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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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③『ポロック展』:《インディアンレッドの地の壁画》の黒いフレーム

愛知県美術館の『ジャクソン・ポロック展』で書き忘れていたことがある。《インディアンレッドの地の壁画》が黒いフレームに嵌められていたことだ。カタログの写真にはもちろんこの黒フレームは写っていない。それに、黒や白のポーリングの密度がキャンバスの縁では疎らになっていることだ。その両方が相俟って、毛玉のように絡まった線が絵画平面から余計に強く飛び出して見えたのではないか。この黒い枠は、ポロック自身の考えなのか。それとも、現在の所有者の趣味なのか。古典名画を金の額縁に入れるのとは違って、抽象画を黒いフレームに嵌めることは、随分と作品に影響する。図像主題のないポロックのポード絵画では黒い枠は、内部の黒や白の線に影響を与えているだろう。

今回の展覧会の最大の呼び物である《インディアンレッドの地の壁画》は、ポロックの絶頂期の1950年の傑作の一つだというのだが、そのあまりに暴力的なイリュージョンが、本来の絵画表面を見ることを不可能にしている。かなり近視的に焦点を合わせれば、立体視のイリュージョンは消え、絵画平面が見えてくるのだが、観者が少しでも動けば、すぐに運動視差を伴う奥行きの錯視が観賞を妨げる。藤枝晃雄は「見える所が絵画」になると言う。観者はまず何よりも全体が見渡せる位置から見たいと思う。しかし、黒枠が視野におさまる距離から見ると、どうしても立体視が現れ、「絵画」を鑑賞することができない。

図像主題のない抽象画を観賞するときは、いったい何を見ればいいのだろう。リンゴやヌードを見るわけに行かない。そんなものはもともと無いのだ。それなら線や色を見ればいいのか。デ・クーニングの一本の線は「おんな」を表しているけれど、ポロックのポーリングの線は何を表しているのか。展覧会カタログの巻頭にヘレン・A・ハリソンが『生きることと制作はひとつ』というポロック論を寄せている。最後の結論部を引用する。

ポロックにとって、芸術とは存在の本質、そして積極的なエネルギーの経路     彼自身の内部にある葛藤、そして20世紀半ばの文明が抱える実存主義的危機への対抗手段     であった。これらを明確に表明するため、ポロックは普遍的に理解することのできる絵画言語を発明したのである。この展覧会で展示される作品は、この彼の功績の射程と深さを明らかにするもである。


日曜画家ではないのだから、「制作が生きること」なのは当然として、「存在の本質」とか「エネルギーの経路」とか「内部の葛藤」とか「実存的危機」とか、おそらく、アクション・ペインティングの理論を無理矢理、実存主義や精神分析でアレンジしたものだろう。たしかに、初期や晩期の作品にはポロックの苦悩の表現、あるいは深層心理といったものが認められるが、絶頂期のポード絵画には主観的な表現が皆無とはいわないまでも、表現主義といえるほどには無いと言える。

それならポード絵画に何を見たら良いのか。東京新聞(11/12)の文化欄に古谷利裕が 「MOTコレクション展『布に何が起こったか?/1950~1960年代の絵画を中心に』」についての美術評『揺らぐ表面と支持体の関係性』の中で、「表面とは我々が見ている『物の一番手前』に位置する面で、支持体とはその『見えるもの』を支えている『見えない』物質的基盤のことだ。」という。これは、60年代末のフランスの芸術運動「シュポール/シュルファス」の思想なのだが、古谷利裕は、この見える表面と見えない支持体の関係を「見る事の見えない構造」というのだ。こうなると、いつものことなのだが、古谷利裕の言っていることは、キーワードを文学的哲学的な修辞でこねくり回すばかりで、絵を見ることの意味が皆目分からなくなる。

この「構造」というのはいったい何か。構造主義の構造のことなのか。たとえば、目に見える婚姻制度の背後に見えない交換の構造があるという。あるいは、言語記号の差異のシステムのような構造が表面と支持体の間にあるというのか。擬似哲学的な理論はともかく、古谷氏は表面と平面をごっちゃにしている。表面は古谷氏も言うように「物の一番手前」だから、彫刻にも絵画にも表面はある。シュテファン・バルケンホールの木彫は木肌の表面もあるし、彩色がしてあるので絵具の支持体にもなっている。「支持体と表面」ということであれば、彫刻と絵画に区別はない。絵画もまた平たい3次元の立体なのだ。

それなら、「支持体と表面」ではなく、「立体と平面」はどうだろう。ここで我々は、グリーンバーグの平面とイリュージョンの問題に直面する。グリーンバーグは平面性をモダニズムの自己批判の視点から論じているので、ここでは、より明快に立体と平面の違いを述べている藤枝晃雄に従っておくと、平面(絵画)はイリュージョンを持ちやすく、立体(彫刻)は持ちにくいということだ。

この媒質は(絵画)何も描かれていない支持体=純白のキャンバスですら壁に掛けられることにより物体性を超えたまさにミニマルなイリュージョンをもたらす。(『現代芸術の不満』p76)

彫刻が絵画よりも現実的であるということは、そのミィディアムが平面芸術に比べて、イリュージョンをもちにくい性格をおびているからである。(『現代芸術の彼岸』p102)


なぜ、彫刻がイリュージョンを持ちにくいかは、これまでも、繰り返し述べて来たことだけれど、もう一度言っておくと、立体では基本的に知覚が優越的に作動するからだ。現実的な三次元の対象をみるときは、両眼視差や運動視差、輻輳角と水晶体の焦点調節などが働いている。そして、このことはどんなに強調しても強調しすぎることはないのだが、知覚では、知覚している事物が置かれている空間と観者が立っている空間とは連続した同一の空間なのだ。このことは、観者が動けば彫刻は違ったように見えるということだ。そして、むしろ、見える形が変化するということが、まさに三次元の事物の知覚を可能にしているのだ。

これに対して、絵画では、両眼視差も運動視差も、そして輻輳角も水晶体の焦点調節も働かない。というのも、平面は観者の位置を変えても、三次元の知覚とは異なり、描かれた事物の形は変化しないからだ。近づいたり遠ざかったりすれば、キャンバス表面までの距離が変化するから、水晶体の焦点調節もそれに応じて変化する。しかし、絵に描かれた事物の遠近に応じて焦点調節が異なるわけではないし、両眼視差も運動視差も生じない。観者が絵画に描かれた遠景を見るときと近景を見るでは、同じ距離の絵画表面に焦点が合っている。遠景も近景も観者からは同じ距離の同じ物理的平面上に知覚されており、運動視差も両眼視差もないのだから、絵画の奥行きというのは知覚ではなく、イリュージョンだということになる。

この具象画の絵画空間は、グリーンバーグの言う「人が歩いて入っていける自分を想像し得るような空間のイリュージョン」のことだが、これは本来の意味でのイリュージョンではない。われわれは、イリュージョンをオプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンに分けた。歩いて入れるのはピクトリアル・イリュージョンの方だ。

オプティカル・イリュージョンとはそうでないのにあたかもそうであるかのように見える錯視的知覚(イリュージョン)のことだ。両眼視差のある二枚の写真を平行視(交差視)すると立体的に見える。しかし、その立体視、あるいは奥行きは「正常な」知覚ではない。何か浮き上がったような、非現実的な感覚が伴う。交差法ならバーチャルな焦点が写真の表面より手前にあり、平行法なら表面より遠くにあるからだ。これは明らかに「正常」ではない錯視的知覚だ。

それなら立体視を止めて、一枚の写真としてではなく、普通に二枚の写真として見れば、それは通常の光沢のある印画紙の知覚である。そこに写真の客観的図像が見える。それぞれの写真に注意を向ければ、そこには奥行きや三次元の事物が見える。しかし、この奥行きは、立体視のオプティカル・イリュージョンとはまったく異なる奥行きのピクトリアル・イリュージョンである。そこにはオプティカル・イリュージョンのように「正常ではない知覚」という非現実感はない。

絵画のいわゆるイリュージョンは「知覚に基づいた想像」であり、錯視的な知覚ではない。このことが絵画芸術の最も重要なことなのだが、なかなか理解されない。もう一度確認しておくと、絵画を見るというこは、知覚、錯視、知覚心理学的視覚、知覚に基づいた想像の4つである。これらはすべては知覚の仲間である。自由な想像や見えない構造、あるいはコンセプチャル・アートの概念などは、絵画を見ることとはさしあたって関係のないことだ。

次回につづく。










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2011.11.28[Mon] Post 21:36  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

②『ポロック展』のあと、所蔵展でモーリス・ルイスの《デルタ・ミュー》を見た。

ニョウボは、現代美術館のロスコ展で涙を流したのを今でも悔やんでいる。あれは、浪花節に感動したようなものだと言い張る。それでも、川村記念美術館の《緑、黒、黄褐色のコンポジション》や大原美術館の《Cut Out》を見て、ひょっとしたら、ポロックが分かるかもしれないと、名古屋に来る前は少しは期待しているような口ぶりだった。ところが、実際に見て、やっぱり分からないという。マチスのような空間があると思ったけれど、無い。黒だけで何でも解決しようとしている。人の形や顔が見え隠れして煩わしい。横長の作品は額に入れた「書」に見える。やっぱり抽象画はわからない。マチスが一番いい等々。

ニョウボはそう言ってガッカリしているし、私の方といえば、立体視やら運動視差やらのオプティカル・イリュージョンのために、目がおかしくなり、まともな絵画的イリュージョン(想像)を見ることもできなくなり、ふたりとも草臥れてロビーに出た。すると所蔵作品展の受付の女性に「こちらもどうぞ」と案内された。ニョウボはどういうわけか見てくると言う。私はソファーに座って待つことにした。戻ってきたニョウボは、ルイスがあるという。中村一美も白髪一雄もあるという。「どうする、ルイスはちょっといいわよ」と、滅多に言わないことを言う。それならと、見ていくことにした。

展示室5のテーマは『20世紀の美術 ポロック以後の絵画を中心に』がテーマだった。ニョウボはまっすぐにルイスの《デルタ・ミュー》の前に行き、「ほら、白がいいでしょう」と言った。確かに「白がいい」 わたしはすぐに藤枝晃雄がルイスについて述べた言葉(『現代美術の展開』)を思い出した。

これは、ロウ・キャンバスの使用によって、キャンバスを絵具で染めた部分とキャンバスの地とを物理的のみならず視覚的に同次元化するためである。そして、この同次元化において最も重要なのは、キャンバスの他の白もふくめて、すべてが色彩になることである。その白は、絵画制作における背景を描くための空白ではない。(『最後の絵』 フォーマリズムの平面についてp31『現代美術の展開』)


この作品は、川村記念美術館の『モーリス・ルイス 秘密の色層』展で見たはずだが、覚えがない。どちらにしろあの展覧会では、ヴェイル絵画もアンファールド絵画も、いくつも並べてあって、ステイン技法といっても、いろいろな抽象画の分類のひとつだと思っただけだったような気がする。同一作家の似たような抽象画がならべてあると、表面的な違いばかりに目がいって、作品そのものを見ることが出来なくなるのかもしれない。もちろん、これは私の鑑賞眼の未熟のためなのだが。

ヴェイル画を『秘密の色層』展で見たときは、ユザワヤの衣裳用の布地売り場に紛れ込んだような気分になったけれど、後日、川村記念美術館の常設展示で《ギメル》をひとつだけ見たときは、感動した経験があるのだけれど、今回のアンファールド絵画もそんなことなのかもしれないと思った。白がいいというよりも、白の三角形、帆の部分が盛り上がって見えると言う。たしかに、白の部分が余白でも地でないことはもちろん、図というだけでは済まないような空間の密度があるように見える。これもポロックの錯視の後遺症なのかもしれない。

余白といえば、李禹煥の『余白の芸術』(『李禹煥論』)を思い出すが、あれは、どちらかと言えば、空虚な思わせぶりな余白だった。李禹煥の作品には支持体の白を残した作品や、筆のカスレを生かした抽象画があるが、それはたいていは余白あるは背景であって、白ではない。ポロックの晩期のブラック・ポード絵画も、黒が図であり、白は地なのだが、それと違って、ルイスの余白が密度の高い白い色面に見えたのは、ステイン技法による絵具と支持体と余白の同一次元化だけが理由ではない。しかし、それが何かはハッキリとは分からない。

抽象画を見るには、ある構えのようなものが必要だといったのは上田高弘である。絵画を見るということが、その割合は別にして、知覚と錯覚と想像を働かせることなのは、抽象画でも具象画でも同じことだ。第五展示室の『ポロック以後』の抽象画をひと通り見たけれど、ルイスの《デルタ・ミュー》を見た後では、どれも、みすぼらしい作品に見えた。並べると、フォンターナの《空間概念》、フォートリエの《黒の青》、白髪一雄、斎藤義重、堂本尚郎、ステラの《リヴァー・オブ・ポンズⅣ》、桑山忠明《茶白青》、中村一美《破舎仏涅槃図Ⅰ》、それから辰野登恵子の《Untitled95-1》があった。他に根岸芳郎と松本陽子の作品があったが、ただステイン技法を使っているということ以外に、そこに掛けてある理由が分からない不思議な絵だった。

絵画を見ることはピクトリアル・イリュージョンを見ること、すなわち「知覚に基づいた想像」を働かせることだ。図像主題のない抽象画でも想像を働かせる事は出来るのではないか。たぶん抽象画がつまらないのは私が抽象画を見る構えができていないだけかもしれない。何度も挫折している藤枝晃雄の『ジャクソン・ポロック』にもう一度挑戦するつもりだ。


2011.11.19[Sat] Post 02:11  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

①『ポロック展』を見るために名古屋まで車で行ってきた。

往復、7時間近く運転して愛知県美術館に『ポロック展』を見に行ってきた。その甲斐があったかどうか、初期のものから晩期のものまで展観して、それなりに見応えがあったけれど、最盛期の大作がなかったのは残念だった。

ポロック論については、もう一度東京で見てから書くことにして、われわれが問題にしていた運動視差について述べておこう。一番大きな《インディアンレッドの地の壁画》を見て驚いた。隣の展示室の突き当りの壁に遠く見えたのだが、ステレオグラムのように、絡まった線が浮き上がって見えたのだ。奥行きのイリュージョンなんて生やさしいものではない。まるで、ステラの立体絵画のように、絵画表面から、盛り上がってみえる。近づいていくと、浮き上がりは次第に少なくなり、さらに近づくと、オプティカル・イリュージョンはほとんどなくなり、普通の絵画的奥行きが見えてくる。そこで、首を動かせば、運動視差が生じ、奥行きのイリュジョンが現れる。

抽象画では、空間を二層あるいは多層にして、運動視差を容易に生じさせる技法がひろく見られる。それは主として「重ね合わせ遠近法」を使い、明暗遠近法や大小遠近法を補助にして、奥行きの(ピクトリアル・)イリュージョンを生み出し、視点の移動や眼球の運動、マバタキなどのキネステーゼによって、想像しているだけの奥行きがあたかも三次元の遠近の知覚のような運動視差を生じさせるのだ。

《インディアンレッドの地の壁画》を遠視したときのような絵画表面から飛び出してくる立体視は初めて見たのだが、運動視差をともなう奥行きの錯視は、例えば、「風のかたち」のHPにある中村一美や湯浅龍平の作品に見られる。中村一美については、すでにブログ記事『中村一美展再訪:やっぱり抽象画は難しい』に書いている。

さらに、絵画の多層性について探求しているのがゲルハルト・リヒターだ。「Overpainted Photographs」のシリーズはもちろんのこと、その他「Squeeze」の技法を使った作品以外にも運動視差が生じるような作品が沢山ある。(『ゲルハルト・リヒター』を参照)

次回につづく

2011.11.16[Wed] Post 23:02  CO:0  TB:0  ポロック展  Top▲

ポロックと桑久保徹の「近視と遠視」

前回のポロックの記事で、藤枝晃雄の『現代美術の〈不安〉』から「近視と遠視」のところを引用した。そのことで、桑久保徹のことを思い出した。はじめに、藤枝晃雄の該当箇所をもう一度引用する。

ポロックにおける緊張は、焦点のあるようなないような、遠視と近視の状態の間におけるそれである。
ポロックの絵画は、近視と遠視の間に立って焦点を求め、縮小したり拡張したりする。それはキャンバスという決定的な焦点のなかにはじめから描かれるのではなくて、描かれているものが絵画になるのである。ポロックの作品から芸術表現が失われているのではないが、画面に近づけば、それは不規則な網目でしかないし、遠ざかれば壁になってしまうといわれるのはそのためである。(p27)


それから、「『桑久保徹』②補遺:絵画の解体」の冒頭の部分を引用する。

『桑久保徹』①で気付かなかったことがある。大きな壺の絵に小さな人物が描かれているので、いったい壺が巨大なのか、人物が妖精なのか、視線がまごつくと書いたけれど、これは観者と作品の距離をコントロールするための桑久保の仕掛けたトリックだ。壺は大きく描かれているので観者は離れて見る。すると人物は小さいので良く見えないので、近寄って細部を見ようとする。そうなると、今度は知覚が作動し物質的な絵具が現れて、かわりに絵画的なイリュージョンが後退する。


同じように「近視と遠視」の問題が書かれている。観者と作品の距離が遠近の二つに分離している絵画がある。スーラの点描画、会田誠の《灰色の山》などもそうだといえる。それに対してポロックのポード絵画は遠近が分離しているのではなく、遠近の間のどこに立っても、そこから見える範囲が絵画であると藤枝晃雄は言っているように思える。

明日、ポロック展に行く。そこで作品を見てから考える。『桑久保徹論』の①と②を読んでおいて下さい。


『桑久保徹』①ARTIST FILE 2010(国立新美術館)【http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-688.html
『桑久保徹』②補遺:絵画の解体 【http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-694.html

2011.11.15[Tue] Post 00:02  CO:0  TB:0  -ジャクソン・ポロック  Top▲

『生誕100年 ポロック展』愛知県美術館

ポロックの個展を見る機会は一生訪れないと思っていた。それが、日本初回顧展と銘打って11月11日から愛知県美術館で『ジャクソン・ポロック展』が開催される。東京の国立近代美術館でも開催されるのだが、今回は名古屋まで行くつもりだ。

藤枝晃雄が「ポロックが分からないものども」と言うとき、それは絵が分からない評論家と言う意味だが、何を隠そう私もポロックが分からない。そのことは以下のブログを読んでもらえば判る。


ジャクソン・ポロックの問題(1)

ジャクソン・ポロックの問題(2)

ポロックが易しいというなら、自分でやってみろ。【首振り立体視①】

ポロックの空間の秘密  【首振り立体視②】


分らないのは、あまりポロックを見ていないからだ。ロスコに感動したのは、東京都現代美術館の個展(1996年)で、沢山の作品を年代順に見たからだ。そう思って今回のポロックの回顧展を楽しみにしている。

首振り立体視で見えた「運動視差」は、オプティカル・イリュージョンであって、ピクトリアル・イリュージョンではない。現実の三次元の空間ではないにも拘らず、あたかも三次元空間のような運動視差が生じているわけだ。運動視差のイリュージョンが生じるのは、そこに何らかの遠近のイリュージョンがあるからだ。少なくとも、ポロックのポード絵画に「重なりの遠近法」と「大小(細太)の遠近法」があることは容易に判る。もちろんこれだけでは、運動視差のイリュージョンがこれほど強く生じるとは思えないが。

藤枝晃雄の『ジャクソン・ポロック』は、何度か挑戦したけれど、初めのほうで挫折した。かわりに『現代美術の展開』に収められた『現代美術の〈不安〉』に次の言葉を見つけた。

ポロックにおける緊張は、焦点のあるようなないような、遠視と近視の状態の間におけるそれである。
ポロックの絵画は、近視と遠視の間に立って焦点を求め、縮小したり拡張したりする。それはキャンバスという決定的な焦点のなかにはじめから描かれるのではなくて、描かれているものが絵画になるのである。ポロックの作品から芸術表現が失われているのではないが、画面に近づけば、それは不規則な網目でしかないし、遠ざかれば壁になってしまうといわれるのはそのためである。(p27)


相変わらず難解であるが、ポロックの遠近法(奥行き)の秘密が、遠視と近視のあいだの焦点の問題だと言っている。もちろん焦点の問題だとすれば、それはオプティカルなイリュージョンと思われるが、あるいはそうではなくピクトリアルなものかもしれない。今のところ私には、それが何か分からない。ただそれが運動視差のイリュージョンを生んでいることはまちがいない。名古屋でポロックを見ながら考えたいと思う。






2011.11.11[Fri] Post 01:28  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

島田章三の《課題制作》とマチスの《ニースの大きな室内》:遠近法と三角形

図形と図像の違いについては、これまでにも触れてきた。三角図形や「ハの字」が狭い方に向かって遠ざかる奥行きの感覚と、線路や道路や並木道が遠ざかる遠近感は異なる。前者は図形で、後者は図像だ。もちろん図形を図像に無理矢理見ることは出来るし、どちらにも見える絵を書くこともできる。しかし、それはたいていは不安定なものだ。

さて、次の独立法人国立美術館の検索ページで島田章三の《課題制作》を見て「三角形」や「ハの字」を探してほしい。

所蔵作品総合目録検索システム 島田章三:課題制作(1980年)

三角形はホワイトボードのハの字を含めて全部で6つある。このなかでハッキリと遠近法的奥行きがあるのは、白板のハの字だけで、三角定規をふくめてあとは、平面的な図形になっている。鋭角の方向はバラバラであり、三角形や矩形はキュビスムの絵画言語なのだが、多視点を総合するようなつながりはなく、床や壁に散らばっている。中でも床に描かれた(と思う)赤と黒の1/4の円とホワイトボードの台座の矩形と丸まった紙と三角定規の面がちぐはぐである。ちぐはぐなのは構わないが、肌が灰色の人物の背景としてどんな効果を上げているのかわからない。

マチスの《ニースの大きな室内》にもハの字と三角形がある。フレンチウィンドウの下の羽目板が透視図法のハの字になって、室内空間を女性がいるヴェランダにつなげている。もう一つの大きな三角形は開けたモスリンのカーテンだ。フックに留めたタッセルから天窓まで、カーテンの黒いフチが三角形になっている。この三角形は図形ではなく図像である。具象的事物のカーテンが作っている三角形だからだ。その三角形は床から天井に、窓枠に沿って、上に垂直に伸びている。三角形図形のように、頂点に向かって、遠くに消えていく奥行きのイリュージョンを見ようとしてもなかなか見えない。なぜならそれは天井から吊るされたカーテンだからだ。

もちろんデッサンのちぐはぐはある。しかし、それは、《課題制作》と異なり、豊かな空間を生み出している。カーテンと「開けられたフランス窓、ブラインド、明かり取りの窓、そして壁」の間に空間の「イリュージョンがある。特筆に値することだが、明かり取り窓の花弁がカーテンを透き通して見え、同時に陽の光が当たり、カーテンに花弁の影を作っている。

これ以上付け加えることはない。マチスの《ニースの大きな室内》と島田章三の《課題制作》を見てもらえばいい。

2011.11.09[Wed] Post 22:45  CO:0  TB:0  美術評論  Top▲

〔23〕遠近法と空間

《ニースの大きな室内》で、空間あるいは奥行きについて気づいたことを書いておく。

ひとつ化粧テーブルだ。テーブルというのは水平をあらわす。セザンヌでは水平が崩れて、キャンバス表面にせり上がっている静物画がある。ここでは、床がテーブルの右と左でズレており、左側が右に向かって低く傾斜している。そのズレた両側の床を水平のテーブルがつなげているのだが、その白い矩形が室内空間と窓外の空間を切り離している。心なしか、テーブルの右上の隅が迫り上がって見える。

もう一つの矩形が、壁に掛かっている絵だ。テーブルと床は水平だが、絵は壁や窓と同じように垂直である。この絵の中の壁に掛けられた絵は、この絵の縮小版になっている。左の縁の赤い線は元の絵にもあるし、右側の緑の線はフラインドだし、その左隣のモスリンのカーテンも縮小版に描かれている。そしてヴェランダの女性は、左下、化粧テーブルと鏡のあたりに描かれている。

もちろん縮小版といっても、そのなかに消失点があるわけではなく、言わば、一種の凝縮点で、窓外の遠景がわれわれの視線を遮るとするなら、壁に掛けられた絵は、手前の室内の空間を支えている。マチスは作品の中に窓や絵画を好んで描く。それが窓なのか絵画なのか区別がつかないこともある。窓が風景画に、絵画が窓や隣室に見えることもある。それは空間のイリュージョンの連続性によるだろう。

絵画のイリュージョンについて整理しておこう。絵画は紙やキャンバスの平面に描かれた線や色である。紙の上に丸を描く。数学の教科書にある円の図形である。円の内側は図で外側は地である。これはゲシュタルト心理学で言う図と地であり、反転することもある。これがイルージョンかどうかは難しい。現実の3次元の知覚世界でも事物が背景から浮き上がってみえる。もちろんこれが地と図の関係と同じではない。平面の知覚と立体の知覚は違うものだからだ。図形の知覚はあくまでも平面の知覚だが、立体はもともと背景より手前にあるからだ。これは両眼視差や、単眼でも運動視差があるからだ。

それでは、円に陰を付けたらどうなるだろう。これは「陰影による奥行き知覚」として知られた現象である。下に陰をつけると凸で、上に陰をつけると凹に見える。リアルに陰を描いたか、雑に描いたかで違うけれど、平面の上の濃淡に見えずに、球や凹みに光が当たって陰ができたように見えるのだ。これも平面上の濃淡や球や凹みに見えて不安的な現象といえる。特に上に陰がある凹みは容易に凸にも見えるようだ。凸や凹に見えるのは不安定なこと、そして、その時独特の非現実感が伴うことによって、それがオプティカル・イリュージョンであることが分かる。陰影を付けたハイパーリアルな球が浮き上がって見え、返って非現実的に見えることもある。この場合は、浮き上がった球体のイリュージョンが円の濃淡を付けた図形の知覚を隠してしまい、イリュージョンが安定的に見えることもある。そして、この場合は容易に首振り立体視(運動視差)が見える。球体と背景の間に遠近のイリュージョンが現れるので、頭を動かすと擬似的な運動視差が見えるのだ。(それから、序に言っておくと、上に陰をつけて凹んで見える方の円を首振り立体視をすると、あるいは瞬きを繰り返すと、次第に凸に見え浮き上がり、運動視差のイリュージョンが見えてくる。次のサイトで試してください。)

つづく




2011.11.09[Wed] Post 00:44  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

『島田章三展』横須賀美術館(絹谷幸二評)

展覧会を見たわけではない。東京新聞の展評『島田章三展』に添えられた作品《課題制作》(1980年)が目を引いたからだ。と言うのも、最近は遠近法のことばかり考えていたので、透視図法で描かれたホワイトボードや定規類、ボードの描かれた円や三角の図形が目を引いたのだ。

書いているのは絹谷幸二で、展評ではなく紹介文だそうだ。島田章三は教師として学生の指導に熱心だったこと、自分も公私にわたりお世話になったこと、堅牢なマチエールに裏付けされた画風や同じく画家である鮎子夫人との二人三脚、今後とも多くのことを学んでいきたいことなど、賛辞を贈っている。こんな紹介文を読むと、人は島田章三の展覧会に行きたくなるのだろうか。画壇の大物同士の付き合いを述べただけの紹介文である。

最初見たときはキリコの形而上絵画を思い出した。「堅牢なマチエール」と言われるようなところは公募展風の作品にも見える。しかし、横須賀美術館の『島田章三展』の解説には、島田はヨーロッパ留学中に「キュビスムを日本人の言葉(造形)で翻訳」することを自らの課題として見出すとあるけれど、わたしにはキュビスム風のところは見えない。多視点の空間と言うより、多様な絵画言語が雑多に散りばめられているように見える。

ホワイトボードの誇張されて透視図法、そこに描かれた円と三角形が正面を向いている、床と壁が同じ表面でつながっている、白と黒の幾何学的な分割、、肩と腕の大きさが左右不揃い、無彩色の灰色の描写と彩色描写の混交、中でも、人物が石像のように灰色なこと、そして、セーターとオーバーオールとスニーカーのリアルな描写などなど、どこかちぐはぐで、眼ではなく、頭で描いているのではないかと疑われる。

もちろん、実作を見なければなんとも言えないが、すくなくとも写真でも十分に分かる遠近法やその他の描写の技法から推察して、マチスの《ニースの大きな室内》のような空気感のある室内とは思えない。もちろんこれが「キュビスムを日本人の絵画言語に翻訳」したものだとすれば、それはたぶんそういうことなのだろう。わたしにはそれ以上のことは分からない。




2011.11.07[Mon] Post 23:02  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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