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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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⑨『ポロック展』:抽象画の見方と見え方 《知覚に基づいた想像》

随分と混乱した記述が続いたので、もう一度おさらいしておく。

まず、知覚と錯視と想像の三つを区別する。これらは、実際の絵画や彫刻、あるいはオブジェの観賞では入り交じっている。従って明確に区別するのは難しいけれど、基本的には知覚の対象は物質的な事物であり、錯視で見えるのは「イリュージョン」であり、そして想像されるのは「像主題」である。これら三つは、「知覚」自身はもちろんのこと、他の二つもその根本に知覚がある。

錯視は、知覚心理学が研究しているいわゆるイリュージョンのことだ。イリュージョンには本来の錯視、すなわち「異常な」知覚と、まったく正常な知覚なのだが、心理学が自然科学的態度で勝手にイリュージョンに分類したものがある。

ポンゾ錯視は後者の例だ。これは心理学者が鑑賞的態度と自然科学的態度を区別しないことから生じたニセの錯視だ。科学的態度では同じ長さなのに、鑑賞的態度では、長さが違って見えるということだ。この錯視は、オプ・アートのように同じに見えたり違って見えたりチラチラするわけではない。もちろん、絵画を見るときは鑑賞的態度で見るわけだから、二本の線分がポンゾ錯視の影響を被っていようがいまいが、見えるとおりに見ればいいだけの話だ。

「異常な知覚」の錯視にはいろいろある。この仲間の錯視は正常な知覚ではないという意識がともなう。場合によっては、通常の知覚と交替に現れることもある。たとえば、親指が二本ある手の錯視だ。正常な知覚では二本の親指がV字型に付いている。もちろん親指が二本の手は変で違和感を感じる。そのためだろう、次の瞬間に指が前後に激しく動く。もちろんこれは錯視であり、正常な知覚は二本の親指が付いた手であり、前後に動く親指のイリュージョンと交替で現れる。

もっと絵画に都合の良いイリュージョンがある。陰影による凹凸のイリュージョンだ。円に陰影をつけると凹に見えたり、凸に見えたり、浮き上がって見えたりする。円に濃淡をつけただけの平面図形の知覚にはなかなかならないけれど、それが錯覚であることは、凹凸を触って確かめたくなることや、頭を動かせば凹が凸に変わるなどするので判る。同じように円が凸に見えるけれど、錯視ではない例がある。円にサッカーボールの模様を描けば、それは常に凸に見える。サッカーボールは球だからだ。しかも、凹に見えるような陰影をつけても凸のサッカーボールにみえる。これは、イリュージョンではなく、図像主題の想像なのだ。

静物やヌードや風景などの図像主題のことをイリュージョンと言っているけれど、これはイリュージョンではなく、想像なのだ。想像といっても自由な想像ではなく、知覚に基づく想像だ。「錯視」と「知覚に基づいた想像」は、以前のブログでは、「オプティカル・イリュージョン」と「ピクトリアル・イリュージョン」と私が区別していたものだ。この二つのイリュージョンは容易に区別できる。錯視の方は、正常な知覚と同時に表われない。イリュージョンが現れているときは、知覚の対象は現れない。一本の親指が動いているイリュージョンが見えるときは、二本の親指の知覚は見えない。それに対して、図像主題は「知覚された図像客体」と「想像された主題」の両方が同時に現れている。クールベの《ルー川の洞窟》の黒く塗られたキャンバス表面と洞窟の暗闇の空間は「同時に」見えている。これが、「知覚に基づいた想像」ということだ。

この知覚に基づいた想像が「中和変容」である。なんども繰り返しているけれど、これを理解しないと絵画が理解出来ない。フッサールがあげているモノクロ写真の例をもう一度書く。モノクロ写真の人物の灰色の肌はピンクの肌に見える。灰色は知覚している色彩で、ピンクは想像している色彩だ。知覚というのはその知覚しているものの存在を定立するのだが、その定立作用を休止して括弧に入れるのが中和変容なのだ。《ルー川の洞窟》の黒い表面は相変わらず知覚されているが、それは中和変容を受け、その黒に基づいて洞窟の暗闇のイメージが想像されている。

さて、この「知覚に基づいた想像」は図像主題の現れ方であって、主題とは具象的対象のことである。上で述べたように、サッカーボールは図像主題であり、陰影を付けた円の見え方は抽象的な形体のイリュージョンであった。二つの見え方の相違は、ポロック理解にも重要である。次回にさらに詳しく考えて見たい。

備考:この「知覚に基づいた想像」すなわち「中和変容」は、絵画の神秘である。これはフッサールが図像主題に関して述べたもので、想像されるのは具象的対象のことである。しかし、抽象画にも「知覚に基づいた想像」があるのではないか。




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2011.12.29[Thu] Post 00:40  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

⑧『ポロック展』:ロスコの《シーグラム壁画》とポロックの《インディアンレッドの地と壁画》

ロスコの絵画表面が知覚しにくいというのは、錯視的なイリュージョンが邪魔だということでもないし、具象画のように図像主題のイリュージョンが邪魔するということでもない。ロスコのイリュージョンは錯視でも想像でもない。焦点があっているのか合っていないのか判然としない感覚が知覚とイリュージョンの間を揺れているような奇妙な感覚だ。

ロスコのイリュージョンについては、様々な議論があるけれど、さしあたって、錯視でも想像でもなく、「知覚のイリュージョン」という矛盾した言い方で満足して置かなければならない。このことが絵画の平面性に関わっていることは、ジャッドが絵画からどうしてもイリュージョンが排除できないので、立体に向かったという言葉で分かる。立体は、作品の空間と観者の空間が連続した同一の空間に属しているので、観者が動くことで作品の見え方が変化する。それに対して平面は観者が少しぐらい動いても絵画イリュージョンの見え方が変化することはない。絵画の想像空間(イリュージョン)と観者の身体空間が絵画平面で切断されているからだ。変化するとしたらそれは絵具の盛り上がりや表面の反射やキャンバスの縁など知覚されている物理的絵画である。

絵画も当然知覚されている。ただ、それがイリュージョンに隠されているだけで、注意を向ければ、いつでも物理的絵画をみることが出来る。その知覚された物質的絵画を顕現露呈させるのがイリュージョンのない抽象画であり、ミニマル・アートだ。そして、絵画は「矩形の平たい立体」ということになる。そうなった時、絵画の空間と観者の空間は一つになり、観者は身体的存在になる。イリュージョン空間には観者が自分の「想像的身体」で歩いて入っていけるのに対して、知覚された3次元空間には観者は想像的身体ばかりではなく、「現実の身体」で歩いて入れる。ジャッドのキューブを並べた立体作品は、その周りを回れるし、インスタレーションは文字通り作品の中に歩いて入れる。知覚するということは、作品と身体が関係を取り結ぶということでもある。

ロスコの《壁画》には錯視も想像(図像主題)もなかったけれど、ポロックの《インディアンレッドの地と壁画》はすでに述べたよう強い錯視的イリュージョンが現れる。まず、遠くから見ると絡まった黒と白の網が浮き上がって見える。ちらついているわけではないが、明らかに正常な知覚ではない。立体視をしているような浮き上がった感じがする。しかし、黒いメタルフレームの額縁はキャンバス表面の高さに知覚されている。黒や白の線の盛り上がりはキャンバスの縁に向かって減少して、キャンバス平面に重なる。この凸の感覚のために、観者は絵画表面を知覚することができない。

近づくにしたがって、イリュージョンは弱まり、全体が見渡せないぐらいに近づくと、絵画表面の知覚が現れる。背景に赤褐色が塗られ、銀・黄・橙、そして白、最後に黒の線が重なっている。重ね合わせの遠近法と大小の遠近法、それから線の太い細いの遠近法がある。そこには奥行きのイリュージョンがあるけれど、もちろんそれは抽象的な空間であり、歩いて入ることはできない。

この空間は、目で見るだけの抽象的空間のイリュージョンだということではロスコの空間と似ているけれど、ロスコの絵画表面の焦点の定まらない曖昧さはなく、ハッキリと絵画表面が知覚されている。そしてその知覚された絡まった網目の隙間に空間が見える。この空間はクールベの《ルー川の洞窟》のような図像主題の空間ではないが、同じ「知覚に基づく想像」による空間のイリュージョンだ。われわれは比較的浅い奥行きから、網目の奥の深い奥行きまで見る(想像する)ことができる。

さらに、その後がある。少しでも頭を動かすと、奥行きの想像が突然錯視になる。奥行きが立体視のようにリアリティがなくなり、そのかわり視線の移動にあわせて運動視差が見える。遠くから見たときの凸の錯視ではなく、凹の錯視だ。凹の錯視は、カタログの写真でも確認できるけれど、凸の錯視はカタログの写真では見ることはできない。

以上のことはあくまで暫定的な記述であり、確定的に言えることではない。そのことは東京の『ポロック展』を見てから再度考えることにして、ひとまず言えることは、同じ抽象表現主義とは言え、ロスコの《壁画》とポロックの《壁画》では、随分とそのイリュージョンの見え方が違うということだ。次回は、いったい抽象表現主義とは何かをグリーンバーグの評論から読み取ってみよう。







2011.12.24[Sat] Post 22:15  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

⑦『ポロック展』:クールベの黒とロスコの黒(その3)

もう一度、絵画における「知覚」とその「知覚に基づいた想像」の違いを、モノクロ写真の色で確認しておく。モノクロ写真の人物の灰色の肌をピンクの肌として見ている。しかし、知覚している印画紙にプリントされた人物の肌は灰色だ。ところがPhotoshopで着ているものをカラーにして、肌はそのまま灰色にしておくと、肌はピンクではなく灰色に見える。灰色が明度ではなく色彩に見えたわけだ。人間の肌は人種よって違うけれど、モノクロ写真では、灰色の明度や容貌から肌はピンクだと想像するけれど、衣服がカラーだと、灰色の人間に見え、そんな色の人間は経験に反するので異様に感じる。

クールベの《ルー川の洞窟》の黒にも同じことが言える。キャンバスの表面の黒い色を知覚している。その黒の知覚に基づいて我々は洞窟の暗闇を見ている。その暗闇は「人がその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョン」(グリーンバーグ)である。この場合のイリュージョンは、図像の三層構造から言えば、図像主題(Bildsujet)のことであり、主題といっても、モチーフのことではなく、具体的な目に見える自然対象のことだ。通常言われる「絵が描いてある」と言う時の絵(picture)で、立体視でみえる錯視のイリュージョンとは異なる。

ロスコの「黒」を見てみよう。抽象画なので、図像主題はない。何か自然対象を再現(represent)しているわけではないので、絵画的イリュージョンはない。また、ポロックのような錯視的イリュージョンもない。絵画を見るときの意識は、「知覚」と「錯視的知覚」と「知覚に基づいた想像」の三つだ。ロスコの「黒」を見ることが、錯視的知覚でも知覚に基づいた想像でもないとしたら、残るは知覚ということになる。

それなら、ひとまず、ロスコの黒は知覚されていることになる。ところが、抽象画にもイリュージョンはある。例えば、幾何学的抽象画には具象的対象はないけれど、イリュージョンはある。このイリュージョンは、錯視的イリュージョンでも想像的(絵画的)イリュージョンでもない。『美術評論とは何か[16]』で使った下の図を見てみよう。





左の二つは図像で、室内と二階建ての家の安定したピクトリアル・イリュージョンが見える。右の二つは具象的な対象を消して図形にしたものだが、いろいろなイリュージョンが見える。真ん中の線が凸に見えたり、凹に見えたり、あるいは平面的な六角図形に見えるし、直方体にもみえる。いろいろに見えるけれど、オプ・アートのようなチラつきではないし、触って確かめたくなるような凹凸感もない。それならこの凹凸立体はなんだろう。図像の場合は、左の二階建ての家は、常に凸ダシ、室内のコーナーは常に凹である。図像主題の室内や家はそういうものだからだ。ところが、右の図形には図像主題がないので、決まった形には見えない。凹・凸・平面、いろいろに見えるのは、たとえば、「地と図」の交替現象と似たゲシュタルト心理学的な現象だ。錯視とは違って知覚しているのは平面上の図形であることを我々は知っている。

ロスコの「ブラック・ペインティング」には、ハードエッジな幾何学的図形はない。しかし、かすかな空間のイリュージョンがあるような気がする。ロスコに特徴的な矩形が暗色をかこんでいる。後退色と前進色の対比なのかもしれない。絵画平面から暗色は沈み、明色は浮いているようにも見える。しかし、明暗差が少ないので、表面を知覚するのが難しい。黒の中に微かに明るい部分があるけれど、眺めていると明暗が溶け合っていく。あるいは逆に明暗対比が強くなる。塗りムラがあるけれど、表面の絵肌を捉えることが難しい。

クールベの黒は暗闇であり、ロスコの黒は光なのだ。クールベの黒く塗られたキャンバスの表面はハッキリと知覚できる。この知覚を基として洞窟の暗闇を見るのだ。それに対してロスコの黒い表面は焦点が合いにくい。川村美術館の《シーグラム壁画》は、黒ではないけれど、以前は照明が落とされていたこともあって、もやっとして絵画の表面がなかなか知覚できなかった。老眼が進んだせいもあるだろう。しかし、『マーク・ロスコ 瞑想する絵画展』(川村美術館2009年)の《シーグラム壁画》は、展示室が常設展示の「ロスコ・ルーム」よりもやや明るく、もやっとする感覚は減少していた。それでも、相変わらず、絵画表面にキチッと焦点が合わない感覚は残った。

その感覚はなにか。たぶんそれは、全体に暗色であり、明度差が少ない。暗いものは三次元の知覚でも距離が分かりにくい。黒のなかに青や緑が仄かに見え、それが色ではなく、光に見える。発光体は表面が見えにくい。また、色彩心理学では色を表面色、面色、空間色などに分けるけれど、ロスコの色彩は表面色でも空間色でもなく、むしろ面色に近い色彩なのではないか。ウィキペディアの面色(film color)の定義(David Katz)によると、「定位性や表面のテクスチャをはっきり知覚することができない見え方。色としての属性以外を感じ取ることができない。例としてよくあげられるものに、青空がある。」という。青空はどうかとおもうけれど、表面色ではないというところが、奥行きのイリュージョンを生んでいるとも言える。

この表面に焦点があわない感覚というのは、立体(オブジェ)にもある。青山真也は洗剤の容器やドラえもんやサッカーボールの表面を紙ヤスリで削って、模様をなくしてしまう。表面はマットな単色になり、リアルなボリューム感がなくなりイリュージョン化する。この感覚を利用して絵画と彫刻を融合したのはシュテファン・バルケンホールだ。等身大より少し大きいか、少し小さい荒削りの人物像に人物の絵を描いて(彩色して)、絵画の3次元イリュージョンと彫刻の3次元リアリティの相乗効果を利用している。

一体何を論じているのか分からなくなっているかもしれない。しかし、それはハッキリとしている。ポロックを理解することだ。そのために、クールベの具象画《ルー川の洞窟》の黒とロスコの抽象画の黒を比較していた。《ルー川の洞窟》の黒は、暗闇の黒だった。空間のイリュージョンがある。それに対して、ロスコのブラック・ペインティングにはイリュージョンらしきものが見えるけれど、そのイリュージョンは想像でも錯視でもない。残るのは知覚なのだが、そうは言っても、想像も錯視も知覚を基にしている。反対に、純粋な知覚というのも存在せず、知覚には想像も錯視も含まれている。それは、知覚が網膜に映った二次元の像から3次元の知覚世界を構成していることからも想像できる。

さて、我々は、クールベの黒とロスコの黒の比較した。そして、クールベの黒は洞窟の暗闇のイリュージョンであり、ロスコの黒は、具象的な空間のイリュージョンではなかった。それは抽象画だから当然である。ところがロスコの抽象画にも想像や錯視とは違ったイリュージョンがある。それをポロックの絵画と比較してみようというのが、次回の我々の課題である。

二人は、同じように「抽象表現主義」の画家である。さいわいポロックの《インディアンレッドの地の壁画》とロスコの《シーグラム壁画》、二人の壁画を見ている。もちろん二人の芸術を比較するのではない。壁画を見て、どういうふうに彼らの絵画が見えるのか、知覚と錯視と想像の働きを比較してみようというささやかな試みである。








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2011.12.18[Sun] Post 20:54  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

『横尾氏“全作品”兵庫に』東京新聞(11/30)

横尾忠則が全作品を兵庫県に寄贈寄託したそうだ。どういう契約になっているか知らないが、要らなくなったらどうするのか。全国の美術館で密かに所蔵品が破棄されているという噂もある。もちろん後世が横尾忠則をどう評価するかわからない。しかし芸術として評価されるとは思えない。いずれは東京都現代美術館にあるオブジェと称されるガラクタのように始末に困ることになる。そうなら横尾氏の作品もせいぜい美術館ではなく博物館に昭和の資料として幾つか残しておくだけでいいのではないか。

鶴太郎画伯の美術館は4つあるそうだ。検索したら確かに4つあった。草津片岡鶴太郎美術館、山中片岡鶴太郎工藝館、福島片岡鶴太郎美術庭園、伊万里片岡鶴太郎工藝館の4つだ。どれも観光地の客寄せの施設のようだ。まさか補助金をもらっているわけではないだろう。秘宝館と思えばそんなに目くじらたてる必要もない。民営なら広報だし、採算が合わなければ閉館になる。

なぜ、こんなことを言うかというと、大阪市立近代美術館設立の計画を白紙に戻すと橋下大阪新市長が指示したと言うニュースを見たからだ。橋下市長は府知事として、「ワッハ上方」と「国際児童文学館」の縮小移転、交響楽団への補助金カットなどで、ナチの文化行政になぞらえる向きもある。なにも芸術を弾圧しているわけではないだろう。これらの事業の多くは利権になっていることはよく知られている。「ワッハ上方」は言わずもがな、児童文学は灰谷健次郎でも分かる通り日教組と結びついている。府補助金をゼロにされた日本センチュリー交響楽団には基本財産20億円もあるという。これはどう見ても、天下り受け入れのためだ。国の天下り法人も多額の積立金を蓄えている。

分かりやすいのは、麻生首相の時の『アニメ美術館』だ。あれは文科省が平成21年度補正予算案に計上したものだけれど幸い実現しなかった。出来ていれば当然文科省の天下り利権になる。アニメ産業が発展したのは、何も国が助けてくれたからではないし、美術評論家が芸術だと褒めてくれくれたからでもない。褒めてくれたのは、漫画が世界で評判になったので、それに便乗しようと、後から作家や評論家が騒いだだけだ。以前、文科省の映画振興の助成金騒動があったけれど、あれも衰退産業のほそぼそとした利権で、日本映画の傑作の多くはプログラムピクチャーの時代に製作されたものだ。

文化事業の助成は天下り利権だけではなく、芸術そのものを堕落させる危険を孕んでいる。







2011.12.12[Mon] Post 23:21  CO:0  TB:0  横尾忠則  Top▲

⑥『ポロック展』:クールベの黒とロスコの黒(その2)

クールベの《ルー川の洞窟》の黒は暗闇の黒だ。全体が見える位置に立つと、余計に洞窟は暗く見える。近づけば、洞窟は真っ暗ではなく、壁や天井の岩肌がかすかに見える。しかし、外は明るい、離れてみれば、洞窟の奥は真っ暗だ。

ここで我々は知覚と想像を分けることが出来る。われわれは黒く塗られたキャンバス表面を知覚している。その表面はなめらかな平面である。しかし、我々はそこに洞窟の暗い奥行きを見る。その暗い空間を知覚しているわけではない。この奥行きはピクトリアル・イリュージョンと通常はいわれているけれど、立体視のように錯視しているわけでもない。絵画表面があたかも凹んでいるように見えているわけではない。知覚しているのはあくまでもキャンバスの黒い平面だ。奥行きは、錯視でも知覚でもなく、想像だ。知覚に基づいた想像なのだ。

知覚しているのは黒いキャンバス表面である。しかし、その知覚している物理的平面の存在定立が無効にされ、そこに洞窟の暗闇の空間を見ている。キャンバスの平面に穴が穿たれている。この穴は知覚ではない。知覚しているのはキャンバスの平面だ。また、この穴は錯視でもない。錯視のような非現実感がない、チラつきもない。この奥行きは想像しているのだ。

しかし、絵画の想像は自由な想像ではない。知覚に基づいた想像だ。自由な想像のように勝手気ままにイメージを思い浮かべることはできない。赤い絵具が塗られた林檎を青い林檎に変えることはできない。セザンヌのリンゴはセザンヌがキャンバスの平面に描いたとおりに想像している。ところが、ここで知覚と想像の間に対立が生じる。グリーンバーグの言葉によれば「弁証法的緊張」だが、むしろ、ここでは、想像が知覚を抑圧していると言ったほうがよい。

図像主題がキャンバスの物理的平面の知覚を妨げる。もちろん絵画的想像(ピクトリアル・イリュージョン)はキャンバス平面の線や色の知覚に基づいているのだから、注意を向ければ、あるいは近づけば、キャンバスの物質的表面を見ることができる。クールベの《ルー川の洞窟》も、近づいてキャンバスの平面を見れば、洞窟の暗闇ではなく、少しオーキー色が混じった黒い表面が見える。少し離れてみると、微妙な色調の違いは消え、真っ暗な洞窟の暗闇が現れる。

それなら、ロスコの抽象画の黒はどうだろう。隠してくれる図像主題が無いのだから、絵画の平面が剥きだしになっている。確かに錯視も想像もない。ただ、知覚だけが働いている。

次回はロスコの黒について


2011.12.11[Sun] Post 02:05  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

⑤『ポロック展』:クールベの黒とロスコの黒(知覚と想像)

最初は下のクールベの《ルー川の洞窟》の暗闇を見て欲しい。次にロスコの「ブラック・ペインティング」の暗色を見て欲しい。出来れば、明るい矩形で暗色を囲んだ作品のほうが洞窟の暗闇と比較しやすい。両方を比べてどうだろう。違いがあるだろうか。


クールベの《ルー川の洞窟》:http://www.gustavecourbet.org/149648/The-Source-of-the-Loue-River-large.jpg

ロスコの「ブラック・ペインティング」:http://www.google.co.jp/search?q=mark+rothko&hl


もちろん違いはある。片方は具象画で、黒は暗闇を表している。見えないけれど、そこには歩いて入れる空間があり、水面も岩肌もある。もう片方は抽象画で、微妙で深みのある色合いがある。洞窟の暗闇も周りを隠してやれば、空間のイリュージョンは消え、暗闇は抽象的な暗色になる。ところが、ここで奇妙な入れ替わりが知覚とイリュージョンの間に生じる。何が起こったかそれは次回に。



2011.12.06[Tue] Post 00:09  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

④『ポロック展』:知覚・錯覚・知覚に基づく想像

前回、立体は知覚(物質性)が優位であり、平面は想像(イリュージョン)が優位だということを書いた。もちろん、彫刻にもイリュージョンはあるし、平面にも知覚はある。こうなるといつものように、話が複雑になって混乱してくる。もういちど整理しておく。

まず、立体と平面がある。立体と平面にそれぞれに具象と抽象がある。具象的な立体は彫像塑像で、具象的な平面は絵画(picture)だ。これらの分類は、対象の分類である。それに対して見る方、意識の区別がある。それが、これまでも繰り返し述べた「知覚、錯覚、想像」である。最後の想像は自由な想像ではなく、知覚に基づいた想像、すなわち、図像意識と言われるものだ。以下、想像と言ったら自由想像ではなく、知覚に基づいた想像、すなわち図像意識を意味することにする。これは立体の像もふくむ。

彫刻でも絵画でも、像を見ることは想像なのだが、絵画では容易に想像が働き、イリュージョン(図像主題)が見えるのだが、彫刻では知覚が優勢なので、イリュージョンが見えにくい。どうしても、人物や事物の形をした物質が見える。ジャコメッティの《台の上の4つの小彫像》は、小さい四人の人間の形をした鋳物を知覚する。しかし、じっと見ていると、等身大の人物が遠くにいるように見えてくる。これは錯視ではなく想像である。小像の想像空間は、絵画の想像空間と同じように、観者の知覚空間から切り離されている。彫刻では、この想像空間と知覚空間の区別は難しい。どちらも3次元の空間だからだ。しかし、絵画では区別は容易だ。絵画の想像空間は三次元だが、平面上の線や色の知覚は二次元だからだ。もちろん、絵画の奥行きの空間は想像しているのであって、錯視(的知覚を)しているのではない。

この「知覚に基づいた想像」は「(図)像意識」であり、立体像(彫刻)であろうと平面像(絵画)であろうと、客観的像を知覚しながら、それを物質的に存在するものとして捉えずに(現象学ではこれを中和化という)、想像に変容する。『絵画の現象学』で書いたように、モノクロ写真の灰色の肌をした5センチの少年を知覚しながら、それをピンクの肌をした120センチの少年として見て(想像して)いるわけだ。平面上にだんだん狭くなるように描かれた線路が、だんだん遠くに消えていくように見えるのは、錯視的知覚のイリュージョンではなく、平面的な図像の知覚をもとに奥行きの空間を想像しているのだ。

錯視のイリュージョンは両眼視差を利用した立体視や「首振り立体視」以外にもある。抽象画ではオプ・アートのチラつきがよく知られている。これは、藤枝晃雄は「視覚の生理化」と名付けて、絵画的イリュージョンとは区別している。また、具象画にもオプ・アートがある。「二本の親指が付いた手」が一本の親指が前後に動いているように「チラチラ」見えるのは、単純な生理的反応ではなく、親指は一本だという図像主題の影響を受けているのだけれど、これも、錯視的イリュージョンの仲間である。さらに立体像にも錯視的イリュージョンはある。ジャコメッティの《頭蓋を欠いた頭部》は欠けた部分が盛り上がって見えるし、ニキ・ド・サンファルの《世界(ナナの像)》は「立体遠近法」の錯視的イリュージョンが現れる。「立体遠近法」というのは、知覚の奥行きと、絵画の想像の奥行きを組み合わせて、錯視的イリュージョンを生み出す方法だ。シュテファン・バルケンホールの人物木彫やレリーフは、絵画的な方法と彫刻的な方法を組み合わせ、すなわち想像と知覚の組み合わせで錯視的なイリュージョンを生み出している。

芸術作品を見ることは、知覚と想像と錯視が組み合わさっていて、何がどういう具合にどのぐらいなのか分けることは難しい。絵画的イリュージョンは、知覚に基づい た想像ではあるが、知覚された物質性が完全に中和化されているわけではない。図像客体と図像主題は緊張関係にある。また、バルケンホールの作品のイリュージョンは知覚の空間と想像の空間が協働している。そういうわけで、グリーンバーグがいうように、モダニズム は支持体の平面性の知覚を率直に宣言しているのだ。

以上のことで、ひとまず、いえることは、絵画芸術の秘密は、「平面性」と「知覚に基づいた想像」にあるらしいことだ。そして奥行きあるいは空間には知覚空間と錯視的空間と想像空間があるのだが、おそらく絵画芸術の空間からは錯視空間を外すことができるように思える。というのは錯視というのは何度も指摘しているように、正常な知覚ない、錯視的知覚だからだ。われわれは、ここで、錯視的な空間でもなく、再現的な空間でもない第三のモダニズムの空間を考えなければならない。それは、もちろん抽象画の問題でもあるのだ。

おそらく、想像から知覚へ、そして図像から記号へと一旦は視点を変えて論じることになるだろう。


次回へ

2011.12.04[Sun] Post 23:57  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

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