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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『VOCA展2012』 桑久保徹VOCA奨励賞

桑久保徹のことは『ARTIST FILE 2010』(国立新美術館)の展評にブログを書いた。そして以下のようにコメントした。

わたしにはこの絵画をつまらないと断言することはできない。ひょっとしたら、まったく新しい絵画なのかもしれない。ただ私には絵画表面をいじくりまわした絵にしか見えないことも本当だ。そういう意味ではVOCAに推薦すれば受賞まちがいなしの作品である。次の作品に期待しよう。


あれから二年たってVOCA奨励賞を受賞した。去年は絹谷幸二賞を受賞している。

今回の作品も『ARTIST FILE』とおなじ構図なのだが、色彩は黒と白とブルーグレーの落ち着いた色調で、以前のような目を刺激する尖った色使いではない。水玉(風船?)も絵画表面とイリュージョン空間をつなげて、遠景の山と俯瞰の近景が抽象的な空間のなかで一体となっている。今回のVOCA展の近藤智美、小村希史、関根直子(抽象画)などの作品もそうだけれど、イリュージョン空間の中ではなく、絵画表面に線や図形を描いて、絵画の物理的表面をきわださせる手法が流行している。

これは知覚された平面性と想像された三次元空間の分離なのだが、たいていは、後者の三人のように、絵画の平面性を見せるためだけの技法に堕している。そのなかで、桑久保徹の作品はグリーンバーグが『モダニズムの絵画』で述べた三次元空間と平面性の弁証的対立を巧みに和解に導いている。

この「三次元空間のイリュージョン」と「絵画表面の平面性」の弁証法的緊張をまとめておく。

1:古典大家の絵画では、イリュージョンが絵画の平面性を抑圧している。それでも、近づいたり、斜めから観察したりすれば表面は見える。

2:マネのようなモダニズムの絵画は平面性をはっきりと宣言している。「知覚に基づいた想像」なので、イリュージョンにも平面性にもどちらにも自由に注意を向ける事が出来る。

3:抽象画は絵画的イリュージョン(図像主題)がないので、基本的に平面性が優位である。

4:抽象画には歩いて入れる絵画的イリュージョンはないが、目で見るだけの視覚的イリュージョンはあり得る。抽象画の弁証法的対立は非常に複雑微妙であり、個々の作品に応じて見ていかなければならない。例えば斉藤規矩夫の作品のように。

5:三次元空間と平面性、すなわち知覚と想像(知覚に基づいた想像)が分裂している場合。たとえばゲルハルト・リヒターの《Overpainted Photographs》のように。



以上はもちろん暫定的な分析である。桑久保徹の作品は「5:」と「2:」の折衷だと思われる。水玉(風船)は絵画表面の模様として平面性をあらわにし、風船として風景の中の空に浮かんでいる。もちろん、厚く塗られた絵具の小片は絵画表面の平面性を強調するとともに、離れて見れば、空間イリュージョンに生気を吹き込んでもいるのだ。







































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2012.03.22[Thu] Post 23:44  CO:0  TB:1  美術展評  Top▲

村上隆と橋下徹

村上隆が橋下徹にTweet。

t_ishin村上さん、心強いです!!!橋下 RT @takashipom: 橋下徹氏の校長の徹底擁護。わかる。


これは戦略的にどうなんだろう。カタールのニコ論壇SP 村上隆個展「Murakami - Ego」での東浩紀とのエール交換よりもましだけれども、業界の人たちは橋下徹の文化行政をこぞって批判しているのではないか。もっとも、村上隆は美大や美術館や電通のクールジャパンを批判しているのだから、橋下徹とは通じるところがあるのだろう。それにしても、坂本龍一のような似非アーティストアンガジェした文化人がいるなかで、敢えて橋下徹にエールをおくった村上隆に拍手!


(18日20時)誤解があるといけないので、一部修正しました。
2012.03.17[Sat] Post 16:08  CO:0  TB:1  -村上隆  Top▲

⑯『ポロック展』:知覚と想像の分離 赤塚祐二の場合

絵を見ることは「知覚に基づいた想像」であることはこれまでも繰り返し述べた。古大家の作品では、知覚は中和変容されて、観者はもっぱら図像主題を見ている。マネなどのモダニズム絵画は物理的表面の知覚を顕在化した。図像主題のない抽象画であっても、ゲルハルト・リヒターの《アブストラクト・ペインティング》のように、知覚に基づいた想像によって空間のイリュージョンが生まれる。

知覚されるのは物体である。想像されるのはイメージである。ただ、図像意識の想像は知覚に基づいたイメージであり、自由な想像のイメージではない。

これは知覚が優勢か、想像が優勢かの問題である。しかし、実際の作品鑑賞では、さらに錯視も加わって、三者を明確に区別することは難しい。斉藤規矩夫の作品では、この三つが微妙に戯れている繊細な作品だし、野田裕示の作品は、磨き上げた漆塗りの工芸品のような知覚優位の作品だ。

ところが、知覚と想像が分裂した絵画もある。曖昧な表現だけれど、絵画の現象学では重要なことなので、簡単にまとめておく。

1:【図像意識における知覚と想像】 知覚に基づいた想像であり、中和変容によって知覚が想像を基礎づけている。知覚された線や色や図形を知覚しながら、それに基づいて図像主題や、(抽象画の場合は)空間のイリュージョンを見ている(想像している)。

2:【知覚と自由な想像あるいは想起】 例えば、風景を眺めながら、別のことを想像していることがある。また、絵画の図像主題を見ながら、連想した別のイメージを想像する場合は「知覚に基づいた想像」と「自由な想像」が重なっていることになる。これは文学者の美術評論でよく見られる手法だ。

3:【知覚と図像意識の分離併存】 これが一番よく分かるのが、ゲルハルト・リヒターの《Overpainted Photographs》だ。写真図像の上に絵具をスクイーズすることで、絵具の物質の層と写真の遠近法的空間とが分離共存している。絵具の層に抽象画として空間のイリュージョンが現れることももちろんある。


ポロックの《ポーリングのある構成Ⅱ》は知覚と想像が分離している。ポーリングの技法を使い始めたころの作品で、出来上がった抽象画にポーリングしている。近からず遠からず、適当な位置から見ると、黒いエナメルの線が知覚され、その下の抽象画が後退して、ポーリングした線と抽象画の間に透明な空間が生まれている。もちろん頭を動かせば、運動視差が見え、透明な空間の奥行きは深くなる。他方、《インディアンレッドの地と壁画》では、さまざまな色や太さのポーリングの線が重ねられていて、知覚と想像は分離されていないように思える。

斉藤規矩夫の作品は絵画表面の物質性(知覚)とイリュージョン(想像)が絵画表面で渾然一体となって和音を響かせている。ただ繊細ではあるけれど、どこか物足りなさは残る。

ネット・サーフィンをしていたら赤塚祐二の作品を見つけた。知覚と想像の分離を巧みに利用した面白い作品である。

赤塚祐二 《another mountain5

手前から奥に線遠近法で描かれた道があり、遠くに山が見える。その風景画の上にグリッドが白い線で描かれている。グリッドの中央の線が道のセンターラインになっている。そこは風景の空間の内部とつながっているけれど、絵画上部のグリッドの縦横の線は、風景の空間とは分離した浅い空間に描かれている。キャンバス表面に重なって見える線もあり、それは当然知覚された絵画表面の物質性を強調することになる。成功しているか失敗しているかはともかく、グリッドは風景画の空間と絵画表面の物理的平面をつなげる働きをしていることになる。

斉藤規矩夫のグリッドと赤塚祐二のグリッドを見て、どちらが優れているか比べて見て欲しい。

さて、ポロックの完成されたポード絵画では、知覚と想像はどうなっているのだろう。分離しているだろうか。それとも渾然一体となっているだろうか。答えはたぶん《インディアンレッドの地と壁画》にあるだろう。



2012.03.16[Fri] Post 23:37  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

⑮『ポロック展』:絵を見る距離

絵は見る距離によって見え方が違ってくる。例えば、会田誠の《灰色の山》は、近づいて見れば背広を着たサラリーマンやOA機器のゴミの山である。桑久保徹の作品も近づけば離れては見えなかった細部が見えてくる。もちろん会田誠の《灰色の山》ように、まったく別の図像主題が現れるわけではない。どちらにしろ、遠くからでは見えなかった細部が、近づくと見えるということだ。

上の例では、図像主題の見え方が変化するのだが、別の変化もある。それは、近づくと知覚が優位になり、絵画の物理的表面が現れ、遠ざかれば想像が優位になるという現象だ。見る距離によって、知覚、想像、錯視が微妙に変化する。通常の具象画では、「知覚に基づいた想像」が働いている。例えば、クールベの《ルー川の洞窟》では、キャンバスの黒い色面の知覚に基づきながら、洞窟の奥深い暗闇を想像している。この場合、黒いキャンバス表面にも、洞窟の暗闇の空間にも注意を向けることが出来る。野田裕示の凹凸のある作品は観者の動きに伴ってさまざまに変化する。観者の身体は物理的絵画と同じ空間に属する。したがって絵画表面にデコボコの凹凸があるとき知覚が支配的であり、イリュージョンが生じにくい。さらに野田氏には凹凸ではなく、表面を漆塗りのように研磨して、工芸品のような物質感を出した作品もある。もちろん工芸的な表面は平面であっても、漆塗りの板(事物)のように射影を通して知覚される。

斉藤規矩夫の《Indian Beans》が、知覚と想像と錯視が渾然一体となっていることについては、すでに「『ポロック展』番外②」で述べた。『Vision's』で展示されていた《ロ・ロ・パス》や《二つ月》はさまざまな技法を使っているのだけれど、それは、距離や視点の変化にともなって、知覚と想像が絡まって繊細な空間のイリュージョンを生んでいる。

斉藤規矩夫の作品とは違って、ポロックには、知覚と想像がはっきりと分離した作品がある。1943年制作の《ポーリングのある構成Ⅱ》は、出来上がった抽象画の上から疎らに広い範囲にポーリングした作品だが、ちょっと頭を動かしただけで、ポーリングの線が浮き上がり、下の抽象画の表面が沈み込んで、間に厚い透明の層が現れる。いろいろ試して見たところ、一番強い錯視が生じる距離があって、これは推測なのだが、エナメルの盛り上がった線が知覚され、下の抽象画が想像されて、その間に空間のイリュージョンが生まれ、さらに頭を動かしたことによって運動視差の錯視が生じ、なお一層の深い空間のイリュージョンが見えたのではないか。これは推測なのだが、あまり近づいても遠ざかっても、それほど強い錯視が現れないのは、たぶん、黒い線の知覚と背後の抽象画の想像が上手く分離しないからではないか。(今、カタログの写真を見ても、実作ほど強い錯視は生じない。写真に撮ると、絵具などの盛り上がりが見えなくなるので、知覚と想像の分離が現れにくくなったのかもしれない。)

知覚と想像と錯視が相互に区別できないわけではないが、実際の絵画を観賞では、三つは入り交じっているので、明確に区別するのは難しい。斉藤規矩夫の作品はそういう区別が難しい作品の例だが、逆に知覚と想像が明確に分離した作品として、ゲルハルト・リヒターの《Overpainted Photographs》を挙げることができる。説明の必要はないだろう。






さて、ポロックの《インディアンレッドの地と壁画》では、知覚と想像と錯視はどうなっているだろうか。愛知県美術館ではあまりに錯視が強く、知覚と想像と錯視の協働を見ることが出来なかった。東京近代美術館で《インディアンレッドの地と壁画》を見るのが楽しみである。
2012.03.08[Thu] Post 00:33  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

公立美術館での企画展について: 『野田裕示展』と『松井冬子展』

『野田裕示展』は本当に、何が何やらよくわからない。国立新美術館開館5周年を記念して野田裕示の30年間に渡る140点の作品をあつめて展観に供するというのだから、大回顧展と言って良いだろう。今、横浜美術館で『松井冬子展』をやっている。『美術手帖』が特集を組んでいたから、美大生もたくさん見に来ているだろう。それにくらべ野田裕示の会場は閑散としている。美大生も来ていない。新作に取り組んでいる野田氏を映したビデオを画家らしき初老の男がじっと見ている。

泰西名画展なら美術愛好家たちで会場は溢れる。でも、現代アートの展覧会には観客は少ない。これまでにも日本人美術家の大掛かりな個展を幾つか見ているけれど、都立現代美術館の『大竹伸朗展』にしろ、横浜美術館の『李禹煥展』にしろ美術雑誌とタイアップしないと観客が集まらない。特集を組めば美大生が集まってくる。村上隆に言わせれば、美大生は美大に喰い物にされている。

どちらにしろ、にぎやかなのはいいことだ。少しぐらい作品が貧弱でも、なんとなく元気が出てくる。あるいは、客が少なても、芸術的に優れていれば、閑散とした美術館も悪くはない。ところが、この『野田裕示展』は、どうしてこんな大回顧展が企画されたのか良く分からない。カタログによれば若い頃からすでに「反絵画」を志していたらしい。そして初めから現代アートの文脈の中にいた。それは良い。しかし、その反絵画はとても質の低いものではなかったか。ブリジストン美術館でみた《アンフォルメル》の作品と変りないように私には思える。

初期の立体絵画や工芸品のような作品、キャンバスに凹凸をつけた作品など、どれも知覚が優位な物体的な絵画だ。それからデザインや挿絵やカットのような絵画が続き、そして何よりも終わりの方に展示されていた近作はわたしには全く理解不能の作品なのだ。二つの傾向があって、一つは、女体のような抽象図形のような、どっちつかずの作品、もうひとつも指を並べたような、仏像を並べたような、あるいはただの抽象的な模様のような作品だ。どちらも見ていると、少し神経を逆なでするような絵だ。抽象画と思えば具象画に見えるし、具象画と思えば抽象画に見える。なにかとらえどころがない。だからといって、マチスやデ・クーニングのように、具象画とも言えるし、抽象画とも言えるような緊張のある作品にはなってない。これも反絵画といえば言えそうだが、理論があろうがなかろうが、つまらない絵はつまらない。近づいて見れば、表面に何か仕掛けがあるかもしれないと思いはしたけれど、遠くから見ただけで、とても近づいて見る気は起きなかった。

それはともかく、気になったのは、こんな『野田裕示展』が国立新美術館で相当のお金をかけて開催され、『斉藤規矩夫展』は阿佐ヶ谷美術専門学校の入ったビルの一階のギャラリーVision'sで行われていることだ。アサビが後援し、野村財団が助成しているが、野田展の予算と比べれば大した金額ではないだろう。斉藤規矩夫を検索すれば、メジャーとは言えないまでも、海外ではそれなりに知られた作家であるし、美術批評の対象にもなっている。その作家が渡米して以来の日本初個展だという。松井冬子が華やかな個展を開催するのは分からないではない。しかし、野田裕示の個展と比べるとき、斉藤規矩夫に対する日本の美術界の応対はいささか冷淡な気がするのはわたしだけだろうか。













2012.03.02[Fri] Post 02:11  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

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