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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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⑬『ポロック展』:抽象画の見方と見え方(その3) 〈絵画の記号論〉

【記号学と記号論】 絵画の記号論を目論むとき、あらかじめ、絵画の記号作用を理解しておかなければならない。ところが大抵の絵画の記号論は、絵画とは別の記号現象の理論を外側から絵画に適用する。例えば記号学はソシュールの言語学を基にしており、意味論ではなく、言語記号の構造を研究対象とする統語論だ。言語の構造は弁別的差異のシステムであり、差異そのものに意味作用があるわけではない。意味は恣意的なもので学習等によって表記と一体となる。
 「がっこう」と「かっこう」は濁音と静音の差異が弁別的なのだが、その差異が意味作用として働くわけではない。また、「かっこう」が郭公の鳴き声に似ているけれど、この類似性も意味作用ではない。「かっこう」が郭公を意味するのは決まりごとであって、似ているからではない。語源的には類似性が働いていたとしても、言語記号の意味作用は恣意的なものだ。

【構造主義】 ソシュールの言語学は聴覚映像の弁別的差異に基づいたもので、それを視覚映像の類似に基づいた絵画記号に適用することには無理がある。言語学をより一般的な記号の学にすることで、さまざまな文化現象に適用しようというのが構造主義である。その一つが「絵画の記号論」だ。たとえば、音韻構造の二項対立を絵画の「補色」や「水平と垂直」の対比に適用しようとする論者もいるが、形相である音韻と質料である色彩を比較してもアナロジーの言葉遊びにしかならない。

【汎記号主義】 もう一つパースの記号論がある。パースの記号論は、ソシュールのような言語表現の構造の理論ではなく、記号表現と記号内容の関係の理論で、記号を広く捉え、「自分とは別のものを表すもの」すべてを記号と考える。代用(stand for)はもちろん、連想、自然の変化、原因結果、数式、象徴、表現などなど、世界は記号で出来上がっているという汎記号主義だ。

【記号と象徴】 たとえば象徴作用を例に取ってみよう。ここに百合の花の絵がある。知覚されている平面的な1センチの百合は記号表現(図像客体)であり、それに基づいて想像された10数センチの百合の花は記号内容(図像主題)である。この「知覚に基づいた想像」が本来の絵画記号の意味作用である。しかし、宗教画ではこの百合は純潔を表す。これもパースの記号論によれば記号作用であり、百合は純潔の記号ということになる。
 しかし、純潔を象徴しているのは、知覚された図像客体の百合ではなく、想像された図像主題の百合なのだから、象徴作用とは、「知覚に基づく想像」という絵画本来の記号作用ではなく、もっと広い意味作用である。純潔を象徴するのは、絵画の百合だけではなく、「百合」という言葉も実物の百合も同じように純潔を象徴する。

 図像客体の百合(色と形/知覚)→(知覚に基づいた想像作用)→図像主題の百合(イリュージョン/意味)→(象徴作用)→純潔


【図像学】 象徴作用は記号作用に比べて非常にゆるい意味作用である。百合が純潔の象徴であるのは、歴史的社会的な約定だけではなく、百合が純白であるという自然的な側面も影響を与えているだろう。時代や場所によっても変わってくるし、個人に取っての象徴性(精神分析)だってある。
 絵画の象徴(シンボル)を解説してくれるのが図像学だ。絵画を読むためには絵画言語を知らなければならない。パースを拡大解釈すれば、何らかの関係がある二つのものは、一方がもう一方の記号になる。二つのレモンがあれば、一つのレモンはもう一つのレモンの記号になる。レモンは黄色の記号だし、黄色はレモンの記号にもなる。
 
【象徴から表現へ】 象徴は図像主題のある具象画だけではなく、抽象画にも認められる。垂直の線が崇高の、ブルーの色が宇宙の神秘の象徴となる。しかし、象徴に特有の約定性が欠けている。それで作家が自分の意図を解説する。解説すれば、それは作家の表現になる。線は内面の表現から身体運動の軌跡になる。線が運動ならば時間と空間の世界が広がる。忘れていたけれど、共感覚もあったし音楽もあった。或る者が夢は無意識の記号だといえば、いや自動速記こそが無意識の記号だと別の者がいう。と言う具合で、何が何やらさっぱり要領を得ない。

【自己言及性】 抽象画は静物や風景の外部指示を持たないので、自己言及的といわれる。イリュージョンのない絵画はそこに知覚されてある物理的絵画だ。記号は自分自身以外のものを与える(represent)けれど、事物は自分自身を与える(present)。言語において自分自身を与えているものは言語表現であり、言語表現の構造の理論、すなわち統語論は自己言及的ということになる。同じことは絵画についてもいえる。絵画において知覚されているものは物理的絵画だけれど、その知覚された図像客体の構造、すなわち還元され、最後に残った絵画の本質はキャンバスの平面性(flatness)と形態(shape)だ。これは絵画記号の自己言及的な構造あるいは本質であり、絵画の新しい意味になる。これがマイケル・フリードのいう「抽象性」ではないか。

*【マイケル・フリード】 知覚された事物が自己自身を与える(present)のが「リテラルネス」で、その事物の自己言及的な構造・意味が「抽象性」じゃないかと思うが、これは改めて考える。

【空間】 以上、行き当たりばったりに絵画の意味作用を連ねてきた。とても整理して述べることはできないが、絵画の本来の記号性は「知覚に基づいた想像」であることを忘れないようにすれば、いたずらに混乱することはないだろう。絵画平面の色や図形の知覚に基づいて奥行きの空間を想像する。空間は具象的な空間とは限らない。抽象画にも抽象的な空間のイリュージョンはある。注意しなければならないのは、このイリュージョンは錯視ではなく、想像だということだ。もちろん、この想像は自由な想像ではなく、知覚に基づいた想像だ。

【シニフィアンとシニフィエ】 言語表記(シニフィアン)と言語内容(シニフィエ)は、紙の裏表のように一体だと言われる。しかし、絵画におけるシニフィアン(図像客体)とシニフィエ(図像主題)は言葉以上に密着しており、決して引きはがすことはできない。言葉は弁別的差異が保たれていれば、現実の記号表現の変異の許容範囲は広いけれど、類似による絵画記号は、記号表現がわずかでも違えば、それはそのまま記号内容の違いになる。

【知覚と身体と空間】 絵画を見ることは、知覚に基づいた想像であり、想像されるのは空間の「ピクトリアル・イリュージョン」だ。その想像空間と観者が立っている知覚空間は、絵画の物理的表面で切断されている。しかし、知覚された物質的絵画は平たい矩形の立体として観者と同じ空間に存在する。知覚するということは、事物と観者が同一の連続した空間に所属すると言うことだ。観者は立体作品の周りをぐるりと回れる。いろいろ異なった角度から見ることができる。だから彫刻はイリュージョンを持ちぬくい。

【平面とイリュージョン】 ジャッドがキャンバスの平面からイリュージョンを排除できないから立体を作ったと言った。たしかにグリーバーグは何も描かれていない白いキャンバスでも壁に掛ければ絵画になると言った。それならステラはどうだろう。グリーンバーグは、絵画が絵画であるのはその平面性にあると言ったにもかかわらず、ステラを評価しないのは矛盾していると批判された。しかし、グリーンバーグは絵画を平たい立体にしろと言ってはいない。グリーンバーグはステラのブラック・ペインティングはつまらないと言っている。わたしもつまらないと思う。それは知覚された事物だからだ。平面といえどもその表面を知覚することはできる。黒いストライプ模様は、何も描かれていない生のキャンバスより表面を把捉(知覚)しやすい。わたしは川村美術館でステラのコレクションを見るたびに看板屋の物置に迷い込んだような気がする。
 平面はイリュージョンを生みやすい。しかし、平面そのものは知覚されている事物なのだ。


訳分からなくなったところで、結論めいたことをともかく言っておくと、具象画であろうが抽象画であろうが、絵画の記号性は、【知覚に基づいた想像】だと言うことだ。これはグリーンバーグの絵画の平面性の考えとまったく同じである。ところが、どういうわけか、たぶんマイケル・フリードの責任だと思うが、絵画を想像ではなく知覚の側面から見ていこうという流れが生まれた。これは、グリーンバーグがフォーマリストだとの誤解から生じているのではないか。色や線なら知覚できるからだ。ともかく「知覚」が次回からのキーワードになる。分からないと言って、ここで読むのを止めたら損ですよ。これでも、ずいぶんとわかりやすく書こうとしているです。



参照:『絵画論を超えて』(尾崎信一郎著)を読む(2)(『絵画の現象学』)http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-725.html
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2012.01.22[Sun] Post 01:43  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

⑫『ポロック展』:抽象画の見方と見え方(その2) 〈記号の現象学〉

【抽象画の見方と見え方】 上田高弘は、抽象画を見るためには在る特別な構えが必要だという。本江邦夫には『抽象画の見方』という著作がある。もちろん「絵画の見方」は大切だ。キリスト教やギリシア神話を知らなければ泰西名画の図像学的見方はできないし、フォーマリズムを知らなければ、近代絵画を楽しむことはできない。しかし、フォーマリズムは内容あっての形式である。内容がなければ形式もない。内容というのは図像主題のことだ。それなら主題のない抽象画には内容も形式ないことになる。もう一度、絵画の見方ではなく、絵画の見え方を考えてみよう。

【絵画の記号学】 抽象画に図像主題がないのは良いとして、本当に意味内容までないのだろうか。グリーンバーグは形式が内容だと言っているけれど、記号論の視点から絵画を考えて見よう。絵画は言葉と同じ記号の仲間だ。記号は自分自身とは別のものを意味(stand for)する。記号自身は知覚されている。ソシュールは音声言語を分析の対象にしたけれど、われわれは、絵画と同じ視覚言語と比較しよう。文字言語は音声の代用ではなく、それ自体独立した記号であるのは、漢字がその音声(読み)と関係なく意味をもっていることでわかる。
 文字はインクの染みで、絵画は絵具の汚れだ。文字も絵も目で見て意味を理解しする。言葉の意味は恣意的なもので、学習によって記号と結びつく。絵画記号ももちろん知覚されている。キャンバス平面に描かれた線や色や図形が図像客体だ。その知覚された図像客体(記号)に基づいて図像主題(意味)を想像する。絵画の意味は恣意的なものではなく、類似によって記号と結びついている。

【中和変容:記号の現象学】 知覚された文字の存在定立を中和し、意味を志向する。同じように、知覚された絵画表面(図像客体)の存在定立が中和化され、類似によって図像主題を想像する。文字意識も図像意識も中和変容によってシニフィアンからシニフィエへ超越する志向作用である。
 記号は代用でも兆候でも原因でもなく、志向性である。例えば、黒い雲は嵐の記号であるという。しかし、黒い雲と嵐は志向的関係ではない。自然現象の時間的経過という実在的な関係だ。黒い雲は中和変容されることなく、知覚されて、それ自身が空に浮かんでいる。
 それに対して、文字「黒い雲」は、紙の上のインクの染み知覚が中和化され、黒い雲という「意味」が思念されている。また、キャンバス上の黒い色の知覚が中和化され、黒い雲という図像主題が想像されている。図像主題の黒い雲が嵐を意味しているとしても、それは記号作用ではなく、天候の変化を推測しているだけだ。絵画記号を知覚に基づいた想像と考えるなら、ゲルハルト・リヒターの《Abstraktes Bild》にも、抽象的空間の想像(イリュージョン)があるのだから、図像主題(意味)があるといえる。
 抽象画は外部指示性ではなく、自己言及性だとか、意味論的情報ではなく、統辞論的情報だと言われるが、それは間違っており、抽象画にも図像意識の記号性は保たれている。世に流布した「絵画の記号論」は誤解と誤謬に満ちている。

次回【記号の現象学】をつづける。
2012.01.09[Mon] Post 23:43  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

⑪『ポロック展』:抽象画の見方と見え方(その1)

『絵画の現象学』(http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-707.html)では、図像意識の志向的対象をフッサールに従っって、物理的像(Das physische Bild)→像客体(Das Bildobjekt)→像主題(Das Bildsujet)の三層に分けた。

物理的像と像客体は知覚の対象で、像主題は像客体の知覚に基づいた想像の対象だ。像というのは具象的対象で、三次元の事物である。これは再現的なイリュージョンと言われるものだ。抽象画には自然的対象がないので、そういう意味では図像主題を見る想像力が働かないと思われる。ところが、抽象画にも彫刻的なイリュージョンはないが、視覚的な空間のイリュージョンはある。この言葉はグリーンバーグの言葉なのだが、他に触覚的とか再現的とかトロンプ・ルイユとか、いろいろな表現をしていて分かりにくい。わたしは、知覚と錯視と想像の三分類で分析をつづける。

【知覚】 白髪一雄の絵画は知覚されている。絵具の塊が擦りつけられていて、キャンバスの表面は平面ではなく立体だ。立体だということは両眼視差や運動視差、それに輻輳角や水晶体の調節など三次元の事物を認識する知覚の機能が働くから、イリュージョンが生じにくい。もちろん知覚だけではなく、錯視も想像も働いてはいるけれど、知覚が優勢だということだ。知覚が優勢なオブジェとしての絵画は他にもある。ステラの立体絵画はもちろん、平面的なブラック・ペインティングも知覚が優勢だ。小林正人の《Light Painting》や岡崎乾二郎の《ゼロサムネイル》も知覚が優勢なオブジェとしての絵画である。

【錯視】 一番よく知られている錯視は、オプ・アートだが、これはチラつきがあるので観察しにくい。分かりやすいのは「親指が二本の手」である。親指が二本v字型に付いていると現実の手と違うので奇妙に見える。そのためだろう一本の親指が前後に素早く動くように見える。「二本の親指」と「前後に動く一本の親指」が交替に現れる。前者は知覚で後者は錯視である。それに対して、漫画の技法だけれど、例えばバットが早く動いていることを現すために運動途中のバットの残像を書く技法がある。しかし、二本の親指の手のようには、バットの運動の錯視は見えない。知覚しているのは二本のバットとその間の数本のバットの残像だ。かすれた円弧も書き加えられている。この図像の知覚に基づいてバットが素早く振られているのを想像するのだ。バットが回転する錯視が見えるわけではない。錯視と想像と知覚は入り組んでいるけれど、現象学的還元をすれば、比較的容易に識別できる。

【(知覚に基づいた)想像】 図像主題(ピクトリアル・イリュージョン)は、自由な想像ではなく、知覚に基づた想像である。従って、知覚と想像が同時に働いている。知覚は中和化され、その物理的対象の存在定立は括弧に入れられている。クールベの《ルー川の洞窟》は、黒いキャンバス表面は知覚されているが、黒いキャンバス地の表面がそこに実在するという判断は停止され、その知覚に基づいて洞窟の暗闇の空間を想像する。もっと分かりやすい例を挙げれば、フッサールのモノクロ写真の例だ。モノクロの肖像写真では、知覚しているのは灰色の肌の人物だ。しかし、知覚しているのは灰色だけれど、想像しているのはピンクの肌の人物だ。実際にピンク色の錯覚が生じているわけではなく、知覚しているのはあくまで灰色で、その灰色の明度に相応したピンク色を想像しているだけなのだ。いつでも、灰色の知覚を賦活することが出来る。

【錯視と想像の区別】 二つを区別するのは比較的容易だ。錯視は「異常な」知覚なので、「正常な」知覚とは同時にあらわれない。それに対して図像主題の想像は、知覚と想像が重なって同時に作用している。例えば、円図形に適当な濃淡をつけると、陰影が付いた凹凸の錯視が見える。凹凸の錯視が見えているときは、濃淡をつけた円図形の知覚は現れない。平面図形の正常な知覚が歪んで立体的な凹凸の錯視になっているからだ。反対に濃淡をつけた円の平面図形を知覚しているときは、凹凸のイリュージョンは見えない。これに対して陰影の代わりに、円にサッカーボールの模様を書いた場合は、円は球に見えるけれど、これは錯視ではなく図像主題の想像だ。サッカーボールの模様を描いた円図形の知覚に基づいて、サッカーボールの球を想像している。円図形の知覚と球体の想像は中和変容を媒介にして同時に作用している。どちらにも注意を向けることが出来る。
 以上は、今までの述べてきたことの繰り返しだ。ここからは、抽象画に話を進める。

【具象画と抽象画】 図像主題のある絵画が具象画で、無い絵画が抽象画だ。図像主題は具象的な自然的対象で、ケンタウロスなどの架空の存在も含む。しかし、抽象画にもイリュージョンは在る。再現的な図像主題ではない抽象的な三次元の事物のイリュージョンだ。前回見たゲルハルト・リヒターの《Abstraktes Bild》にもイリュージョンがある。三次元の棒のような抽象的物体もあるけれど、主として平面的な幾何学的図形や不定形の擦ったような跡のある色帯色面の組み合わせによる奥行き空間だ。

【抽象画の図像主題】 この抽象画の空間のイリュージョンは図像主題ではない。それなら想像されたものではなく、錯視なのだろうか。確かにフッサールの「図像の三層構造」では、図像主題は具象的な対象だった。しかし、ゲルハルト・リヒターの絵をもう一度見てみよう。空間は明らかに錯視ではない。この奥行き空間のイリュージョンの手前にちゃんと絵画表面の知覚がある。抽象画でも図像意識が働いているようだ。図像意識は知覚意識に基づいた想像意識である。具象的対象が無くても、絵画表面の線や図形や色を知覚できる。そして、この物理的表面の知覚に基づいて空間を想像している。抽象画においても、絵画表面に描かれた線や色や形を知覚することができるし、その線や形に基づいて奥行きの空間を想像することもできる。従って主題のない抽象画でも「知覚に基づく想像力」が働いており、知覚された絵画表面と想像された空間の間に弁証法的緊張が生まれる可能性があるということになる。

【事物と空間】 具象画の図像主題は三次元の事物であり、三次元の事物があれば、かならずそれを容れる空間が生まれる。ところが抽象画では、三次元の立体が描かれていない場合がある。幾何学的抽象画は二次元の図形だけのものもある。さらに二次元の図形さえないオールオーバーの絵画さえあるが、そんな絵にも奥行きのイリュージョンはある。だた、具象画と抽象画の違いもある。具象画に描かれた事物には大きさがあるし、それを容れる空間にも大きさがある点が違う点だ。それに比べ抽象画の事物や空間には大きさがない。大きさがなければ、大きさのある身体は、その空間に歩いて入ることを想像できない。ただ目でなぞるだけの空間である。

【平面性と空間】 グリーンバーグは三次元の事物のイリュージョンよりも、それを容れる三次元空間のイリュージョンをモダニズムの平面性の視点から重視した。わたしは、「絵画の現象学」を出発点として、このブログを「図像に帰れ」というスローガンで始めた。そして、二つの問を問うた。ひとつは、「なぜ、ピカソとマチスはほとんど抽象画に至りながら、最後まで具象画にとどまったか?」、もうひとつは、「写真はどうしてつまらないのか?」の二つである。

なかなかポロックまで到達しないが、もういちど「絵画の見方」ではなく、「絵画の見え方」について言い忘れたことを次回述べておく。

つづく



 



2012.01.05[Thu] Post 21:13  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

⑩『ポロック展』:抽象画の空間 《想像の空間と錯視の空間》

図像主題は「知覚に基づいた想像」であり、主題は具象的対象だ。想像の主題は、錯視のイリュージョンとは違って安定的に見える。この安定的に見えるということは重要なことで、錯視では知覚とイリュージョンが争っており、どちらか片方しか現出することができないので、チラついて見えることが多い。それにくらべ、図像主題では、図像客体の知覚が中和変容されているので、想像と知覚が争うことはない。いつでも、どちらにも、注意を向けることが出来る。

ところが、図像の知覚と想像の間には、錯視とちがった緊張関係がある。これがグリーンバーグが言う「平面性」と「三次元空間のイリュージョン」の「弁証法的緊張」だ。もちろん平面性とは知覚された物理的絵画のことであり、三次元空間空間のイリュージョンとは知覚された物理的絵画に基づいて想像された空間のことだ。これは、言うまでもないことだが、クールベの《ルー川の洞窟》の黒く塗られたキャンバスの平面と洞窟の暗闇の弁証法的対立なのだ。弁証法的緊張には、たとえばホッベマの《並木道》のようにだらし無く「和解」した空間もあるし、われわれを恍惚とさせるようなマチスの緊張した平面性と奥行の弁証法もある。

さて、われわれはここでモダニズムの根本的な問に出会ったわけだが、まずはポロックの《インディアンレッドの地と壁画》がどのように見えるかと言うことから始めよう。《インディアンレッドの地と壁画》は抽象画だから、図像主題はない。ポロックのポード絵画には、人物や生物らしきものが見える作品もあるけれど、《インディアンレッドの地と壁画》はそういう再現性はない。そういう意味では、さしあったって、「知覚に基づいた想像」は作用していないといえる。

確かに再現性のイリュージョン(図像主題)はないけれど、錯視のイリュージョンはある。少し離れた位置から見ると、絡まった糸クズのように盛り上がったイリュージョンが見える。これは陰影による凸のイリュージョンと見え方が類似している。手で触って本当に出っ張っているのか確かめてみたくなるような錯視だ。これは平面図形の円に付けた濃淡が、陰影という具体的な現象に見えたということだ。これは、濃淡が陰影に見えたということで、図像主題のように「知覚に基づいた想像」ではないけれど、いわば「知覚に基づいた錯視」であり、濃淡の知覚に基づいて陰影という錯視が生じているとも言える。そこには陰影という一種の抽象的具象性が働いていると考えられる。ただし、この場合は知覚の代わりに錯視が現れているのであって、想像の場合のように、中和変容された知覚が存続しつづけているわけではない。
とするならば、《インディアンレッドの地と壁画》の表面が糸くずのように盛り上がって見えるのは、ポード絵画の絡まった網目模様の知覚が中和変容されて、具象的な対象(図像主題)の想像を生むのではなく、陰影の凸のよう錯視を生む準具象性をもっているのではないか。

《インディアンレッドの地と壁画》に近づくと、錯視は消えて、キャンバス表面の知覚が現れる。ポードされたエナメルが盛り上がっているので、なおさらのこと物質的な絵画表面の知覚が強まる。愛知県立美術館圧倒的なイリュージョンのために、あまりよく絵画を見る(知覚)ことが出来なかったので、代わりにカタログの写真を見ている。絵画の平面にポードされた線や網目シミが奥行きのイリュージョンを生んでいる。それを目で見て気づいたものを並べてみる。

 まず、直線よりも曲線が三次元の立体や奥行きのイリュージョンを生む。なだらかな曲線より急な曲線のほうが遠くに見える。これは大小の遠近法で、太い線より細い線が遠くに見える。また、肌理の遠近法ではちっさな染みは奥に見える。また、一番奥行きのイリュージョンを生み出しているのは重ね合わせの遠近法で、この作品は黒が一番最後にポードされているようだ。しかし、仔細に見れば、微妙に重ねわせには変化があるようにも見える。白は黒より先にポードされており、カーブは小さく、太さは黒より細いものが多く、針金や糸のように細く短い線もある。また、線ではなく、染みや飛沫や滲みのような黄橙青が隠し味のように点在しているけれど、その同じ色が同じ深さの平面を作っている。

われわれは曲線や網目の空間の奥の暗色の赤の奥行きを覗き見る。黒い線のカーブに沿って視線は滑っていく。そして白が遠く近く揺れ動いている。そして黄とオレンジと青が、絵画の平面性と想像の奥行きを媒介し、つなぎとめている。この空間のイリュージョンは錯視ではない。絵画平面が依然そこに知覚され続けているのだから、この奥行きは錯視ではなく確かに確かに知覚に基づいた想像なのだが、その図像主題は具象的なものではなく、抽象的な空間の想像なのだ。

抽象画にも奥行きや立体のイリュージョンがある。しかも、錯視ではなく、知覚に基づいた想像の空間だ。この空間は、観者が歩いて入る自分を想像できる空間ではなく、目で見るだけの空間だ。ということはその空間は具象的な大きさのない抽象的な空間だ。例えばゲルハルト・リヒターの具体的な作品を見てみよう。




ゲルハルト・リヒターの抽象画には色帯を重ね合わせて奥行きのイリュージョンを生み出している作品が数多くある。スクイーズの技法なのか、絵具が擦れて向こう側が見えている色面色帯がある。その他ポロックにはない、陰影や明暗らしきものもあるし、何より赤い色帯が右から左の奥へ線遠近法で伸びている。この空間は明らかに錯視のイリュージョンではなく、絵画的なイリュージョン、すなわちキャンバス表面の線と色帯と色面の知覚に基づいて想像された空間だ。

この空間が抽象的な空間のためか、古典大家の作品ほどは絵画空間は安定してはいない。頭を左右に揺らすと、強い運動視差の錯視が現れ、空間のイリュージョンも想像から錯視に変容し、実作ではないので、断言はできないが、錯視に特徴的な質感が現出する。そもそも、運動視差は三次元の奥行き知覚でしか生じない。二次元の平面上で重なっている二つの図形の間に遠近の差はないにもかかわらず、想像している奥行きを、あたかも知覚している奥行きの如くに、運動視差が生じている。それ故、首を揺らすことで運動視差が見える空間は、想像の空間ではなく、錯視の空間といえる。

一つ気づいたことは、真ん中にある赤いくさび形の色帯が、線遠近法的に右の手前から左の奥へ伸びているように見えるが、頭を揺らすと、それが緑と黄の背景の平面に重なって、そのかわりにごちゃごちゃ重なった部分が浮き上がってくる。緑と黄の背景と赤い楔形はキャンバスの縁で切れているので、背景の奥行きがちょうどキャンバスの平面と同じ高さに重なるので、ごちゃごちゃした部分がキャンバス平面から浮いているように見えると思われる。

以上のゲルハルト・リヒターの《抽象画》について述べた空間のイリュージョンと同じ現象がポロックの《インディアンレッドの地と壁画》のポード絵画にも起きていると思われる。赤い地の背景は黒いフレームで囲まれており、キャンバスの縁に近い所はポーリングの密度は薄く、赤い地の背景は黒いフレームで区切られたキャンバス平面と同じ高さなので、赤い背景より手前にある白や黒の線は、リヒターの《抽象画》と同じように、絵画平面から浮き上がって見えたのだ。

リヒターの色帯色面の抽象画とポロックの線の抽象画はもちろん同じ見え方はしない。簡単に印象を述べておくならば、リヒターの絵画言語のほうが通俗的だけれど、その使い方は優れている。ポロックの絵画言語は独創的だけれど、偶然性が染み込んでいるぶん見ることに難しさがある。それでも、リヒターの容易さよりもポロックの難しさに今のところ魅力を感じる。

つづく











2012.01.01[Sun] Post 00:59  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

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