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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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①『会田誠展 : 天才でごめんなさい』(森美術館):会田誠は堕落したのか

『会田誠展:天才でごめんなさい』は森美術館が企画立案した会田誠売り出しのイベントだろうから、とやかく言うつもりはない。会田氏は芸術をビシネスにすることをしきりに照れているけれど、「エロ・グロ」も「画壇への反抗」もビジネス上の戦略だったわけだし、それはそれなりに成功して、《あぜ道》が中学の美術の教科書に掲載されるまでになった。しかし、同じ理由でメジャーにもなれない。

このジレンマを逃れるために今回のイベントがある。具体的にどんな戦略なのか仔細はわからないが、会田誠がカイカイキキに近づいているのもその一環だろう。まあ、そんなことは余計なお世話だろうから、以前からなんとなく感じていたことだが、この展覧会ではっきりしたことがある。それは会田誠はじつは絵がわからないのではないかという疑いだ。

会田誠は確かに絵が上手い。展覧会のサブタイトルに「天才でごめんなさい」と言っているのだから、それがギャグになるぐらいには自分の技巧に自信があるのだろう。美少女などはそういう趣味の人たちに、オタクかどうかは知らないが、おそらく人気があるのだろう。しかし、ルノワールのロリータ趣味なら分からないではないけれど、会田の美少女はただの「ションベン臭い田舎娘」にしか見えない。ところが、その化粧っけのない顔が余計に興奮すると愛好家はいう。

これは趣味の問題だからいろいろあっていい。「エロ」ばかりか「グロ」もある。ゴキブリと美少女の正常位や手足を切断されて監禁された「犬」シリーズ、どちらもチラリと見ただけで気分が悪くなる。美少女モノではないが、会田誠にはスカトロジー趣味があるが、それもアブジェクトアートのようなこれ見よがしの醜悪さまではない。

美醜や図像主題の問題はどちらにしろイラストの問題だが、それよりも「美少女」で気になるのは「芸術」の問題だ。芸術といえば大袈裟だが、一言で言えば会田誠は絵が下手なのではないか、あるいは絵が分からないのではないかという疑いだ。

そう思ったのはサポーター特典でプレゼントされる限定エディションの《Jumble of 100 Flowers》()を見たときだ。すぐに国立新美術館で見たピカソの《海辺を走る二人の女(駆けっこ)》()を思い出した。もちろん二人の女が駆けているところが似ているのだが、それより《駆けっこ》と比較して《Jumble》の少女があまりにみすぼらしいということだ。といっても、《駆けっこ》の女はボリュームが有り、《Jumble》の少女が肉付きが悪いということではない。そうではなく平面性だとか漫画だとか少女だからだとか言い逃れができないほど魅力のない線だからだ。
                                                 
《Jumble》のつまらなさはどこからくるのだろう。たぶん会田誠はあまりヌード・デッサンをしたことがないのではないか。彼の描画の線は「漫画の描き方」を勉強したような、どれも同じような線なのだ。《Jumble》の二人は別々に描いた少女をあとから組み合わせたような緊張感のない空間になっているけれど、《駆けっこ》の二人が造る空間は捩れ歪み湾曲して緊張のある空間を生み出している。

会田誠は抽象画が描けないと嘆いていたが、おそらく(ヌード)デッサンも苦手にちがいない。だから会田誠は《ジューサーミキサー》や《灰色の山》のように無数の人間を重ねて描いたり、《滝の絵》やこの《Jumble of 100 Flowers》のように同じような体型の少女をペタペタと貼り付けたようにたくさん描くのだろう。何処と言って取り柄のない類型化された美少女でも大画面にたくさん描けば、それなりに華やかに見える。しかし、その中の二人を取り出して描いた限定エディションを見れば、絵が下手なことは歴然としている。

会田誠は絵が下手である。そのことは会田自身も認めていることなのだが、会田誠が上手い画家として挙げるのはいつも山口晃なのだ。いま日本で自由自在に人物が描けるのは山口晃ぐらいだと言っている。ところが、その山口晃も新聞の挿絵などを見れば魅力的な線が描ける作家ではない。山口晃もまた本当の意味でヌードデッサンをしたことがないのかもしれない。

このことから会田誠は絵が分からないのではないかという疑念が生まれる。次回はそのことを考えてみたい。


つづく

      
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2013.02.24[Sun] Post 20:35  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

【1】佐々木健 《These / Foolish / Things》 (青山|目黒) : 「現物とも写真とも違う変なもの」

《OnStream》の映像は一昨年同じ『青山|目黒』で開催された佐々木健の個展『スティル ライブ』でした。《These / Foolish / Things》は現在開催中の展覧会です。ギャラリーからの案内メールで気づきました。ひとまず、『スティル ライブ』の批評を書いて、その後《These / Foolish / Things》について書きます。

YOMIURI ONLINEの《OnStream》で佐々木健のインタビュー映像が見られる。まず、それを見て欲しい。


          ※     ※     ※


佐々木健は近頃めずらしく画家の言葉を話す画家だ。といっても佐々木健の実作を見たわけではない。見なくても、彼の「現物とも写真とも違う、抽象的な広がりのある変なものを描く」という言葉を聞けば、佐々木が紛れもなく絵描きであることが判る。

「へんな」といえば、山口晃の『ヘンな日本美術史』()を思い出すが、山口の「ヘンな」は「図像主題」がヘンだということで、佐々木健の方は「描写」が「ヘンな」のだ。それは今まで見たこともない、どこがおかしいのかさえよく分からない違和感のことだ。現物や写真の情報を油絵に移していく事によって、現物でもない、写真でもない、そして絵画でもない変なものができあがるという。

写真と絵画の関わりで言えば様々な『変なもの』がある。

高島野十郎の桃や茶碗の絵は、まるで現物がそこにあるようなリアリズムである。リアリズムの魅力を超えて現物が持つ高貴な凡庸さに至っている。ルシアン・フロイトの流し台や窓の外の風景を思い出す。()

ゲルハルト・リヒターのフォトリアリズムの絵画は、浅い被写界深度やブレを使い、それを写真に撮って印画紙にプリントする。写真とまったく区別がつかない。()

鴫剛のファトリアリズムは、アマチュア写真家が「芸術的な」アングルで撮ったモノクロ写真をインクジェット・プリンターで拡大したような絵画である。()

逆に、絵のような写真、すなわちピクトリアリズムの写真がある。たとえば、雑巾がけと称して、プリントした印画紙を雑巾で擦ってソフトな印象に仕上げる。森山大道の硬調の粒子の荒い写真も一種のピクトリアリズムと言えるだろう。()

上田薫の《なま玉子》シリーズは写真とイラストを融合したようなスタイルである。()

写実ということから絵画を見なおせば、古典名画は絵具を絵具で隠す事によってリアルな描写をした。ところが絵具を見せることによってリアルな表面を描写した画家もいる。たとえばレンブラントのゆるい絵具を顔や手やショールに盛り上げた《老婦人の肖像》は少し離れて見れば写実的な描写に見える。(

もう少し洗練された細密描写にヴェラスケスの《エル・プリモ》がある。エル・プリモが抱えている書物の文字が細かく一文字ずつ緻密に描かれているように見えるけれど、近づいて見ると大雑把に濃淡がつけられているだけなのだ。ヴェラスケスの金属の反射や絹織物の光沢などハイキーを巧みに使ったリアルな再現描写がある。(

最後に写真と絵画の関わりで忘れてならないのは、カメラ・オブスクーラを使ったといわれるフェルメールの作品だ。それはなによりも縮小された映像の美しさの再現に熱中したのであって、写真的なるものと絵画的なるものの絡み合いが面白かったわけではない。画家たちはカメラ・オブスクーラの映像と実景を比較しながら油絵を描いたのだから、技術的な意味では佐々木健の現物と写真を使った手法と一番似ていると言える。

実作を見なければ佐々木健の「ヘンな」ものがどんなものか判らない。かれは映像作家でもあった。映像を停止させ絵画にしたいと思った。音響装置は自分のもの、レンタルのも、貸しスタジオの機材を写真に取ったもの。ネットで探したもの、それらの「情報」を油絵具に置き換えて行く。その時間の集積が現物とも写真とも言えない抽象的な広がりのある変なものになっていく。

佐々木健はキャンバスの上でモンタージュするまえにPhotoshopでモンタージュしているのかもしれない。映像作家なら当然そうするはずだ。いっときPhotoshopのフィルターでイラスト風に加工して、それをアクリルでキャンバスに描いた作品が流行したことがある。そこまではしなくても、弱くシャープを掛けたり、少しノイズを加えたりしてその効果を確かめて、キャンバスに写すこともできる。もちろん機械的な加工を加えるだけではありきたりの効果しか得られない。手で歪みを加えることも必要だ。

ビデオで作品を見た限りでいうと、減感撮影をしてローキーのような調子をだしている。また、レンズのハレーションを描いているので、それは現物ではなく写真を使ったということなのだが、ちょっと写真雑誌の投稿欄みたいで感心できない。いずれにしろ、微妙な描写の質が問題なのだから、実作を見ない限り何も言えない。

ここで述べていることは、『絵画の現象学』()に基いていることは言うまでもない。参考のためにHPから『写真はインデックス記号か?』()も転載しておいた。ポストモダン系のデタラメな記号論風写真論にはくれぐれも注意!


     ※     ※     ※


次回は、佐々木健の今回の個展《These / Foolish / Things》の批評をする。

 


上の写真はネットで見つけた佐々木健の作品だが、解像度が低いので細部が見えない。しかし、展覧会の案内絵葉書を見ると、テニスボールの毛羽たちやキャンバスの網目が見分けられる。さらに、ニョウボに注意されてメールに添付された写真をダウンロードして拡大してみたら、驚くべき事実を発見した。ちょっと大げさだけれど、次回を楽しみに。



注)ゲルハルト・リヒターはフォトリアリズムの絵画を描くということは、自分をまったくの機械にすることだといっている。佐々木健は写実的な絵を描くことの喜びを知っている。高島野十郎になる危険。

2013.02.04[Mon] Post 02:03  CO:0  TB:0  佐々木健  Top▲

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