを癒やしてくれるようになる。

藤枝晃雄は見ることと知ることの倒錯を戒めている。浅田や岡崎は理論を偏愛している。それに対し会田やマチスは絵は見ることによって快楽や癒やしが得られると言っている。しかし、モダンとポスト・モダンは理解しあわない。快楽と癒やしは同じ感覚とは言えないが、《滝の絵》は快楽を刺激もするが、少し離れて見れば「癒やし」の絵でもあるのだ。ルノワールの少女たちは男に見られていることを意識しているけれど、会田の少女たちは男を意識していない。《あぜ道》のお下げの少女は自分の「いやらしさ」に気付いていない清純な少女である。《あぜ道》も《滝の絵》も会田の「失われた時を求めて」なのだ。

それならマチスは同じ見ると言っても何処が違うのか。イラストは何が描かれているのかを見るけれど、モダニズムの絵画はは如何に描かれているかを見る。フォーマリズムだ。モダンとポスト・モダンの争いは複雑怪奇というべきで、ちょっとやそっとでは整理がつかない。会田誠も浅田・岡崎批判をしたのはいいけれど、要領を得ないまま終わってしまった。それでも会田は抽象画に挑戦している。どうなるかしばらく待つしかないだろう。


注1:『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』に所収
注2:『マルクスの奥にエロがあった』(『カリコリせんとや生まれけむ』所収)
注3:ARTiT 連載 椹木野衣 美術と批評 : 絵描きと「贋金つくり」-会田誠「天才でごめんなさい」
注4:『画家のノート』みすず書房

スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2013.09.12[Thu] Post 08:09  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。