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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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岡田さんへの手紙 遠近法から平面性の空間へ(1)

岡田さんへ
ご無沙汰しております。もうお忘れでしょうが、遠近法について改めて述べておきます。その前に下のマチスの《肘掛け椅子の踊り子》見て下さい。マチスの平面性と空間の〈早わかり〉になっています。


henri-matisse-danseuse-dans-le-fauteuil1942-12185.jpg


さて、「ハ」の字の遠近法です。壁に大きく書いた「ハ」の字は壁に描かれた「ハ」の字に見えます。ハの字に見えるときは壁の表面を知覚しています。

それから平行線が遠方に伸びているように見えます。このときの見え方は二つあります。一つは錯視で、このときは壁の表面は知覚していません。擬似知覚です。もう一つはハの字を知覚して、その知覚に基づいて平行線が遠くに伸びているように見えます。これがいわゆる図像主題(絵)を見るということです。

この3つの見え方は個人差もあるけれど、非常に不安定です。このことは再三述べました。岡田さんは「不安定だ」ということにご不満のようですが、事実だから仕方ありません。

それなら、安定して見るためにはどうしたら良いか。「ハ」の字を「道路」にしてやればいいのです。街路樹や中央分離帯、そして遠くに山や雲をかいてやれば、「ハ」の字は安定して遠くに続く同じ幅の二本の線に見えます。もちろんこの時は壁に描かれた図像客観の知覚に基づいて図像主題の道路を見て(想像して)いるのです。

裸の「ハ」の字では図像主題がないので不安定に見えます。

日本画の線遠近法の歪みについて述べます。ヨーロッパの中世の絵を考えましょう。たしか岡田さんのブログにもあったと記憶していますが、その絵はテーブルの手前の縁と向こう側の縁が同じに長さに描かれた絵です。遠近法から言えば、向こう側の辺は短く描かなければ、同じ長さに見えません。

それなら対辺が同じ長さに描かれたテーブルは台形のテーブルに見える筈ですが、そうではなく間違ったヘンな絵だと感じます。何故でしょう。それは、遠近法の全体の整合性の問題もあるけれど、テーブルは大抵は矩形だから、そうでないテーブルを見ると違和感を感じるのです。

(勿論、日常的態度ではテーブルの向こう側の辺は短く見えていますが、同じ長さだと認識しています。遠くにあるものの大きさを知る能力は文化によって、あるは職業によって差があるけれど、それは実在の三次元の空間の中での知覚の問題だ。絵画では同じ距離の紙の表面に描かれている)

日本画もまったく同じ問題を抱えている。廊下や畳や襖の線遠近が歪んでいる。線遠近法の問題は西洋と日本では違ったものではない。ただ、日本では俯瞰図や雲や中景の省略などで「誤魔化した」けれど、西洋はリアリズムの伝統を背景に線遠近法を生み出していった。

岡田さんに叱られそうだが、何故日本画の方法を誤魔化しかというと、絵画としての発展性がなかったからです。

というわけで、上のマチスの《踊り子》を見てみよう。何も感じませんか。よく見ると肘掛け椅子の透視図法が歪んでいます。しかし、台形のテーブルのような違和感はない。椅子が歪んでいるようにはみえないし、ちゃんと左右対称の肘掛け椅子の絵なのだ。というのは言い過ぎで、図像客体としては歪んでいるけれど、図像主題としては普通の椅子なのだ。

もっとはっきりしているのは市松模様の床だ。床と言ったけれど、遠近法から見れば、白と黒の四角は同じ大きさで、キャンバスの平面と平行に描かれている。しかし、市松模様の平面は垂直の壁ではなく、水平な床を真上からの視点で描いている。

ところが肘掛け椅子に座った踊り子は手前のやや高い視点から見ている。別々の視点から見た《床》と《踊り子》が同じキャンバス平面に重なって描かれて居ることになる。ここで重要なことは絵(具象画)はキャンバス平面に描くから、見るときもキャンバス表面に対して垂直の方向から見なければならない。(ハンス・ホルバインの《大使たち》の髑髏については別の記事に書いています。)

二つの視点があるので、初めはちょっと違和感があるけれど、「台形のテーブル」のような遠近法が間違っているという誤謬の感覚は生じない。《踊り子》を最初に見たときの違和感は、そのうち豊かな空間のイリュージョンに変わっていく。

この絵の空間をまず支配しているのは踊り子だ。「人間は万物の尺度」であり、上下左右、足や手の伸びる方向、重心、頭の角度、視線などによって空間は構造化されている。

踊り子の上半身は右上から左下の隅の方へ両脚を伸ばし、右腕は広げている。視点の異なる〈踊り子〉と〈市松模様の床〉を繋いでいるのは黄色い肘掛椅子だ。矩形の背もたれは床と同じ平面に描かれている。もちろんこの矩形は市松模様の平面とキャンバス平面を媒介している。

最初は違和感を感じた市松模様の床も見ている内に次第に踊り子の身体空間を豊かにしていることが分かってくる。下部の市松模様は水平な床に見えるし、上部の市松模様は垂直な壁に見える。そして全体を見れば、市松模様の縦の線は上に向かって、遠近法的に幅がやや狭くなっている。また、横の線は右肩下がりになっており、縦横の線が正確に垂直水平になっているわけではない。

市松模様はフェルメールなどの室内画の床に好んで描かれているが、もちろん遠近法にしたがって室内空間の広がりを表わすためでもあった。その市松模様の縦横の正方形をわざわざキャンバスの矩形の水平垂直に重ねて描くことによって、線遠近法を解体し、絵画本来の平面性や空間の豊かさを手に入れたのだ。

遠近法の歪みというのは、とくに日本文化特有なものではない。その解決方法が文化によって独特のものがあるということだ。山口晃が日本の大和絵の技法で現代の風俗を描けばそれはそれで面白いけれど、それは所詮イラストであることは、画家自身も認めているところだ。

何も職人の技工を貶めるつもりはない。『美術手帖』流に言えば超絶技巧だ。近づいてその技を楽しめばいい。しかし、その線をよく見てみよう。キッチリと引かれているけれど、魅力的な線とはいえない。産経新聞の『龍馬を慕う』の挿絵()は少し自由な線で描こうとしたのか、かえって「ヘタクソ」が目立っている。空間を捉えるデッサンが分かっていないのだ。

《肘掛椅子に座る踊り子》を見れば、空間を把握するデッサンとは何か容易に理解できる。まず、椅子の背もたれと肘掛けと座部が作る空間、そこに収まっている上半身とはもちろん、一番空間の緊張感を生んでいるのは右手と左手の不均衡だ。右腕は太く、広げられ、左腕は肘を曲げて短く縮こまって、左右の腕のバランスが悪い。その両腕の不均衡は同じ方向に伸びる太い左腿で解消しているのでデッサンの間違いには見えない。試しに脚を隠してやると、右腕が左腕に比べてアンバランスに長く太く見える。

細かく書けばキリがないけれど、線が雑で、色はムラや塗り残しがあり、市松模様も結構いい加減に描いてあって、はじめはデッサンや遠近法の間違いのように見えるが、決してそうではなく、むしろ絵画空間に開放感と緊張感を与えていることが分かる。ムラや塗り残しがあるから黒い輪郭線もデッサンとして生きてくる。

マチスの絵を最初に見たとき誰でも感じる違和感は、線遠近法の「間違い」によって生じる違和感とは異なるものだ。見慣れるにしたがって、「キャンバスの平面」と「描かれた平面」の対立の中に絵画空間が見えてくる。その平面性が生み出す空間は、ホッベマの《並木道》やダ・ヴィンチの《最後の晩餐》の線遠近法の死んだ空間とは異なる緊張感のある空間になっている。

岡田さんへの返事つもりだけれど、返事になっていないことは重々承知している。そして納得しないことも。「現象学」と「不安定」について反論を書きかけたけれど、不毛な論争になったようで、今更いうのも何ですが、やめにしました。これを書いたのは、絵画を理解したい思っている数少ない《ART TOUCH》の読者のためです。

わたしは美術史や芸術論が絵画を理解するために何の役にも立たないと思っています。









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2012.12.31[Mon] Post 00:49  CO:1  TB:1  美術評論とは何か  Top▲

高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門受賞者 蔡國強の《火薬絵画》は何故つまらないか。 

古い話だが、産経新聞(10月24日)に《世界文化賞 授賞式》の記事が出ていた。「とにかく祭さんの顔を見に来ました」の見出しで、北野武がタキシードを着て、蔡國強を祝福に来たとある。北野武は少し前に『絵描き小僧展』をオペラシティ・アートギャラリーで開催したけれど、世界文化賞と何か関係があったのだろうか。

北野武がニューヨークの蔡國強のスタジオで火薬爆発絵画のコラボをしたテレビ番組を見たけれど、何処が面白いのか皆目わからない。たけしの《Monsieur Pollock》のランダムを利用した作品と比べて見ても、火薬の爆発の偶然性をコントロールした面白さはない。ただ火薬の爆発の痕跡があるだけだ。

《火薬絵画》は何故つまらないのか。

試しにWikipediaの《蔡國強》の解説を見てみよう。

異なった文明や社会や人々が互いに調和・共存するための手段としてアートを捉えている。火薬は中国の歴史や人類の文化にかかわりが深く、薬の一種である一方、爆発によりすべてを破壊し無に帰し暴力衝動を発散させるものである。彼は火薬をコントロールし爆発させることで、暴力衝動や破壊を創造へと転化させ、生命や存在の根源に繋がろうとしている。


本当にこんな複雑なこと感じるのだろうか。火薬の爆発の痕跡を見ても特に生命や存在の根源なんか何も感じない。絵を見て思想を感じることはある。でもそれは文学的な情緒であり、多くは具象的な図像主題と重なる。そうでなければ抽象的なアクション・ペインティングに「激しい生命力」を感じたりする。

理屈と膏薬はどこへでもつく。そもそも理屈はカタログを読まなければわからない。絵を見て見えるのは線や色や形である。識別できる図像があればそれも見る。

絵を見て我々は何に感動するのだろう。素朴な鑑賞者なら上手いか下手かを見るだろう。正確に模写しているとか、本物らしく見えるとか、肖像画なら似ているということだ。しかし、正確だけれど魅力がない線もある。下手でも魅力的な線もある。正確であれば、魅力がなくても下手とは言えない。

マチスのドローイングの線は正確ではない。誇張がある。歪みがある。しかし、魅力的である。下手なドローイングにも誇張や歪みがあるけれど、魅力はない。

正確なのが良ければ写真が一番正確だ。しかし写真はつまらない。つまらないのは写真が手で描かれたのではなく、光の痕跡(インデックス記号)だからだ。

蔡國強の《火薬絵画》も爆発の痕跡(インデックス記号)だ。だから《火薬爆発絵画》はつまらない。岡本太郎の《爆発芸術》よりつまらない。


注:ロザリンド・クラウスの『指標論』とは関係がありません。写真の記号論に関しては『写真はインデックス記号か?』を参照


2012.12.16[Sun] Post 18:18  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

『不思議と納得 辛口批評』(産経芸術欄11月28日) 山口晃さん「ヘンな日本美術史」出版

山口晃が『ヘンな日本美術史』を出版した。

山口晃はこれまでも「ヘンな」展覧会ならやっている。

ミズマの《Lagrange Point》展()で、絵を見るのではなく、体験させると言って、片目で見ることを求めていた。

VOCA展()で府中市美術館賞を受賞した《木のもゆる》は、抽象のような具象のような、ただ従来の山口晃の絵画のスタイルを壊すことだけが目的のような、だからと言って「絵画の終焉」を意味するわけでもないヘンな絵で、さらにヘンな賞を貰うという二重にヘンな作品だった。

『アートで候。』(上野の森美術館)()の山口晃の作品《山愚痴屋澱エンナーレ》はトリエンナーレのもじりで、国際展にたいする憧憬と嫌悪のアンビヴァレントな心持ちや、言説にたいする不信感を表しているというのだが、コンセプチャルもあるし、お笑いもあるし、図画工作もあるしで、無いのは芸術だけだというヘンな展示だった。

山口は銀座のメゾンエルメスの個展『望郷-TOKIORE(I)MIX』()でアートに挑戦している。展示された作品は立体イラストレーションであって、アートではない。それについて語る山口晃がアートなのだ。彼は芸術とは芸術について語ることだとポストモダンな覚悟をしたわけだ。

芸術について語ることが芸術ならば、語る芸術は自分の作品である必要はない。他人の作品を語ることで自分の芸術を語ることもできる。

そういうわけで語ったのが「ヘンな日本美術史」だ。「ヘンな美術史」というのは、語った作品が変だというのではなく、語った自分がヘンなのであり、ついでに自身の作品がオリジナリティーにあふれていると言いたいのだ。

しかし、語っている内容は凡庸である。《岩佐又兵衛の特徴は、何と言ってもその絵の暑苦しさ、クドさであり、人物が異様に「キャラ立ち」している事です》とか、「又兵衛は見たままを描くのではなく誇張された表現で真実を描いた。」とか、俗語やありきたりの修辞の羅列である。

こういうヘンな美術評論は日本美術史ではむしろ普通のことで、ポストモダンの美術評論の定形になっている。異端とか奇想とか言われるもので、少し前に辻惟雄の『奇想の系譜』が話題になったとき、伊藤若冲の《鳥獣花木図屏風》がデジタル絵画だと評判だったので、国立博物館までプライス・コレクションを見に行ってがっかりした経験がある。

それ以来、日本美術の異端とか奇想とか、それから今度は「ヘンな」もいっしょに、信じないことにしている。


2012.12.09[Sun] Post 22:34  CO:0  TB:0  -山口晃  Top▲

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