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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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写真はインデックス記号か?

 これは「バルト批判」のつもりで書きはじめたものだが、中途半端に終わってしまった。バルトは写真を記号学的に分析すると言いながら、記号学的修辞で飾り立てた古典的な図像学を開陳している。図像学は宗教画を主として対象にするのだが、彼の映像の修辞学と称するものは、宗教画の代わりに広告写真を対象にしたイコノグラフィーである。ご存知のように広告写真と宗教画は同じ目的をもっている。
       
      (ホームページ『絵画の現象学』より転載)

*  *  *

 写真の本質は「それはかってあった」だと、バルトはいう。写真は常に実在を示すが、絵は、ケンタウロスであろうが、リンゴであろうが、「それはかってあったもの」ではない。もちろん絵も、今そこに存在するがごときイルージョンを呼び起こすことはできるけれど、「それはかってあった」ものではない。ラスコーの洞窟画は、写真に負けない迫真性をもっているし、そこに描かれている野牛は、「かって存在していた」と考古学者は推測するだろう。しかし、その野牛は想像上の動物かもしれないし、たとえ存在したとしても、そこに描かれているとおりの、具体的な個体として、その野牛が存在したわけではない。図像の迫真性と対象の実在性とは別であり、絵は実在に達することはできない。
 絵は、それがどんなリアルな写生画でも、絵筆によって描かれたものであり、画家の想像力がしみ込んでいる。それにくらべ、写真はいわば指紋であり、いくらボケていても証拠になる。ネス湖の恐竜も空飛ぶ円盤も、そして雪男も、写真があるから実在するというわけだ。
 天使は写真に写らない。写真に写るのは眼にみえるこの世の事物だけである。したがって、すべての写真の被写体は存在する。これは写真である。ゆえにこの被写体は存在する。この三段論法によって、写真は魔術になる。たんなる描写のリアリズムを超えて、写真は、実在を付与する呪術的リアリズムとなる。
 写真は誕生したときから特権的な図像であった。たとえば、ダゲレオ・タイプは、鏡に写った像を、そのままガラス板に定着したように思えたし、また、写真を撮られると、自分の表皮が剥がされて、寿命が縮まると、おそれる者もいた。これは写真画像が、絵画とくらべてよりリアルで迫真的であったことはもちろんだが、それよりも、写真が機械的化学的操作で生み出されたからである。写真師が、まるで手品のように、暗箱から写真をとりだす。写真の魔力は、リアルな迫真的描写ばかりではなく、逆説的なことに、写真が反魔術的な科学的データだということから生じたといえる。
 記号論者のパースは、写真が絵画の仲間ではなく、足跡指紋の仲間だと考える。まず、記号をイコンとインデックスとシンボルの三つに分け、絵をイコン(図像)に、写真をインデックス(刻印)に、そして、言語をシンボルに分類する。インデックスとは対象と実在的連関のある記号のことである。写真は足跡のように直接の接触によって出来るわけではないが、事物に反射した光が、レンズを通しフィルム上に結んだ像を、銀化合物で写し撮ったものだから、写真は事物の薄膜を剥ぎ取った光のインデックスなのである。
 たしかに、写真の起源はインデックスである。ニエプスが世界ではじめて撮った窓外の風景は、影絵のように階調性に欠けていたし、同じ頃、イギリスのタルボットは、銀化合物を塗った紙の上に、直接、木の葉やレースをのせて、フォトグラムを作っていた。後にマン・レイが再発見するフォトグラムは、写真がイコンではなく、インデックスであることを示している。
 たしかに、写真が証拠になるのは、インデックスだからだ。しかし、それだけでは写真の魔力、不在のものを眼前に髣髴と呼び出す魔力を説明することはできない。もちろん、インデックスにも対象の姿かたちを示す図像性がある。砂浜に付いた足跡は左右凹凸が反転しているけれど、足に似ているし、紙に押した手形は、二次元だけれど白黒二階調の手の形をしている。しかし、どちらも写真の特徴である陰影濃淡の階調性はない。これはデスマスクを見れば、なおはっきりする。白い石膏のデスマスクは実物の大きさ凹凸を正確に再現しているけれど、それがいったい誰なのか、鼻や顎などの部分々々の特徴をくらべて、かろうじて推測できるだけで、まとまった一人の顔として認識するのは難しい。しかし、写真なら、誰だかすぐに分かる。ほくろも傷もある、一人の特徴ある人間の顔として記憶も出来る。写真には他のインデックスとは違う陰影濃淡があり、知覚されたものと同じ階調性がある。写真は、絵画がながいあいだ望んでいた、イリュージョニズムを実現したハイパー・リアルな図像である。写真はインデックスでもあるし、イコンでもあるのだ。
 写真の真理は二重である。一つは図像、すなわちイメージとしての真理であり、いっさいの前提なしに一枚の写真を眺めるときに現れる真理、写真のリアルで細密な再現表象の真理であり、被写体が、あたかもそこに存在するかのように現出していることである。もう一つは光学的化学的な真理、すなわちレンズの屈折や、感光乳剤の化学反応の真理であり、画家の手ではなく、まったく物理化学的な過程で作られた画像の客観性である。後者のインデックスの科学的真理は、本来は脱魔術的なもので、イコンの図像的魔力に反するのだけれど、化学がまだ魔法から抜けきらなかった時代に、写真を撮ったり、撮られたりする写真実践の繰り返しの中で、歴史的に沈殿した制度として、イコンとインデックスが一つに融合して写真の真理となったのである。
 バルトはこの写真の真理を「それはかってあった」だと言うのだが、それは自分の母の写真を見て、母を追慕しているのであり、バルトの母親を知らない者は、そこに過去を見るとはかぎらない。日常の生活では、写真はたいてい過去ではなく現在を示している。パスポートの顔写真は写真を撮った三ヶ月まえの顔ではなく、いま現在の顔だし、観光ポスターのエッフェル塔は、いまパリに立っているエッフェル塔である。もちろん写真に過去を見ることもある。たとえば、被写体の人物がすっかり変わり果てた姿をしていたり、写真そのものが古びたセピア色だったりすれば、「それはかってあった」という意識が伴うだろう。古いアルバムを見れば、まだ若い頃の自分や家族たちに出会うわけだし、また、その中の一枚の写真に没入するなら、過去意識は薄れ、その写真の中の〈今に〉生きることになる。写真の時間意識は、さまざまに変容するのであって、バルトがいうように、写真の本質が「それはかってあった」だとは一義的にいうことはできない。
 絵画をふくめた図像一般の時間構造は、基本的に今と過去と過去完了(場合によっては未来完了)である。たとえば、ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」は、美術品としてルーブル美術館にいま展示されている。そこには過去の出来事があたかもいまそこで行われているかのごとく、迫真的に再現されているのだけれど、そこに描かれている〈出来事の過去〉の他に、絵画には、絵筆のタッチという別の種類の過去がある。恐竜の足跡が、恐竜の歩行の軌跡であるように、タッチは画家の手の動きの軌跡であり、画家の手の運動を記憶している。したがって、「ナポレオンの戴冠式」には、ダヴィッドが絵を描いた時間と戴冠式が行われた時間のふたつの過去があることになり、絵画のタッチは、いま、知覚されている絵の具という物質であり、この今の知覚対象を媒介にして過去が志向されているのだから、〈絵画制作の過去〉は現在完了であり、戴冠式そのものは絵画制作より前の過去、すなわち過去完了ということになる。
 ところが、写真にはこのタイム・ラグがない。もし、「ナポレオンの戴冠式」が写真なら、写真制作と戴冠式の時間は同時であり、シャッターが押された瞬間に、乳剤が感光し、戴冠式の画像が定着する。しかも、写真の表面には、絵筆のタッチのような、偶然的なものはなく、印画紙の表面はなめらかで、乳剤が感光した痕跡はどこにもない。したがって、写真の過去は単純過去であり、絵画のように過去が二重構造にはなっていない。
 写真の真理は二重であり、写真と絵画を分けるのは、写真が単純なイコンではなく、インデックスでもあったからだ。ところが時間構造の分析では、イコンであるはずの絵画にはインデックスの複合過去があり、インデックスであるはずの写真にはインデックスの複合過去がないという反対の結論に達した。いったい写真にインデックスの真理を認めたのは間違いではなかったのか。
 写真を含めた図像の時間性は複雑多岐にわたっており、図像には、知覚はもちろんのこと、想起や想像や記号意識などが複雑に絡みあい、個人的な写真経験だけではなく、百六十年の写真の歴史が沈殿している。純粋な視線などというものはないし、見ることを完全に純化することも出来ないけれど、写真の真理をしるために、まず、写真の特権を剥奪し、写真と絵を区別しないことである。写真とは、印画紙の表面に現れた図像のことであり、それ以外のもの、現像やプリントの過程、カメラの構造原理などは、いっさい根拠を持たない。あたかも写真をはじめて見た人間のように写真を見ること、ラスコーの洞窟の住人のように写真を見ることから始めなければならない。
 写真はインデックス記号ではない。幸いというべきか、コンピュータの画像処理の発達で、写真の証拠能力がなくなってきた。写真が証拠になるのではなく、写真のほうが、真理であるために、証拠が必要になったのだ。
 ゲルハルト・リヒターは、写真がインデックス記号ではなく、ただ、写真様式で描かれたイコン記号だということを示しているのだ。
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2013.01.30[Wed] Post 16:20  CO:0  TB:0  絵画の現象学  Top▲

『クレメント・グリーンバーグのコレクション』:工芸性について 


アマゾンで画集『clement greenberg a critic's collection』を見つけて購入した。かねてから、グリーンバーグがどんな作品を評価していたのか知りたいと思っていた。

有名なエピソードに、本来ならば彼が評価すべきステラを評価出来なかったのは、グリーバーグのモダニズム理論の限界だと、たとえばロザリンド・クラウスなどが批判したということがあった。私はステラの《ブラック・ペインティング》が知覚の優勢な、矩形の平たいリテラルな物体だと思っていたので、グリーンバーグのステラ評価は妥当なものだと思っていた。

ところが、この画集のグリーンバーグのコレクションを見ると、抽象表現主義ではなく、リテラルとまでは言わないけれど、知覚が優位な物体的な絵画が多い。

下のオリッツキーの作品は絵具が盛り上がって、工芸品の鎌倉彫のように見える。





               Jules Olitski's Noble Regard, 1989


他にも、Larry PoonsやDarryl Hughtoの絵具が盛り上がった作品や、Piero DorazioやDarryl Hughtoの工芸的な表面の作品がある。もちろん、イリュージョンが見える平面的な抽象画もコレクションされている。

画集を見ての最初の印象は失望である。グリーンバーグといえば抽象表現主義のペインタリーな作品を思い浮かべるが、コレクションはむしろポスト・ペインタリー・アブストラクションの作品が多い。

絵画の三層構造については『絵画の現象学第一章』()で既に述べた。絵画を見るということはキャンバス表面に線と絵具で描かれた図像客体の知覚に基づいて図像主題を想像することだ。ところが、彫刻は立体の像なので想像が働きにくく、知覚が優勢である。日常的な知覚空間、すなわち私の身体が所属する空間と同じ空間に彫刻は存在する。

それと同じように工芸もは知覚されており、その表面に描かれた装飾の絵も知覚された像客体が優位なのだ。例えば文箱に描かれた水仙は、何よりも知覚された像客体であり、想像された像主題は背景に退いている。

知覚は事物を見るということであり、したがって想像の場合のように空間のイリュージョンは見えない。事物の表面を知覚するということは立体ばかりではなく、表面が工芸的に処理されたキャンバス平面も事物の表面として知覚が優位になり、想像の働きは弱い。

そのような工芸的な表面をもった絵画は沢山ある。


公立美術館での企画展について: 『野田裕示展』と『松井冬子展』


桜井浜江


「工芸性」については以上の二つのブログを読めば十分だろう。表面が工芸品のような絵画は、抽象画であろうが具象画であろうが、想像より知覚が優位である。このような絵画は「知覚に基づく想像」という絵画が絵画であるための必要な条件を欠いていると言わなければならない。


2013.01.10[Thu] Post 00:44  CO:0  TB:0  絵画の現象学  Top▲

マティスの『感情の遠近法』

前回、マティスの《肘掛椅子の踊り子》の遠近法について述べたけれど()、マティスの『画家のノート』(二見史郎訳)に遠近法について触れている箇所を見つけた。

遠近法について----私の最終的な線描のデッサンはつねに自分の鮮明な空間を具えていて、デッサンを構成している対象はそれぞれ別の平面に置かれている。したがって遠近法のなかにあるが、“しかし、感情の遠近法のなかに”、暗示された遠近法のなかにある。(『画家のノート』P184)


「感情の遠近法」というのは「線の遠近法」のように合理的な空間ではないということだろう。しかも、対象はそれぞれ別の平面に置かれているというのだから、透視図法に従った一つのまとまった空間ではない。線遠近法の空間は解体され、そのかわり平面に基づいた新たな「感情の遠近法」が生まれる。

上述の文が引用された章(注1)は「デッサンは芸術の誠実さである。」というアングルの言葉から始まる。国立美術学校のデッサン室の入り口に掲げられていたエピグラムだけれど、マチスはこの言葉の意味が理解できなかったという。誠実さ(probity)とは対象を正確にデッサンすることだろうが、マチスにとってそんなデッサンの考えは間違いだと思った。

-----表現すべき対象のありのままのデッサンを忍耐強くやらせることを通して彼らを制作に釘づけにすること。(服の裁断と仕立てに失敗して、体を締めつけ、その動きを不随にするような手直しをいくつもやって服をお客の体に密着させることで窮地を脱しようとはかる仕立屋を私は思い浮かべる。)

-----構図の機械的な手段を通して想像力の貧困をすくうこと。(P180~181)


マチスには「誠実さ」とは誤魔化しにしか思えなかった。

私の線画は私の感動の直接の、もっとも純粋な翻訳である。(P183)


マチスは、自分の線画は「感情の遠近法」であるといっている。これはモデルのデッサンについてばかりではない。

彼女(モデル)たちが私に引き起こす情緒的関心はとくにその体の描写に現れるわけではなく、むしろ、しばしばカンバスまたは紙の全体に広がって、その編曲、その建築構成を形づくっている線や独特のヴァルールによって表されている。しかし、誰もそれを感じとらない。おそらく、これは昇華された逸楽であって、まだみんなにとっては感じとれないのかもしれない。


感情の遠近法は人物像としてのモデルだけではなく、室内の線や色彩によってキャンバス全体の空間を支配する。しかし、モデルのデフォルメには容易に気付く観者も、キャンバス全体の感情の遠近法を理解してくれるひとは誰もいない。これは、おそらくマチスの線と色彩の葛藤、あるいは平面性と空間の問題が装飾的であると誤解された理由でもあるのだろう。

ピカソの新古典主義がキュビスムの解体された空間の再生だったように、マチスの「感情の遠近法」もまたキュビスムの理知的な遠近法に生命を吹き込むことだった。ピカソは『ボリューム』によって、マチスは『平面性』によって、二人は別の道を通って同じ場所を目指していたのだ。

マチスの《感情の遠近法》は新表現主義のような激しい情緒的な空間ではなく、絵画の平面性に基づいた繊細で感覚的な空間なのだ。これは具体的な作品によって説明しなければならない。


注1:『デッサンと色彩の永遠の葛藤』

2013.01.04[Fri] Post 22:10  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

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